西村京太郎を模倣し、『JR福知山線脱線事故』を題材にした小説、「終着駅の迷宮」(ラビリンス)第五章・第六章

目次

第五章 記録の闇

大阪・弁天町、JR西日本本社の一角。

八階にある「技術戦略本部」は、事故発生以来、社内でも極端に閉ざされた場所と化していた。

重たい扉を開けた十津川警部と亀井刑事は、受付職員に面会を告げた。

「本部長代理・藤原浩一氏に、先日の件で追加の聞き取りをしたく」

「ただいま確認いたします」

職員が奥へ姿を消す。その間、亀井が小声で言った。

「本当に、あの男が鍵を握ってるんですかね……」

「内部文書、元運転士の証言、告発者のログ解析……点が線になりつつある。あとは、彼の口から“なにを語らせるか”だ」

やがて、ドアの奥から現れたのは、端正なスーツに身を包んだ男——藤原浩一だった。

眼鏡の奥に光る眼差しは、相変わらず油断ならない。

「また、警察のご厄介になるとは……まあ、お入りください」

応接室に通され、十津川はゆっくりと切り出した。

「先日、松田和央氏から、貴殿が“運転士の誤作動と記録装置の仕様”について詳細に尋ねていたとの証言がありました」

藤原の表情に、わずかに緊張が走った。

「……彼がそう言いましたか」

「さらに、事故当日の制御ログについて、“社外に出されたものと実際の記録に齟齬がある”との指摘も出ています」

藤原は腕を組み、口角をわずかに吊り上げた。

「それが、どうしたというのです?」

十津川は、懐から一枚のコピーを差し出した。匿名の告発者が提供した、事故当日の“復元ログ”の一部だ。

「これは、事故車両のオリジナル制御ログの断片です。非常ブレーキ作動のタイミングが、公式記録とは異なる。しかも、常用ブレーキが断続的に使われていた形跡がある」

藤原は、資料に目を落とし、数秒沈黙した。

「……不正アクセスでしょうね。技術的には極めて危険です。我々の社内システムは厳重に管理されているはずですから」

「“削除されたはずの一時ファイル”に復元可能なログが残っていたとのことです。つまり、“意図的な改ざん”の痕跡が存在する」

藤原は黙った。

やがて椅子にもたれかかるように、ぽつりと呟いた。

「……十津川警部。あなた方は、“事故”に何を見ておられるのですか?」

「単なるヒューマンエラーでは説明できない、企業的な構造の闇です」

その言葉に、藤原はゆっくり立ち上がった。

「これ以上、私から言えることはありません。ただし、事故の本質が“時間”にあるとすれば——我々が抱えていた“慢性的な遅延圧力”を無視することはできません」

「運転士に対する“日勤教育”や、“秒単位”で求められる回復運転……それが今回の事故の引き金になった?」

「それは、調査委員会の判断にお任せします。私は技術者です。技術に関するご質問なら、正式な手続きを通じて」

そう言って、藤原は会釈を残し、応接室を出ていった。

十津川は彼の背中を見送りながら呟いた。

「逃げたな……だが、確実に“何か”を知っている」

 

その夜、記者・長谷川春香は、自宅マンションでデータ整理に追われていた。

机の上には、告発者から受け取ったPDFファイルと、報道各社の過去記事、さらに複数の匿名メッセージの写しが並ぶ。

《2005年4月24日 午前9時18分 非常ブレーキ作動——公式ログ》

《復元ログ:午前9時17分52秒、常用ブレーキ断続作動中——ATS反応せず》

「8秒の差……その間に、何があったの?」

彼女は、自身のノートに赤字で記した。

《ブレーキ操作に“機械的妨害”があった可能性——操作記録が断絶した地点=制御系統の異常?》

そして、新たなメッセージを受信する。

差出人不明。件名は「次に狙われるのは“データセンター”だ」

本文にはこうあった。

《本社技術戦略本部が、全ログの保管サーバーへのアクセス権限を制限中。近く“物理的処理”が予定されている。——“今週末、深夜”》

春香は即座に、十津川に連絡を入れた。

「本社ビル地下のデータセンターで、何かが“処理”されようとしています。今週末、深夜……記録破棄の可能性も」

「わかりました。われわれも動きます。亀井と共に、保全措置に入ります」

 

金曜日、深夜0時15分。JR西日本・大阪本社ビル地下。

警備員に身分証を提示した十津川らは、保安担当者立ち会いのもと、サーバールームに足を踏み入れた。

冷気が漂うその空間には、金属ラックに収められた数十台のストレージ装置が静かに稼働していた。

そこに現れたのは——副部長・西田靖。

無表情に十津川を見据え、言った。

「これは、どういう権限での立ち入りですか?」

「事故に関する記録保全措置です。司法手続きに基づいています」

西田は目を細めた。

「ここには、個人情報が含まれる記録もあります。それを無断で……」

「“事故記録”は、公益性が最優先される。特に、改ざんや破棄の可能性が指摘されている以上、我々は“証拠保全”を実行する義務がある」

しばし沈黙の後、西田は静かに言った。

「……やはり、間に合わなかったか」

「なに?」

「昨日、システム管理者が“定期メンテナンス”として、一部ストレージを交換した。事故車両のログを含む物理ドライブが、今日の午前0時前に取り外された」

十津川は即座に叫んだ。

「そのドライブはどこだ!」

西田は答えなかった。

保安担当者が慌てて、廃棄用ストレージの置き場を確認しに走る。

——しかし、そこに該当するものはなかった。

 

その翌朝。

十津川は、捜査会議で静かに言った。

「物的証拠は“意図的に”消された。だが、我々には“記憶”がある」

「運転士の過失では片付けられない“構造的圧力”と、“記録改ざん”の疑惑」

「残されたのは、復元されたログと、証言。——それだけで足りるのか?」

彼の問いに、捜査員たちは黙した。

しかし、闇の輪郭は、少しずつ浮かび上がってきていた。

第六章 社内機密

神戸の夜は、夏の終わりを感じさせる生ぬるい風が吹いていた。

 十津川警部は、宿舎の一室で、事故後の社内文書や証言記録を静かに見つめていた。机上には、運転士・米田幸生の訓練履歴、内部ログの出力時刻一覧、さらに技術戦略本部・藤原浩一に関連する人事記録が広げられている。

 不自然な異動、不一致なブレーキログ、隠蔽の兆候。どれもが一本の糸でつながっているように思えた。

「警部、資料がそろいました」

 亀井刑事が、新たに印刷された書類を持ってきた。PDFデータの一部には、事故当日に復元された“旧ログ”が含まれていた。

「このログ、技術部の匿名関係者が提供してくれたものです。運転士の操作履歴、速度変化、ブレーキ操作……全部が詳細に記録されてる」

 十津川は目を細め、用紙を手に取った。

 そこには、事故列車が伊丹駅を出発してから、カーブへ突入するまでのすべてが数秒単位で記されていた。

「この部分を見てください。08時58分41秒……常用ブレーキ使用。42秒、再度使用。43秒、再使用。……しかし公式記録では、この操作が削除されている」

 十津川は即座に答えた。

「つまり、“非常ブレーキが突然作動した”という筋書きに改変した……」

「ええ。それに、制御ログはすべて中央管理サーバーに記録されます。そこにアクセスできるのは、ごく限られた人間だけ」

 亀井が次に取り出したのは、技術戦略本部のサーバーアクセス記録だった。

「事故の三日後、深夜二時十八分。サーバーへアクセスがありました。使用された職員コードは“FJH1105”……藤原浩一のものです」

 十津川は、椅子に背を預けた。

「やはり彼か……。だが、なぜ操作をした?」

「組織防衛のため、でしょうな。もし、運転士が制御可能な速度で操作していたとすれば、事故の責任は“運転士個人”では済まされない。“列車制御システム”そのものの欠陥が疑われる」

「いや、それだけではない」

 十津川の声は、ひときわ低かった。

「——真相が明らかになれば、ダイヤの設計や、時間重視の社風、“日勤教育”といった精神的圧力までもが問題視されることになる。企業全体が揺らぐ」

 その瞬間、部屋の電話が鳴った。十津川が受話器を取る。

「……はい、十津川です。……え? 本当ですか? 今すぐ行きます」

 受話器を置くなり、立ち上がった。

「長谷川春香が襲撃された。神戸市内の路地裏で、後ろから押されて転倒したらしい。携帯とバッグが盗まれ、内部文書も消えたという」

 亀井が顔をしかめた。

「偶然にしては、出来すぎてますな」

 

 長谷川春香は、神戸市内の民間病院に入院していた。幸い、怪我は打撲程度で済んだが、精神的ショックは大きかった。

 十津川と亀井が病室を訪れると、彼女はベッドの上で目を覚ました。

「すみません……大事な資料、盗まれました」

「命が無事だっただけで十分です。むしろ、今回の件で相手の“焦り”が明らかになった」

 十津川は静かに言った。

「狙われたのは、あなたの持っていた復元ログ。それはつまり、犯人が“それを問題視していた”ということです」

「じゃあ……あのログ、本当に“真実”なんですね?」

「ええ。少なくとも、操作が加えられた可能性は極めて高い。藤原浩一、そして彼の上司にあたる副部長・西田靖。これから我々は、その二人に直接話を聞きます」

 

 翌朝——JR西日本・大阪本社。

 会議室に呼び出された藤原浩一は、白いワイシャツに濃紺のネクタイを締め、やや蒼ざめた顔で現れた。

「……私が何か不正をしたと?」

 十津川は書類を広げた。

「藤原さん。あなたは、事故三日後の深夜、技術戦略本部のサーバーにアクセスしていますね。その際に出力されたログと、後に事故調査委員会に提出されたログでは、内容が異なっています」

 藤原は口を真一文字に結び、言葉を選ぶように答えた。

「……私は、指示に従っただけです。ログの抽出と提出は、“本部内の合意”で行われたものです。私個人の判断ではありません」

「その合意を主導したのは、誰ですか?」

「……副部長の、西田です。彼が“この内容は外部には出すな”と……。私は、命令に従っただけだ」

 亀井が苛立ちを隠さずに言った。

「あなたのその“従順さ”のせいで、百人以上の命が正しく弔われないんですよ!」

 藤原は黙って下を向いた。冷房の効いた室内に、重たい沈黙が流れた。

 

 その頃、警視庁から応援に駆けつけた捜査一課の情報解析班が、新たな報告を届けていた。

「削除されたファイルの復元に成功しました。中には、事故前日から当日にかけての運転士間の業務メールが含まれています」

 十津川が目を通す。

 そこには、事故を起こした米田運転士が、上司に宛てたメールの文面があった。

『○月○日 9:30 再送信です。

 本日の伊丹発○○時○○分のダイヤについて、過去に同様のダイヤで遅延が発生しております。

 当該列車についても、安全速度を保つには無理があります。対応をご検討ください』

 ——返答は、なかった。

 さらに別のメールには、米田のこんな記録も。

『本日、日勤教育にて「時間遅延の理由説明が曖昧」と指摘され、再研修となりました』

 十津川は言った。

「ここまでが揃えば、これは“単なる過失”ではない。“組織構造が引き起こした事故”だ」

「……捜査、本格化させますか?」

 亀井の問いに、十津川は深くうなずいた。

「次は、副部長・西田靖に話を聞く。そして——その先にある、企業の核心に踏み込む」

 

 捜査の幕は、いよいよ“本丸”へと近づいていた。

(第七章へつづく)

※この小説はフィクションであり、実在の人物や団体とは一部の史実を除き関係ありません。西村京太郎風のリアリズムを重視し、架空の登場人物を通じて事件の構造に迫っていく構成になっています。

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