西村京太郎を模倣し、『JR福知山線脱線事故』を題材にした小説、「終着駅の迷宮」(ラビリンス)第三十七章・第三十八章

目次

第三十七章 沈黙の証言

 傍聴席に漂う空気は、前日までとは明らかに違っていた。裁判が進むにつれ、証言は核心に近づき、傍聴人たちの視線も鋭さを増していた。刑事部長の今西は、前列からその様子を注視していた。彼の耳に届くのは証人の声だけでなく、傍聴席に混じる小さなざわめき、そして互いに目を見交わす遺族たちの表情であった。

 この日の証言台に立つのは、事故当日の列車に乗り合わせた生存者の一人――若い女性だった。名前は中村由紀、二十八歳。彼女は大怪我を負いながらも奇跡的に生還したが、その後の生活は一変した。両足にはまだ手術の痕が残り、歩行にも支障をきたしていた。彼女が証言台に上がると、法廷全体が一瞬静まり返った。

 「……事故が起きる直前のことを覚えていらっしゃいますか?」

 検察官の問いかけに、由紀は深く息を吸い、ゆっくりと口を開いた。

 「はい。あの日、私は宝塚から大阪に向かう途中でした。電車はすでに遅れていて、車内は少し張り詰めた空気でした。……運転席の方から、何度も警笛が鳴るのが聞こえました。その直後、突然、体が宙に浮いたように感じて……気づいたら瓦礫の下でした」

 傍聴席のあちこちからすすり泣く声が聞こえた。彼女の証言は、すでに報道で触れられた内容と大きな違いはなかった。しかし、生身の言葉には重みがあった。特に「警笛」という言葉は、運転士が最後まで列車を制御しようとした痕跡を示すものとして、遺族たちの心を強く揺さぶった。

 今西は、その一言に敏感に反応した。これまでの証言の中で、同じように「警笛を聞いた」と語った生存者は数人いた。しかし、公式記録には警笛の存在は明記されていない。運転士が最期まで必死にブレーキをかけようとしたのか、それとも別の要因で鳴ったのか。真実はまだ霧の中だった。

 弁護側の反対尋問が始まった。弁護士は柔らかな口調で、しかし確実に証人の記憶の曖昧さを突こうとした。

 「その……警笛の音ですが、本当に運転士が鳴らしたと断言できますか? 事故の衝撃で、別の音を勘違いしている可能性は?」

 由紀は一瞬うつむいた。会場が緊張する。

 だが次の瞬間、彼女は顔を上げ、震える声で答えた。

 「……あれは、間違いなく警笛でした。なぜなら、その直後に前に座っていた男性が、『運転士が必死だ』と叫んだからです」

 証言台に響いたその言葉は、法廷に衝撃を与えた。記録には残されていない「叫び声」の存在。これが事実ならば、事故の責任の一端を一人の運転士に押し付けるだけでは済まされない。背後にある運行管理や会社の体質そのものが問われることになる。

 裁判官が小さく咳払いをし、緊張した空気を宥めようとした。

 「証言は記録に残します。続けてください」

 尋問が終わり、由紀が証言台を降りるとき、傍聴席の遺族たちが小さく頭を下げた。その一礼に込められたのは、感謝と共感、そして苦しみを共有する者同士の絆だった。

 ――その夜。

 今西は大阪地検近くの喫茶店に腰を下ろしていた。目の前には、同じく事件を追うジャーナリストの川島がいた。川島はメモ帳をめくりながら低い声で言った。

 「やはり『警笛』が鍵になりますね。検察はあくまで運転士の操作ミスを強調したいようですが、どうもそれだけでは片付けられない」

 今西はカップを置き、静かに頷いた。

 「警笛が鳴っていたとすれば、運転士は最後まで列車を止めようと必死だった。そうなれば、彼一人の過失ではなく、もっと根の深い問題になる」

 「例えば、ダイヤの過密さ、会社のプレッシャー……」

 川島の言葉を遮るように、今西は声を低くした。

 「それだけじゃない。俺が気にしているのは、ATS(自動列車停止装置)の設置状況だ。報告書には『未整備』とあるが、内部資料には『設置計画がありながら延期された』と書かれている」

 川島が目を見開いた。

 「延期? なぜです?」

 「コスト削減。……そして、納期の遅れを避けるためだ」

 その瞬間、二人の間に沈黙が落ちた。もしそれが事実なら、事故は単なる「過失」ではなく「必然」に近いものになる。企業の判断が、数多くの命を奪ったのだ。

 喫茶店の外では、夜の大阪の街が賑やかに光を放っていた。しかし二人の胸の中に広がるのは、重苦しい暗闇だった。

 「今西さん……あなたは、どうするつもりですか?」

 川島が静かに問うと、今西は深く息を吐いた。

 「証言と資料、両方を突き合わせる。それが真実に近づく唯一の道だ」

 その言葉には、刑事としての確固たる決意と、人としての苦悩が入り混じっていた。

 ――翌朝。

 法廷では新たな証人が呼ばれていた。運行管理に携わっていた元社員である。彼の証言次第で、裁判の流れは大きく変わるだろう。

 今西は傍聴席からその姿をじっと見つめていた。

 彼の脳裏には、中村由紀の震える声がこだました。

 「間違いなく……警笛でした」

 その一言が、真実への扉を開く鍵になる。今西はそう確信しながら、固く唇を結んだ。

第三十八章 元社員の告白

 法廷の扉が開き、一人の中年男性が入ってきた。黒いスーツに身を包み、顔色は青ざめている。肩をすくめるようにして証言台に立ったその人物こそ、事故当時、運行管理センターで勤務していた元社員・安藤隆だった。五十代半ば、かつては現場叩き上げの鉄道マンとして知られ、部下からの信頼も厚かったと聞く。だが今は、その姿に自信のかけらも見当たらなかった。

 「証人、名前と年齢をお願いします」

 裁判官の言葉に、安藤は震える声で名乗った。

 「安藤……隆。五十五歳です」

 その瞬間、傍聴席の空気がわずかに揺らいだ。遺族の中には、彼の名前を事故直後から耳にしていた者も多い。事故の際、運行管理に関わりながら、後に退職した人物――彼が何を語るかが、この日の最大の焦点であった。

 検察官が証人に歩み寄り、淡々とした口調で質問を始める。

 「事故当日、あなたはどのような業務を担当していましたか?」

 「……運行管理センターで、列車のダイヤの調整と監視を行っていました。遅延が発生した場合には、運転士に指示を出す立場でした」

 「その日、事故を起こした列車に関して、何らかのやり取りをした記憶はありますか?」

 安藤は苦しそうに目を閉じ、深呼吸をした。傍聴席の空気が重くなる。遺族たちの視線が、一斉に彼の口元に注がれていた。

 「……はい。遅延が発生していたため、私は無線で運転士に『できる限り回復運転をするように』と伝えました」

 その言葉が放たれた瞬間、会場にざわめきが広がった。裁判官が木槌を軽く打ち、静粛を求める。

 「つまり、あなたの指示が、結果として速度超過を招いた可能性がある、そう理解してよろしいですか?」

 検察官の問いに、安藤は顔を歪め、声を震わせた。

 「……その通りです。しかし、あのとき私も追い詰められていました。上層部からは『ダイヤの乱れを最小限にせよ』と厳命されていた。遅れをそのままにすれば、後続列車に次々と影響が出る。だから私は……」

 傍聴席から嗚咽が漏れた。事故で家族を失った人々にとって、その「だから私は」という言葉は、あまりに残酷だった。企業の論理が、一人の運転士に重くのしかかり、そして百人を超える命を奪った。その現実が、安藤の口から語られようとしていた。

 弁護側が口を開いた。声は穏やかだが、狡猾な響きを含んでいた。

 「証人、あなたの証言は、会社に責任を押し付けるためのものではありませんか? 退職後、あなたは内部告発をしたことで知られています。その行為自体、会社との確執の延長では?」

 安藤の顔が紅潮し、目に怒りと悲しみが混ざる。

 「確かに、私は会社に背を向けた。しかし、告発は私のためではない! 現場で働く仲間や、犠牲になった方々のためだ! 私の指示が、事故を招いた一因になったことは否定できない。だが、その根本には、会社全体の体質があった!」

 その言葉が響いたとき、傍聴席にいた遺族の何人かが涙を拭った。安藤の証言は、自己弁護の色を完全に排していた。彼自身の罪を認めながら、それ以上に大きな構造の問題を突きつける。それは、法廷に集う人々にとって重く、そして切実な響きを持っていた。

 今西刑事は、傍聴席からそのやり取りを食い入るように見ていた。彼の頭には、前日の生存者・中村由紀の証言がよみがえる。――「警笛が鳴った」「運転士が必死だと誰かが叫んだ」。

 あの運転士は最後まで抵抗していた。それなのに、組織の圧力が彼を追い詰めたのだ。

 やがて証言はクライマックスを迎えた。検察官が問いを投げる。

 「証人。あなたは、ATS(自動列車停止装置)の設置が計画されながら、延期されていた事実をご存知でしたか?」

 安藤は顔を上げ、静かに、しかしはっきりと答えた。

 「……はい。私はその会議にも同席しました。本来なら事故現場のカーブには、すでにATSが導入されているはずだった。しかし、会社はコスト削減を理由に、設置を後回しにしたのです」

 法廷は一瞬、氷のように静まり返った。記者たちのペンが一斉に走り出し、遺族のすすり泣きが漏れる。

 この一言が、裁判の行方を決定づける――今西はそう直感した。

 裁判官が深い声で告げた。

 「証言をここで打ち切ります。記録に残します」

 木槌の音が鳴り響いた瞬間、安藤は大きく肩を落とした。証言台を降りるその背中には、長年背負ってきた重荷を吐き出した人間の姿があった。

 ――休廷後。

 裁判所の外で、今西は川島記者と再び顔を合わせた。川島の目は異様に輝いていた。

 「やはり出ましたね。ATS延期の真相……。これは大きなニュースになりますよ」

 「だが、ニュースだけで終わらせていいのか?」

 今西の声には、苦みがにじんでいた。

 「裁判が企業の責任をどこまで追及できるかは分からない。しかし、俺たちは真実を掘り下げなければならない。遺族たちは、それを求めている」

 夜の風が吹き抜ける中、二人はしばし沈黙した。

 街の灯りは眩しく、車の流れは絶えない。だが、彼らの心には、裁判所で響いた安藤の声が重く残っていた。

 「……今西さん」

 川島がゆっくりと口を開いた。

 「真実は、まだ深い迷宮の中にありますね」

 今西は小さく頷いた。

 「だが、その迷宮の出口は必ずある。俺は、そこまで辿り着く」

 その言葉は、自らへの誓いであり、犠牲者たちへの鎮魂の祈りでもあった。

(第三十九章につづく)

※この小説はフィクションであり、実在の人物や団体とは一部の史実を除き関係ありません。西村京太郎風のリアリズムを重視し、架空の登場人物を通じて事件の構造に迫っていく構成になっています。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

コメント

コメントする

目次