西村京太郎を模倣し、『JR福知山線脱線事故』を題材にした小説、「終着駅の迷宮」(ラビリンス)第三十九章・第四十章

目次

第三十九章 「法廷に響く声」

 神戸地方裁判所の法廷は、いつになく重苦しい空気に包まれていた。窓から射し込む光は、秋の終わりを告げるように白く冷たい。傍聴席には記者たちが陣取り、事件の行方を固唾をのんで見守っている。

 福知山線脱線事故から数年が経った。だが、その爪痕はいまだに消えることがなかった。遺族の心に刻まれた痛みは深く、鉄道会社の責任を問う声は、裁判という形でついに結実していたのである。

 検察側は、JR西日本の経営陣が過密ダイヤと過度な効率化を優先し、安全を後回しにしたと主張した。特に「日勤教育」と呼ばれる、乗務員への苛烈な指導体制が、事故を引き起こした直接の温床だったと。

 一方、弁護側は組織的責任の所在を曖昧にし、個人の過失にすり替えようとしていた。会社全体の構造的欠陥を認めることは、膨大な損害賠償につながる。彼らはその防波堤を築こうと必死だった。

 法廷の中央、証言台に立ったのは、かつて現場で事故調査に関わった警視庁出身の退職警部、矢代であった。老いてなお背筋を伸ばしたその姿は、長年の経験が刻まれた皺とともに、静かな威厳を漂わせていた。

「――矢代さん、あなたが調査で確認した事実を述べてください」

 検察官の問いかけに、矢代は一拍置いてから口を開いた。

「私が確認したのは、事故現場の線形――つまりカーブの急さです。設計時点から危険視されていましたが、補正措置は十分ではなかった。さらに、ダイヤ改正によるスピードアップが繰り返され、運転士への心理的圧力は極限まで高まっていた」

 傍聴席から、低いざわめきが起こる。遺族の一人は拳を握りしめ、涙をこらえていた。

 弁護人が立ち上がった。

「異議あり。証人は技術者ではなく、警察官にすぎません。その評価は専門的見地を欠いています」

 裁判長は眉をひそめたが、矢代は静かに答えた。

「私は技術者ではありません。だが、事故現場で見たもの、遺族の声を聞いたものとして、事実を語る義務があります」

 その言葉に、法廷の空気が引き締まった。

 裁判が進むにつれて、証拠資料や専門家の意見が相次いで提出される。運転士が当日受けた過酷な勤務シフト、日勤教育での屈辱的な指導内容、事故直前の車内映像。ひとつひとつが、無慈悲に積み重ねられていく。

 午後の審理の終盤、遺族代表として証言台に立ったのは、中年の女性だった。彼女は、あの日亡くした息子の学生証を手にしながら、震える声で語り始めた。

「彼は、まだ二十歳でした。大学に入ったばかりで、夢を語っていました。……けれど、帰ってきたのは冷たい身体だけでした」

 嗚咽が法廷を包む。彼女は続けた。

「事故の後、私は何度もJR西日本に足を運びました。でも、返ってきたのは無機質な言葉ばかりでした。安全よりも効率を優先し、その結果、息子の命が犠牲になった。どうか、この裁判で真実を明らかにしてください」

 その場に居合わせた人々の目に、涙がにじんだ。記者たちでさえ、ペンを握る手を震わせていた。

 夜、矢代は法廷を後にした。外は冷たい雨が降り始めている。神戸の街の灯りが、濡れた路面に滲んでいた。

 彼の隣には、若き弁護士・椎名の姿があった。

「先生……正直、この裁判は長く険しいものになりますね」

 矢代はうなずいた。

「だが、避けては通れん。事故は一瞬だが、その責任を問うには何年もかかる。……だが、それでも進まねばならんのだ」

 椎名は深くうなずき、二人は雨の中を歩き出した。

 遠くで、電車の走行音が響いていた。その音は、かつての悲劇を思い起こさせると同時に、人々の日常を支える鉄路の存在を示していた。

 終わりなき迷宮のような裁判の行方は、まだ見えなかった。だが、確かにひとつの真実が法廷の中で浮かび上がりつつあった。

第四十章 「最後の証人」

 東京地裁の大法廷に、張りつめた沈黙が漂っていた。

 連日続く公判の中でも、この日は格別に重い一日だった。検察側が切り札とする「最後の証人」の出廷が予定されていたからである。

 法廷の傍聴席には、被害者遺族や記者だけでなく、事故に遭遇した生存者も顔を見せていた。鉄道ファンらしき中年男性がメモを取り続け、若い主婦は涙をこらえながら前を見つめている。傍聴席の最前列には、黒い喪服に身を包んだ母親が座り、膝の上で握りしめたハンカチを何度も絞り直していた。

 「では、証人を入廷させてください」

 裁判長の低い声が響き、法廷の扉が開いた。

 ゆっくりと入ってきたのは、一人の初老の男性だった。痩せた頬、深い皺。背筋は真っ直ぐだが、その歩みにはどこか慎重さが感じられる。傍聴席がざわめき、記者たちが一斉に身を乗り出した。

 証人席に着いた男は、名前を告げると静かに座った。

 「私は……元JR西日本、運行管理部の技術担当でした」

 その瞬間、空気がさらに張り詰めた。矢代検事が立ち上がり、ゆっくりと前へ歩を進める。

 「証人。あなたは当時、ATSの改修や運行管理システムに関して責任ある立場にありましたね」

 「はい……」

 男はうなずき、かすれた声で答えた。

 「では伺います。福知山線脱線事故の前、制御装置の不具合や運転士への過重な業務について、社内でどのような議論が行われていたのですか」

 しばしの沈黙ののち、証人は唇を震わせて語り出した。

 「確かに、不具合やリスクは指摘されていました。しかし……現場の声は上層部に届かなかったのです。むしろ、効率や利益を優先する声が強く、私たちの懸念は“余計なことを言うな”と退けられました」

 傍聴席がどよめき、裁判長が「静粛に」と木槌を打った。

 矢代検事は目を光らせ、さらに問いを重ねる。

 「つまり、会社全体として事故の危険を認識しながら、それを軽視していたと?」

 「……はい」

 「あなた個人としては、危険を防ぐ手段はあったと考えますか」

 「ATSをより高性能なものに更新し、運転士教育を改善すれば……防げた可能性は高かったと思います」

 その言葉に、遺族席の母親が声を殺して泣き始めた。記者たちは一斉にペンを走らせ、フラッシュのようにカメラのシャッター音が鳴り響く。

 だが、弁護人はすかさず立ち上がった。

 「異議あり。証人の発言はあくまで推測であり、具体的な因果関係を示すものではありません」

 裁判長が静かに頷く。

 「異議を認めます。ただし証言の一部は記録に残します」

 弁護人は証人を鋭く見据え、冷ややかな声で質問を重ねた。

 「証人。あなたが今ここで語っていることは、当時なぜ社内で強く訴えなかったのですか」

 「……訴えました。しかし、上層部は耳を貸さなかったのです」

 「それを証明する文書は?」

 「……残っていません」

 弁護人の口元に薄い笑みが浮かぶ。

 「つまり、あなたの証言は今となっては記憶に過ぎず、責任を免れたいがための後付けではありませんか」

 証人の顔に苦渋が走った。だが、うつむいたまま首を振る。

 「……私は、真実を語りたいだけです」

 その言葉に、裁判員たちの視線が一斉に証人へ向けられた。彼らの眼差しには、疑念と同時に、どこか哀れみの色がにじんでいた。

 裁判はさらに進んだ。検察と弁護側の応酬は熾烈を極め、法廷の空気は一触即発の緊張感に包まれる。

 その間、裁判員たちの心は大きく揺れ動いていた。

 ひとりの若い女性裁判員は、遺族の涙を見て胸が締めつけられる思いでいた。

 中年の男性裁判員は、会社経営の難しさを知るがゆえに、安易に「過失」と断じることへのためらいを抱いていた。

 そして、定年退職を迎えたばかりの男性裁判員は、自身のサラリーマン生活を重ね合わせながら、組織の中で個人がどれほど無力かを思い知らされていた。

 裁判長は冷静に進行を保ちつつも、内心で理解していた。――この事件は単なる一企業の過失ではない。社会全体が抱える矛盾を映し出す鏡なのだと。

 最後の証人尋問が終わったとき、法廷の空気は重苦しい沈黙に包まれていた。

 矢代検事は深く一礼し、席へ戻った。その表情には疲労の影が浮かんでいる。

 一方、弁護人は勝利の確信を得たかのように書類を整え、冷静さを装っていた。

 だが、真実の断片は確かに法廷に投げ込まれたのだ。

 それをどう受け止め、どう判断するか――今や、裁判員と裁判官に委ねられていた。

 外に出ると、夕暮れが東京の街を包んでいた。

 赤く沈む太陽が、どこか血の色のように法廷の窓を染めていた。

 その光を見つめながら、矢代は小さくつぶやいた。

 「……真実は、果たして届いたのだろうか」

 彼の声は夕暮れに溶け、誰にも聞こえることはなかった。

(第四十一章につづく)

※この小説はフィクションであり、実在の人物や団体とは一部の史実を除き関係ありません。西村京太郎風のリアリズムを重視し、架空の登場人物を通じて事件の構造に迫っていく構成になっています。

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