西村京太郎を模倣し、『JR福知山線脱線事故』を題材にした小説、「終着駅の迷宮」(ラビリンス)第三十一章・第三十二章

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第三十一章 灰色の迷路

 春の午後、東京地方裁判所の廊下には張り詰めた空気が漂っていた。鉄製のドアが静かに閉じられ、傍聴人たちのざわめきはやや遠のいていった。これまで長きにわたって続いた公判も、いよいよ終盤に差しかかろうとしていた。裁判長の前に並ぶ弁護団と検察官、その背後で耳を澄ます被害者遺族たち。その一つひとつの姿が、誰もが背負う現実の重さを如実に物語っていた。

 佐々木刑事は、証言台に立つ次の人物を見つめていた。証言者は、事故を担当していた元JR西日本の管理職である。初老のその男は、緊張で唇を引き結びながらも、どこか虚ろな目をしていた。彼の背中は、重い責任と長年の沈黙に押し潰されそうだった。

 「あなたは当時、運行ダイヤの調整を担当していた立場ですね」

 検察官が淡々と質問を重ねる。

 「……はい」

 「列車ダイヤが過密で、運転士たちに心理的な圧力を与えていたことは事実ですか」

 「……そう、かもしれません」

 その曖昧な答弁に、法廷内がわずかにざわついた。被害者遺族の席からは小さな嗚咽がもれ、佐々木はその音に胸を突かれるような思いをした。

 ——本当に真実にたどり着けるのだろうか。

 佐々木は心の中で問いかけた。十七年前に起きた福知山線脱線事故。その調査と裁判は長きにわたって続いてきた。しかし、鉄道会社の構造的問題、組織の隠蔽体質、現場の声を押し殺す体制は、いまだ霧のように掴みどころがないままだった。

 弁護側が反対尋問に立ち上がる。

 「あなたは、事故防止のために具体的な提言をしたことがあるのではありませんか」

 証人は一瞬視線を泳がせた。

 「……ええ。しかし、その意見は上層部に届く前に、握り潰されました」

 この証言に法廷内の空気が一変する。検察官も裁判官も、固唾をのんで耳を傾けた。だが証人の口調には怯えがあり、それ以上踏み込むことを恐れているのは明らかだった。

 休廷の合図が下され、法廷内の人々は立ち上がった。廊下に出た佐々木は、相棒の田村刑事と合流した。

 「どう思う、田村」

 「組織ぐるみでの隠蔽は明らかです。ただ……証拠としては弱い。証言だけでは裁判の流れを変えるには足りません」

 「わかっている」

 二人は階段を降りながら、長い年月の中で埋もれてしまった真実の断片をどう掘り起こすか考えていた。裁判の行方だけでなく、これまで黙ってきた人々の口をどう開かせるかが勝負だった。

 廊下の窓から差し込む夕日が赤く染まり、二人の影を伸ばしていた。その光は、迷路の中でかすかに差し込む出口のようでもあった。

 その夜、佐々木はホテルの一室で古びたファイルを開いていた。そこには事故直後に収集された運転士の勤務表、点呼記録、匿名の内部告発のメモなどが収められていた。長年の保管で紙は黄ばんでいたが、そこに記された文字はまだ生々しい力を持っていた。

 田村が淹れたコーヒーを机に置きながら言った。

 「この告発メモ、覚えてますか。『運転士は人間ではなく部品のように扱われている』って書かれていたやつです」

 「ああ……忘れるわけがない」

 佐々木は深く息を吐いた。その言葉は、事故後に耳にした遺族たちの声と重なって聞こえた。

 ——部品ではなく、人間なのだ。

 翌朝、二人は新大阪のビジネス街にある小さな事務所を訪れた。そこには、事故当時に車掌として勤務していた中年の男性がいた。彼は十数年の沈黙を破り、佐々木たちに会う決意をしたのだ。

 「私たちは、運転士が無理をしているのを知っていました。だけど、声を上げれば配置換えや減給の恐れがあった。だから、誰も何も言えなかったんです」

 彼の手は震えていた。だがその瞳には、真実を告げなければならないという強い覚悟が宿っていた。

 「証言していただけますか」

 佐々木の問いに、彼はしばらく沈黙し、やがて小さく頷いた。

 その瞬間、佐々木はようやく迷宮の奥に差し込む光を感じた。長い年月の中で覆い隠されてきた声が、いま少しずつ解き放たれようとしている。

 だが同時に、強大な組織の壁が立ちはだかることも確かだった。証人が法廷に立てば、会社側からの圧力や社会的非難が押し寄せるのは目に見えている。

 「田村……俺たちにできることは何だろうな」

 「真実を記録することです。誰かがそれを残さなければ、また同じことが繰り返されます」

 その言葉に佐々木は深く頷いた。事故は過去のものではなく、未来に続く警鐘なのだ。

 夜、ホテルに戻った佐々木は窓の外を見下ろした。街の灯が星のように瞬いている。彼はその光景の中に、事故で失われた命の数を重ねて見てしまう。どれも取り戻せない。しかし、せめて真実を掘り起こし、未来に繋げることだけはできる。

 そして翌日の法廷。新たな証人が立ち上がろうとしていた。重い扉が再び開かれると同時に、佐々木は胸の奥で誓った。

 ——この迷宮の果てに、必ず出口を見つける。

第三十二章 証言の重み

 東京地裁の法廷に再び静寂が訪れた。重厚な扉が閉じられ、傍聴席の視線が一斉に証言台へと注がれる。そこに立つのは、かつて福知山線を走る電車で車掌を務めていた男――中年に差しかかったその姿は、一見するとどこにでもいる労働者のように見えた。だが彼の目の奥には、長年抱えてきた葛藤と恐れ、そして真実を告げるという決意が燃えていた。

 「証人、名前と職業を述べてください」

 裁判長の声に、男は小さく頷き、しわがれた声で答えた。

 「……元JR西日本、車掌をしておりました。事故当日は別の列車に乗務しておりました」

 傍聴席にわずかなざわめきが走る。佐々木刑事はその様子を冷静に見つめつつ、証人の表情を観察していた。男の肩は震えていたが、その震えは恐怖だけでなく、長い年月の沈黙を破る決意の表れでもあった。

 検察官が立ち上がり、静かに尋問を始めた。

 「証人、あなたは事故前、運転士たちの勤務状況について何か異常を感じていたと証言されていますね」

 「はい……。運転士は皆、疲れ切っていました。過密なダイヤに加えて、わずかな遅れを取り戻すために常にプレッシャーを受けていました。私は何度も『危険だ』と思いました」

 その言葉が発せられた瞬間、法廷内に重苦しい空気が流れる。遺族席に座る人々は息を呑み、弁護団の視線は険しさを増した。

 検察官はさらに踏み込む。

 「具体的に、どのような指示が会社から下されていたのですか」

 「……『定時運行を最優先せよ』という言葉です。たとえ乗客が安全上不安を訴えても、遅延が許されない雰囲気でした。遅れを出した運転士は、指導と称して厳しく叱責されました」

 会場にどよめきが走った。佐々木は思わず拳を握りしめた。彼がこれまで追い求めてきた「現場の声」が、今ようやく法廷で語られたのだ。

 しかし弁護側も黙ってはいない。弁護人の一人が立ち上がり、鋭い口調で反対尋問を始めた。

 「証人、あなたの発言は感情的すぎませんか? 会社が安全を軽視していたというのは、あなたの主観に過ぎないのでは?」

 男は一瞬たじろぎ、視線を落とした。だが次の瞬間、顔を上げてはっきりと言った。

 「違います。私は、同僚の運転士が叱責され、涙を流す姿を何度も見ました。彼らは人間として扱われていなかった。……私は、あの日が来る前から、いずれ大きな事故が起きると感じていたのです」

 遺族席からすすり泣きが漏れた。弁護人は言葉を詰まらせ、席に戻るしかなかった。

 その後、裁判長が休廷を告げ、法廷内はざわめきながら人々が廊下へと流れ出した。


 休廷中の控室。

 佐々木は田村刑事と並んで座り、無言で先ほどの証言を思い返していた。

 「……やっと口に出してくれる人が現れたな」

 田村がぽつりと言った。

 「ああ。だが、これだけじゃまだ足りない。組織の闇を裏付ける証拠がなければ、ただの証言で終わってしまう」

 「わかってます」

 佐々木の胸の内には焦りと同時に小さな希望が芽生えていた。証人の勇気ある告白は、他の沈黙している関係者たちにも波紋を広げるだろう。次に名乗り出る者が現れるかもしれない――そう思わせるだけの力があった。


 翌日、二人は事故現場近くの兵庫県尼崎市を訪れていた。事故から十七年の時を経ても、現場周辺には追悼碑があり、花を供える人の姿が絶えない。春の風に揺れる花々を見つめながら、佐々木は心の奥で誓いを新たにした。

 「……この真実を闇に葬らせはしない」

 そのとき、背後から声をかけられた。

 「あなた方が佐々木刑事……ですか?」

 振り返ると、そこには年配の女性が立っていた。彼女は事故で息子を亡くした遺族の一人だった。手には古びた封筒を握りしめている。

 「これは……息子が亡くなる前に書いていた日記です。運転士としての過酷な勤務のことが書かれています。どうか、これを役立ててください」

 佐々木は言葉を失いながら、丁寧にその封筒を受け取った。震える指でページをめくると、そこには「遅れを取り戻すことばかり求められる」「体が限界だ」という文字が並んでいた。生前の叫びが、紙の上にそのまま焼き付けられていた。

 「必ず……必ず無駄にはしません」

 佐々木は深く頭を下げた。


 数日後の法廷。検察側は新たな証拠として、その日記を提出した。法廷内が静まり返り、裁判長が読み上げる声だけが響いた。

 「……『今日も叱責された。人間じゃないみたいだ。こんな状態でいつまで走れるのか……』」

 その一文が読み上げられたとき、遺族席から嗚咽があふれた。弁護人たちは言葉を失い、傍聴席の記者たちは一斉にメモを取った。

 佐々木は傍聴席でその光景を見つめながら、胸の奥に熱いものが込み上げてくるのを感じた。真実はようやく光を浴びようとしている。しかし同時に、組織を守ろうとする力も強まるに違いない。これからが本当の闘いだ。

 法廷を出ると、田村が低い声で言った。

 「佐々木さん、ここからが山場ですよ」

 「ああ……俺たちはもう引き返せない」

 二人は夕暮れの街を歩きながら、これから待ち受ける攻防を思った。迷宮の出口は近い。しかしその道は、まだ濃い霧に覆われている。

(第三十三章につづく)

※この小説はフィクションであり、実在の人物や団体とは一部の史実を除き関係ありません。西村京太郎風のリアリズムを重視し、架空の登場人物を通じて事件の構造に迫っていく構成になっています。

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