西村京太郎を模倣し、『JR福知山線脱線事故』を題材にした小説、「終着駅の迷宮」(ラビリンス)第三十三章・第三十四章

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第三十三章 法廷に立つ影

 四月の曇天が、まるで灰色のカーテンのように大阪の街を覆っていた。

 地方裁判所の玄関前には、朝から報道陣と傍聴希望者の長蛇の列ができていた。人々の視線は一様に、この日初めて公開される福知山線脱線事故に関連する刑事裁判に注がれていたのである。

 鉄道史上稀に見る惨事。その責任の所在をめぐって、世論は長く揺れ続けていた。

 法廷に立つのは、事故当時の運転士を直接管理していた運行指令の元上司、そして安全管理体制を軽視したとされる旧経営幹部数名だった。

 「いよいよですね」

 ベテラン記者の山名が、傍聴席に向かう途中で呟いた。隣を歩く若手記者の矢島は、緊張した面持ちで頷いた。

 裁判所の内部は、緊張感に支配されていた。

 木製の長椅子に並んで座る遺族たちの表情には、長い年月を経てもなお癒えぬ痛みが刻まれていた。

 定刻になると、黒い法服をまとった裁判官たちが入廷し、厳かな声で開廷を告げた。

 その瞬間、法廷はしんと静まり返り、記者たちのペン先すら固まったように動きを止めた。

 被告席に座るのは、かつて大手私鉄会社の経営を担っていた男たちである。背広の襟元を正し、蒼白な顔で前を見つめる彼らの姿は、企業戦士というよりも、過去の影に取り憑かれた亡霊のようだった。

 検察官が立ち上がり、淡々と起訴状を読み上げる。

 「被告人らは、安全よりも効率を優先し、過密ダイヤを改訂せず、運転士に過度なプレッシャーを与える体制を放置した。その結果、百七名の尊い命が奪われたのである」

 法廷にざわめきが広がった。

 遺族の一人が嗚咽を漏らし、係員が静かに肩に手を置いた。

 山名は傍聴席で、その光景を重苦しい思いで見つめていた。

 彼は三十年以上、鉄道と事件を追い続けてきたが、この瞬間ほど胸を締め付けられることはなかった。

 被告人の一人、元運行部長が立ち上がった。

 「私は……確かに、現場の声を真剣に受け止めなかった。その責任は痛感している。しかし、あの日のダイヤを変えることは、経営陣全体の決定であり、私一人では……」

 その言葉は途中で震え、声にならなくなった。

 彼の視線は、傍聴席の遺族たちに釘付けにされ、何かを訴えるように震えていた。

 矢島は記者ノートにペンを走らせながら、ふとある違和感を覚えた。

 ――まるで、まだ言い足りないことがあるようだ。

 休廷となった直後、山名と矢島は廊下に出た。

 「どう思う?」

 「彼は何かを隠している気がします」矢島は低い声で答えた。

 「隠している、か。あるいは……まだ言えないだけかもしれんな」

 二人の背後では、各社のカメラマンがフラッシュを焚き、弁護人と検察官の一挙手一投足を追っていた。

 裁判は連日続く予定だった。だが初日から、ただの過失責任ではなく、企業全体を巻き込んだ組織的な隠蔽の匂いが立ち込めていた。

 その夜、山名と矢島は大阪市内のビジネスホテルに戻り、取材メモを整理していた。

 矢島はパソコン画面を見つめながら、ぽつりと口を開いた。

 「山名さん……もし会社全体で隠蔽していたとしたら、まだ証拠は残っているでしょうか」

 「残っているかどうかは分からん。だが、誰かが必ず知っているはずだ」

 山名は窓の外を見やった。

 曇天の夜空を横切る新幹線の光が、一瞬だけ暗闇を切り裂いた。

 それはまるで、迷宮の出口を示す光のようでもあり、また新たな謎の始まりを暗示するもののようでもあった。

 翌日、法廷で再び証人尋問が始まった。

 証言台に立ったのは、事故当時まだ二十代だった元運転士仲間である。彼は震える声で語った。

 「僕らは……常に時間に追われていました。遅延は許されない。訓練中からそう教え込まれてきました。先輩たちは、速度超過を暗黙の了解としてやっていたんです」

 法廷内が再びざわめいた。

 裁判官が「静粛に」と一喝した。

 だがその証言は、被告席に座る元幹部たちの顔色を一層蒼白にさせた。

 彼らは下を向き、ただ机の木目を凝視するしかなかった。

 休廷後、山名は矢島に囁いた。

 「やはり現場の声は、上層部に届いていたんだ」

 「でも、それなら……なぜ誰も止めなかったんですか」

 「それが迷宮(ラビリンス)なんだよ。誰もが知っていて、誰も止めなかった」

 その言葉が、矢島の胸に深く突き刺さった。

 裁判はまだ始まったばかりである。だが、この迷宮の奥には、まだ明かされぬ真相が眠っているに違いない。

第三十四章 封じられた記録

 春雨に濡れた大阪の街は、朝からどこか沈んでいた。

 裁判所前に集まった人々の傘の群れは、黒と灰色が入り交じり、まるで亡霊たちが法廷を取り囲んでいるかのようだった。

 記者の山名と矢島は、傍聴席に入る前に控室で短い打ち合わせをしていた。

 「今日は新しい証人が出るらしい」

 山名は、資料の束を机に置きながら言った。

 「誰ですか?」

 矢島が目を輝かせた。

 「事故当時、社内の安全対策会議に出ていた社員だそうだ」

 矢島は身を乗り出した。

 ――もしその人物が本当のことを話せば、隠されていた組織の構造が見えてくるかもしれない。

 やがて法廷が始まり、傍聴席は満席になった。

 遺族の姿も多く、その眼差しには「真実を聞きたい」という切実な思いが込められていた。

 証言台に立ったのは、五十代半ばの元社員、宮坂だった。痩せた体躯に古びたスーツをまとい、眼鏡の奥の瞳はどこか落ち着かない。

 彼は深く頭を下げ、静かな声で語り始めた。

 「私は、事故の数年前から、安全対策委員会の一員として勤務しておりました。当時から、過密ダイヤと訓練制度については、何度も改善を求めておりました。しかし――」

 宮坂は言葉を切り、法廷内を見渡した。

 「会議の議事録は、すべて上層部によって“修正”されました。実際に私が提出した案や発言は削除され、形ばかりの報告書だけが残されたのです」

 傍聴席がざわめいた。

 記者席の矢島は、手が震えるのを抑えながらペンを走らせた。

 裁判長が問いただす。

 「その議事録は今も残っていますか」

 宮坂は苦しげに首を振った。

 「私の手元には……もうありません。しかし、社内サーバーに保管されていたはずです。だが、事故直後にアクセスできなくなりました」

 検察官が身を乗り出す。

 「つまり、事故以前から安全に関する問題提起がなされていたにもかかわらず、経営陣がその記録を抹消した、ということですか」

 「……はい」

 法廷は一気に緊張の渦に包まれた。

 被告席の元幹部たちは蒼白な顔で俯き、弁護人は慌ただしく書類をめくり始めた。

 そのとき矢島は、傍聴席で不自然に視線を逸らす一人の男に気づいた。

 年の頃は六十代、背広姿で、一般の傍聴人には見えない圧力を纏っている。

 「山名さん、あの人……」

 「……ああ。たぶん会社のOBだな」

 矢島は背筋に冷たいものを感じた。

 ――彼もまた、この迷宮のどこかで繋がっているのではないか。

 休廷になると、報道陣は一斉に宮坂に詰め寄った。

 だが彼は一言も答えず、裁判所職員に守られるように姿を消した。

 その夜、山名と矢島はホテルに戻り、資料を広げていた。

 「議事録が改ざんされていた……これが本当なら、裁判の流れは変わりますね」

 矢島の声は興奮気味だった。

 「だが、問題は証拠だ。証言だけでは決定打にならん」

 山名は腕を組み、険しい顔で言った。

 「サーバーに残っているはずのデータ……それを見つけられれば」

 「でも事故直後にアクセスできなくなったって……」

 「消したのは誰か。そこを突き止めるしかない」

 外では春の雨が静かに降り続いていた。

 それはまるで、迷宮の奥へ奥へと導く水音のように、彼らの耳に響いていた。

 翌日、再び法廷に向かう途中で、矢島の携帯が鳴った。

 見知らぬ番号だった。

 「……矢島です」

 受話器の向こうから、低い声が囁いた。

 「君が探しているもの……議事録の“原本”は、まだ消えていない」

 矢島は息を呑んだ。

 「誰ですか?」

 「いずれ分かる。だが気をつけろ。君たちは今、危険な迷宮に足を踏み入れている」

 通話はそれだけで切れた。

 矢島の手は汗で湿り、震えていた。

 「どうした?」

 山名が問いかける。

 矢島は唇を噛みしめ、静かに答えた。

 「議事録の原本……まだ残っているかもしれません」

 山名は長い沈黙ののち、小さく頷いた。

 「やはりそうか。この裁判の裏には、まだ表に出ていない真実がある」

 そのとき二人の心に芽生えていたのは、恐怖ではなく、確信だった。

 迷宮の中心に眠る真実は、必ずどこかで姿を現す――。

(第三十五章につづく)

※この小説はフィクションであり、実在の人物や団体とは一部の史実を除き関係ありません。西村京太郎風のリアリズムを重視し、架空の登場人物を通じて事件の構造に迫っていく構成になっています。

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