西村京太郎を模倣し、『JR福知山線脱線事故』を題材にした小説、「終着駅の迷宮」(ラビリンス)第三十五章・第三十六章

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第三十五章 暗闇に沈む証言

 大阪地方裁判所の法廷は、梅雨の湿気を含んだ空気で重く淀んでいた。天井に並ぶ蛍光灯は白々と光り、傍聴席を満たす人々の顔を青白く照らし出す。そのなかで、被告席に座る男――山崎は、硬直した表情を崩さずに前を見据えていた。

 彼の証言を引き出すことは、検察にとっても弁護にとっても容易なことではなかった。山崎は事故に直接関与した人物ではなく、むしろ組織の周縁にいた。しかし彼が耳にしたとされる「上層部の指示」や「現場への圧力」は、事故の背景を理解するために避けて通れぬ要素だったからだ。

 裁判長の低い声が響く。

「証人、あなたは事故前、運行管理室に呼び出されたと証言しましたね。そのとき、誰が指示を下したのですか?」

 山崎の視線が揺れる。傍聴席の空気が一瞬ざわめいた。

「……課長の中川です」

 その名が発せられると、検察官はすかさず質問を重ねる。

「中川課長は、どのような指示を?」

「……ダイヤの乱れを何としても抑えろ、と。遅延は絶対に許されないと」

 法廷に緊張が走る。その言葉は、既に報道などで繰り返し取り上げられてきたものではある。だが、直接関与した人間の口から、改めて語られることで重みを増すのだった。

 弁護人が立ち上がった。

「証人、あなたはその場に居合わせたが、実際には中川課長の声の調子や表情については記憶があいまいなのではありませんか? 強い圧力というよりも、業務上の一般的な指示に過ぎなかった可能性は?」

「……いや、違います。あのときの課長は、いつもの穏やかな調子ではなかった。怒鳴り声に近かった」

 山崎の声は震えていた。

 ――その震えが、彼自身の恐怖から来るものか、それとも真実を語ろうとする決意から来るものか。法廷の誰もが推し量りかねていた。

     *

 一方、控室でこの様子を見届けていた十津川と亀井は、傍聴席の緊張がそのまま自分たちの胸にも響いてくるのを感じていた。

「亀さん、やはり証言は決定的にはならないな」

「ええ。あれでは『圧力』があったとする証拠には弱い。結局、言葉の解釈次第になってしまう」

 二人の刑事にとって、この裁判は単なる事故原因の究明ではなかった。鉄道会社の体質、組織の隠蔽、さらには政財界との結びつき――その闇の深さを解き明かさなければ、同じ悲劇は繰り返されるに違いないからだ。

「しかし、あの山崎という男……何か隠しているな」

「同感です。言葉を選びすぎている。もっと核心を突けるはずなのに」

 十津川は無言でうなずいた。彼の脳裏には、事故現場で目にした無数の遺影が蘇る。若い命、家族を支えていた者たち、未来を夢見ていた子供たち。あの光景を思えば、このままでは終わらせられない。

     *

 午後の審理では、別の証人が立った。事故で亡くなった運転士の同僚である。まだ若いその男は、証言台の前に立つと、緊張からか汗が額に浮かんでいた。

「彼は……ずっと悩んでいました。ハンドルの握り方やダイヤの遅れを気にして。上からの叱責が怖かったのだと思います」

 その言葉に、傍聴席の一角からすすり泣きがもれた。運転士は事故の加害者でありながら、同時に過酷な環境の犠牲者でもあった。その二重の立場を、証人の声が改めて浮き彫りにしたのである。

 十津川は傍聴席の後方からじっと見つめていた。人は弱さを抱えながら働き、生きている。だが、その弱さに寄り添うのではなく、数字と効率だけを突きつける組織があれば、いずれ破綻するのは必然だ――彼はそう感じた。

     *

 夜、ホテルの一室で十津川と亀井は再び資料を広げた。

「どうやら、会社の体質だけではないな。背後に政治家や大手ゼネコンの影が見える」

「となると、この裁判も単なる『責任追及』で終わらせられる可能性がある」

 二人は黙り込んだ。窓の外では大阪の街がネオンに照らされている。華やかさの裏に、無数の人々の痛みと無念が沈んでいるのだ。

「亀さん、我々の仕事はまだ終わっていない。むしろ、これからが本当の迷宮だ」

「ええ……。まるで終着駅の先に、さらに暗いトンネルが待っているようですな」

 その言葉に、十津川はゆっくりと頷いた。迷宮は終わりを知らない。真実を求める限り、彼らの歩みもまた続いていくのだった。

第三十六章 揺らぐ正義の天秤

 大阪地方裁判所の法廷に、再び人々が集まっていた。湿度を含んだ空気が張りつめ、傍聴席の一つ一つの呼吸が重なり合って、圧縮されたような緊張感を生み出していた。裁判官の木槌の音が響くと、場内は一斉に静まり返る。

 この日の審理では、鉄道会社の幹部である元役員・城戸の証言が予定されていた。事故発生当時、運行管理や安全対策に深く関わっていたとされる人物である。彼の発言次第で、事故の背景が大きく揺さぶられることは間違いなかった。

 城戸は痩せた体に黒いスーツをまとい、眼鏡の奥の目を細めながら証言台に立った。その背筋は年齢に反してまっすぐで、むしろ頑なな意志を感じさせた。

「あなたは、事故前に安全対策の見直しについて意見を述べたとされています。その内容をお話しいただけますか」

 検察官の問いかけに、城戸は一度咳払いをした後、低い声で語り始めた。

「私は、急カーブの前に設置された制御システムが不十分だと主張しました。しかし、上層部は『コストがかかりすぎる』として却下したのです」

 その瞬間、法廷の空気が一層濃くなった。傍聴席から小さなどよめきがもれる。検察官はすかさず質問を重ねる。

「上層部とは、具体的に誰を指すのですか?」

「……取締役会全体です。特定の個人というより、会社の方針として安全より効率を優先する空気が支配していました」

 その言葉は、組織全体に責任を帰すように響いた。しかし同時に、個々の人物の責任を曖昧にするものでもあった。

 弁護側の弁護士がすかさず立ち上がった。

「証人、それはあくまで『空気』の話でしょう? 明確に『安全よりコスト』と発言した人物はいたのですか?」

「……明確に言葉にした者はいません。しかし……沈黙の合意があったのです」

 城戸の声は震えていたが、その震えは恐怖よりも怒りに近かった。

     *

 その様子を傍聴席で見つめる十津川と亀井。二人は顔を見合わせ、小声でささやいた。

「沈黙の合意……か。厄介だな」

「証拠にはならないが、真実に近い匂いはしますな」

 亀井が腕を組みながら唸ると、十津川は視線を逸らさずに低く言った。

「この事故は、個人の過失に押し込められようとしている。だが本当は、組織の深層にこびりついた体質の問題だ。そこを暴かなければ、犠牲になった人々は報われない」

 十津川の言葉は静かだったが、そこには鋭い決意があった。

     *

 午後の休廷後、裁判はさらに緊迫した展開を迎えた。新たに提出された内部資料――取締役会議事録の一部が証拠として開示されたのである。そこには、事故前のダイヤ改正に伴う「遅延防止策」についての議論が記されていた。

 議事録にはこうある。

《安全対策の追加導入は不要。現場の運転士教育と指導でカバーすればよい》

 十津川はその文言を読み、背筋が冷たくなるのを感じた。明確な言葉として「安全を後回しにする意識」が記録されていたからだ。

 検察官は議事録を読み上げ、証人席の城戸に問いかけた。

「この文言に署名しているのは、あなたですね?」

「……はい。しかし、私は異議を唱えました。だが、多数決で決められたのです」

 その返答に、弁護側は素早く反論した。

「多数決で決まった以上、あなた個人の責任は薄い。しかし、それを今さらここで言うのは、自己保身のためではありませんか?」

「……保身ではない! 私は、この事故を防げたはずだと訴えたいだけだ!」

 法廷の空気が爆発しそうなほど張りつめた。

     *

 夜。ホテルの一室に戻った十津川と亀井は、昼間の証言と資料をもとに議論を重ねていた。

「亀さん、これはまだ氷山の一角だ」

「議事録が出てきたのは大きいですが、核心までは届かない……」

 二人は長机に広げられた資料の束を見つめていた。会議録の端々には、黒塗りで隠された部分がある。それは「個人名」や「発言の一部」だと推測できた。

「黒塗りの向こうに、真実がある」

「ですな。もしそこを明らかにできれば……」

 十津川はしばらく黙り込んだ。そして静かに口を開く。

「このままでは裁判は『責任の所在を曖昧にしたままの幕引き』になるだろう。だが、我々の調査で隠された部分を暴き、世に示すことができれば、迷宮の出口に近づける」

 亀井は力強くうなずいた。

「つまり、我々は再び動き出すわけですな」

「そうだ。今度の相手は、裁判所の外に潜む巨大な影だ」

 窓の外には大阪の夜景が広がっていた。ビル群の明かりは煌々と輝き、地上の人々の営みを照らしている。しかしその光の下には、見えない闇が広がっているのだった。

 十津川の視線は、その闇の向こうを見据えていた。

(第三十七章につづく)

※この小説はフィクションであり、実在の人物や団体とは一部の史実を除き関係ありません。西村京太郎風のリアリズムを重視し、架空の登場人物を通じて事件の構造に迫っていく構成になっています。

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