西村京太郎を模倣し、『JR福知山線脱線事故』を題材にした小説、「終着駅の迷宮」(ラビリンス)第五十一章・第五十二章

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第五十一章 閉ざされた環

 東京地方裁判所の大法廷は、異様な緊張に包まれていた。

 これまで幾度となく証言や証拠が提出され、世間の耳目を集めた「福知山線脱線事故裁判」も、いよいよ終盤に差し掛かろうとしていた。

 法廷の壁に掛けられた時計が午後一時を指すと、廷吏が木槌を打ち鳴らし、開廷を告げた。

 傍聴席には事故遺族、報道陣、そして一般市民が詰めかけ、すでに立ち見が出るほどであった。人々の視線は、被告席に座る鉄道会社の元幹部たちに注がれていた。

 裁判長は、重苦しい沈黙の中で静かに口を開いた。

「本日は、最終弁論に入る前に、新たに提出された証拠について検討を行う」

 その一言で、法廷内がざわめく。

 証拠はすでにほとんど出尽くしているはずだった。にもかかわらず、ここにきて新しい資料が出てきたというのだ。

 証拠を提出したのは、弁護側でも検察側でもなかった。事故遺族の代理人であり、民事訴訟と並行して真相究明活動を続けていた弁護士グループだった。

 その中心人物である弁護士・神谷が立ち上がり、重厚な声で言った。

「この証拠は、当初の開示請求において鉄道会社が秘匿していた内部文書の写しです。事故前に行われた運転士研修の内容を記録したマニュアルであり、そこには速度超過に対する処分規定が詳細に記されています」

 ざわめきが一段と大きくなる。

 そのマニュアルには、運転士が制限速度をオーバーした場合、たとえ僅かな超過でも厳罰に処されることが明記されていた。減点方式による累積処分、減給、配置転換、さらには「再教育センター」送りの規定まで記されていたという。

 検察官はすぐに立ち上がった。

「これが事実であれば、運転士が事故当時、過度な緊張と焦燥に駆られていた可能性を裏付けるものです。つまり、会社の組織的圧力が直接の要因となったことを示す有力な資料です」

 裁判長は資料を手に取り、黙々とページを繰った。傍聴席の誰もが息を呑む。

 被告席の元幹部たちの顔色は、次第に蒼白になっていった。

 その様子を、記者席に座る新聞記者・宮坂は見逃さなかった。

 彼はこれまでの取材で、会社側が一貫して「個人のミス」を強調してきたことを熟知していた。だが、この新証拠が認められれば、議論の重心は一気に「組織的責任」に移るだろう。

 傍聴席の最前列には、事故で娘を失った女性・野村が座っていた。彼女は手を強く握りしめ、唇を噛んでいた。

 娘を返すことはできない。だが、せめて事故の真の原因が明らかになり、同じ悲劇を繰り返さないための礎になることを願ってきた。その祈りが、今ようやく形になろうとしていたのだ。

 一方、弁護側の弁護士は必死に反論した。

「この文書は正式なものかどうか不明です。捏造や改ざんの可能性が否定できません。さらに、たとえ本物であったとしても、それが直接事故の原因につながった証拠にはなりません」

 だが、裁判長は冷静に告げた。

「文書の真正性については、専門鑑定を行う。だが、内容そのものは極めて重要であり、検討の余地が大いにある」

 法廷の空気は、もはや揺るがぬ方向に傾いていた。

 ――休廷の後。

 記者クラブに戻った宮坂は、同僚たちに向かって言った。

「今日の証拠は決定的だ。会社は隠しきれなくなった」

 若手記者が尋ねる。

「じゃあ、これで有罪は確実ですか?」

 宮坂は首を振った。

「裁判はそんなに単純じゃない。だが少なくとも、事故の責任を一人の運転士に押し付ける筋書きは崩れた。社会全体が、組織のあり方を問われることになるだろう」

 彼の言葉に、誰もが黙り込んだ。

 夜、宮坂はホテルの自室で原稿を書きながら、ふと窓の外を見た。街の灯りが川面に映り、静かに揺れている。

 あの日の脱線現場を思い出す。捻じ曲がった鉄路、押し潰された車両、泣き叫ぶ遺族たち。

 その光景を忘れない限り、真実を追い続ける意味があるのだと、改めて自分に言い聞かせた。

 ――そして再び、法廷の日々は続く。

 閉ざされた環のように、同じ問いが繰り返される。

「誰が責任を取るのか?」

「なぜ、あの日、あの列車は止まれなかったのか?」

 その答えは、まだ完全には見えていなかった。だが確実に、核心へと近づきつつあった。

 

第五十二章 崩れる証言

 東京地方裁判所の法廷は、午前十時きっかりに開廷した。

 傍聴席は今日も満員で、特にメディア関係者の数が目立っていた。昨日提出された新証拠――「速度超過に関する社内マニュアル」の存在は、新聞の一面やテレビのトップニュースで大きく報じられており、その影響が色濃く出ていた。

 廷吏が「全員起立」と告げ、裁判官が入廷する。

 静まり返った法廷に、裁判長の低い声が響いた。

「では、証人尋問を続ける。本日は、当時鉄道運行部に所属していた元部長・白石俊郎氏にご出廷いただく」

 白石は六十代後半、白髪交じりの髪を撫で付けた人物だった。

 これまで会社側の要職を歴任し、事故後は早期退職して表舞台から姿を消していたが、検察側の請求により証人席に立つことになったのである。

 その顔には緊張の色が濃く、視線は落ち着かずに揺れていた。

 検察官が口火を切った。

「白石さん。あなたは当時、運行部長として運転士の勤務管理や研修制度を統括していましたね?」

「……はい、そうです」

「では伺います。昨日提出されたマニュアルは、あなたの部署で作成されたものと理解してよろしいですか」

 白石の顔に一瞬、硬直が走った。

「……私は、その文書について詳しくは存じません。部署内で作成された可能性は否定できませんが、正式な決裁を経た記録ではないと思います」

 かすれた声で答えると、傍聴席がざわめいた。

 検察官は一歩踏み込んだ。

「ではお尋ねします。速度超過に対する厳罰――たとえば減点累積による配置転換や再教育センター送りの規定は、実際に運転士の間で運用されていたのではありませんか?」

「……その点については、多少の誤解があるかもしれません。会社としては安全運行を第一に掲げており、指導の一環として……」

 白石の言葉は途中でかき消された。

 検察官が机上の資料を叩き、声を強めたのだ。

「誤解? しかし、実際にこのマニュアルに沿った処分を受けた運転士が存在するのです! 彼らの証言も我々は確保しています。あなたが知らなかった、という言い逃れは通用しません」

 傍聴席の遺族たちがざわめき、数名の記者がペンを走らせた。

 白石は汗を拭い、声を震わせながら言った。

「……確かに、そういう運用が現場レベルで行われていた可能性はあります。しかし、私個人が直接指示したことではありません」

 その瞬間、検察官の口元に冷たい笑みが浮かんだ。

「つまり、あなたは運行部長でありながら、現場の処分規定について把握していなかった、と。責任者として、それは許されることでしょうか?」

 白石は言葉を詰まらせた。

 証言は次第に矛盾を露呈し、彼の防御は崩れていった。

 ――休廷。

 傍聴席から出てきた遺族の野村は、記者宮坂に声をかけられた。

「今日の証言、どう受け止められましたか?」

 野村は深い溜息をつき、震える声で答えた。

「責任を逃れようとする人の姿は、もう見飽きました。でも……少なくとも、会社が安全よりも規律を優先していた実態が少しずつ明らかになってきたと思います」

 宮坂は頷いた。

 彼の手帳には、今日だけで十数枚に及ぶメモが走り書きされていた。

 ――「白石、証言崩れる」「マニュアル存在の事実認める方向へ」。

 夜、ホテルの一室で宮坂は原稿を書きながら、自らの胸の奥に湧き上がる不安を抑えきれなかった。

 この裁判は、果たして「真相」にたどり着けるのだろうか。

 会社側の証言は次々と揺らいでいる。だが、それと同時に、組織の深部に踏み込めば踏み込むほど、誰一人として全面的に責任を認めようとはしない。

 まるで迷宮の壁に阻まれ、出口を探して彷徨っているかのようだった。

 その時、電話が鳴った。

 差出人は神谷弁護士だった。

「宮坂さん、次の公判で爆弾が落ちますよ。会社の上層部が、事故の三か月前に開いた内部会議の議事録が見つかったんです」

「議事録……?」

「ええ。そこには“速度遵守を徹底させるため、処分基準をさらに厳格化せよ”と明記されています。白石の証言と真っ向から食い違う内容です」

 宮坂は息を呑んだ。

 ついに核心に迫る証拠が出ようとしていた。

 窓の外を見やると、街の灯りが雨に滲んで揺れていた。

 この裁判は、もはや一企業の問題ではない。

 日本の鉄道というシステム全体の闇を暴く闘いに変わりつつある。

 宮坂はペンを強く握り直し、机に向かった。

 ――明日、また法廷の扉が開かれる。

 その先に待つものは、真実か、それともさらなる迷宮か。

(第五十三章につづく)

※この小説はフィクションであり、実在の人物や団体とは一部の史実を除き関係ありません。西村京太郎風のリアリズムを重視し、架空の登場人物を通じて事件の構造に迫っていく構成になっています。

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