第二十七章 虚像の終焉
東京地方裁判所。
秋雨に濡れた法廷の窓越しに、どんよりとした雲が垂れ込めていた。裁判は大詰めを迎えていた。JR福知山線脱線事故をめぐる一連の真相が、いよいよ司法の場で断罪されるのである。
傍聴席は、遺族、報道関係者、そして一般市民で埋め尽くされていた。張り詰めた空気のなか、検察官、弁護人、被告席の幹部たちの顔には、それぞれの思惑と疲労が刻まれている。
その中央に座るのは、副部長・西田靖。そして元国交省幹部で顧問を務めていた川井啓一。彼らは、虚偽報告と証拠隠蔽の中心人物として起訴されていた。
裁判長の低い声が、法廷を静寂に包む。
「本日は、証人・藤原浩一氏の尋問を行います」
証人席に現れた藤原は、緊張した面持ちで席に着いた。かつて技術戦略本部に属し、事故直後のデータ削除を命じられた技術者である。
「藤原氏、事故直後、あなたはどのような指示を受けましたか?」
検察官の問いに、藤原は一度唇を噛みしめ、静かに答えた。
「事故の三日後、会議室に呼ばれました。そこには西田副部長と、数名の幹部がいました。副部長は、こう言いました――“このデータは不要だ。削除して、修正したログを保存しろ”と」
傍聴席がざわめいた。遺族の中には、思わず声を上げる者もいた。
藤原は続ける。
「私は恐怖を覚えました。しかし、その場には逆らえない空気があった。拒否すれば、職を失う。それだけでなく、同僚や家族にまで影響が及ぶと感じました。……だから私は、指示に従いました」
彼の声は震えていたが、そこには真実を告げる決意がにじんでいた。
弁護人が立ち上がる。
「あなたは、自らの判断で操作した可能性は?」
「ありません。私は指示がなければ、あのような行動はしませんでした」
「証拠は?」
藤原は少し息を整えた。
「録音しました。自分の身を守るために」
再び法廷がざわめく。
検察官は頷き、法廷に音声記録の再生を求めた。
スピーカーから流れる音声――。
『これは対外的には不要なデータだ。削除しろ。事故調には修正後のものを提出すればいい』
それは確かに、西田の声だった。
傍聴席に重苦しい空気が落ちた。
裁判長は静かに言葉を挟む。
「以上の供述と証拠から、被告人の発言が裏付けられることとなる」
西田は顔を伏せ、額の汗を拭った。その横で、川井啓一はなおも冷ややかな表情を崩さなかった。
休廷後。
裁判所の外で、十津川警部と亀井刑事は報道陣に取り囲まれていた。
「警部、今回の裁判の行方について、どうお考えですか?」
十津川は短く答えた。
「司法が下す判決に、私たちは従うしかありません。しかし――真実を封じることは、もう誰にもできない」
亀井が横でつぶやく。
「副部長の顔、蒼白でしたな。あれじゃもう逃げられません」
十津川は頷き、だが視線を遠くに向けた。
「問題は、西田や川井を裁いても、組織全体が変わらなければ、同じことが繰り返される。……それをどう防ぐかだ」
その夜。
神戸の遺族支援センターでは、再び会合が開かれていた。森本佳織をはじめ、多くの遺族が集まっていた。裁判の報道を受け、彼らはそれぞれの胸に去来する思いを語り合っていた。
「ようやく……ようやく、あの人たちが裁かれるのね」
「でも、判決が下りても、うちの子は戻らない」
涙をぬぐいながら、森本は言った。
「それでも、記録に残さなきゃいけないんです。私たちが、声を上げ続けたということを」
その場にいた十津川は、深く頭を下げた。
「皆さんの思いが、この国の鉄道を、未来を変えるはずです。どうか、それを信じてください」
翌日。
川井啓一の証人尋問が行われた。
「あなたは、事故後にJR西日本の幹部と何度も接触していましたね?」
「ええ、助言を求められたからです」
「どのような助言ですか?」
「広報対応、危機管理の基本です。混乱を抑えるためには、過度な情報公開を避けるべきだと」
検察官が問い詰める。
「つまり、真実を伏せろと?」
「違います。必要な情報を精査せよと伝えただけです。国家のインフラを担う企業が、一度の事故で崩れてはいけない。私は、そのための最低限の助言をしたに過ぎません」
川井の声は揺るぎなかった。だがその言葉は、冷酷に響いた。
傍聴席にいた遺族たちは、涙をこらえきれずにいた。
「娘の命を奪ったのは“最低限”の判断ですか!」
裁判長が退廷を命じ、法廷は一時中断した。
亀井は小声で十津川に言った。
「……あの男、本気で自分を正義だと思ってますな」
「そうだ。だからこそ厄介なんだ」
「でも、あの冷徹さは逆に命取りになるかもしれませんな」
十津川は静かに答えた。
「正義を信じすぎる人間ほど、裁判では脆いものだ」
数日後。
検察側の立証はほぼ終わり、いよいよ被告人質問が始まった。西田は蒼白な顔で立ち上がり、弁護人に導かれながら証言台に立つ。
「あなたは、事故調査委員会に提出するデータを改ざんしたのですか?」
「……はい。しかし、それは会社を守るため、やむを得ず……」
「会社を守るために、遺族を欺いたのですか?」
「……」
「あなたが守ろうとしたのは、会社ですか? それとも、自分自身ですか?」
西田は答えられなかった。
その沈黙が、何より雄弁に彼の罪を示していた。
裁判は続く。
だが、もはや方向性は明らかだった。西田も川井も、自らの立場を正当化しようとするが、その言葉は次第に人々の心から乖離していった。
遺族の涙、藤原の証言、録音された声。
それらの重みが、虚像を打ち砕いていく。
十津川は法廷の片隅で、その光景を黙って見つめていた。
「終着駅は近い。だが、この迷宮を抜けた先に、本当の希望があるのか……」
彼の胸中には、まだ深い疑問が残っていた。
第二十八章 判決前夜
秋も深まり、冷たい風が東京の街を吹き抜けていた。
東京地方裁判所で続けられていた「JR福知山線脱線事故」をめぐる裁判は、ついに最終弁論を終え、判決を待つ段階へと移行していた。
法廷の外では、報道陣が連日張り込みを続け、通行人が立ち止まっては大きなニュースボードを眺めている。そこには「西田元副部長・川井元国交省顧問、業務上過失致死と証拠隠滅の罪で起訴」と赤字で掲げられていた。
その文字を目にした遺族の一人が、小さくつぶやく。
「やっとここまで来た……」
1
判決を前にした夜、十津川警部と亀井刑事は、都内のビジネスホテルに宿をとっていた。事件の始まりから長く関わり続けた二人にとっても、この数日は気持ちを落ち着けるのが難しかった。
窓からはネオンの光が差し込み、薄暗い部屋に影を落としている。
亀井が缶ビールを片手にぼやいた。
「警部さん……もし明日、被告が無罪なんてことになったら、遺族はどうなるんですかね」
十津川は眼鏡を外し、ゆっくりと拭いた。
「それでも、彼らが声を上げ続けたことは、決して無駄にはならない。裁判は一つの区切りに過ぎない。真実を記録し続けることこそ、未来を変える力になる」
亀井は黙り込み、ビールを一口あおった。
「俺は正直、あの川井って男が一番許せませんよ。事故をただの“危機管理”の問題にすり替えてる。あんな冷血な奴が、役所の中枢にいたなんて……」
十津川はわずかに眉をひそめた。
「川井は自分の信じる正義を振りかざしている。だが、それは人の命を軽んじた正義だ。その矛盾が、必ず彼を追い詰める」
2
一方その頃、神戸の遺族支援センターでは、森本佳織たち遺族が判決前夜の集いを開いていた。
壁には、事故で亡くなった人々の写真が並べられている。笑顔で写る子供、働き盛りの父親、若き女性たち――。
佳織は一枚の写真を前に、手を合わせていた。
「明日で、少しは……あなたに報いることができるのかしら」
横にいた年配の女性が肩に手を置いた。
「報いるとか、そういうことじゃないわ。私たちはただ、忘れられないようにしているだけ」
会合では、判決を見届けに東京へ向かう遺族も多かった。
「最後まで、この目で見届けたいんです」
「ええ、裁かれる姿を見届けなければ……」
だが一方で、判決が出ても心の空白が埋まらないことを知っている者もいた。
若い母親が声を震わせて言った。
「どんな判決が出ても、うちの子は戻らない。それでも、私たちは前に進まなきゃいけないんですね」
その場にいた誰もが、うなずくしかなかった。
3
翌朝。
東京地方裁判所には、朝から長蛇の列ができていた。傍聴券を求める人々、報道陣のカメラ、警備員の声――。
法廷の中、十津川と亀井も着席していた。
検察側席には、自信をにじませる表情が見える。一方、弁護側は疲労の色を隠せない。
被告席の西田は憔悴しきった顔で俯き、川井は依然として冷静さを保とうとしていた。
やがて裁判長が入廷し、全員が起立した。
法廷内は、息を詰めたような静けさに包まれる。
裁判長が判決文を読み上げ始めた。
「主文――被告人、西田靖を懲役五年、執行猶予なしとする」
傍聴席から一斉にどよめきが起こった。
遺族の一部は涙を流し、抱き合った。西田は力なく崩れ落ち、看守に支えられる。
だが、裁判長の声は続いた。
「被告人、川井啓一を――無罪とする」
瞬間、法廷が騒然となった。遺族の一人が立ち上がり、叫んだ。
「ふざけるな! あの男こそ黒幕だ!」
警備員が制止に動き、裁判長の木槌が鳴り響く。
「静粛に!」
4
休廷後。
法廷を出た十津川と亀井の前に、遺族が詰め寄った。
「どうして無罪なんですか! 証拠だってあったはずでしょう!」
十津川は沈痛な表情で答えた。
「司法は、証拠能力に基づいて判断します。川井氏の助言は記録として残っていなかった。それが、法の壁です」
亀井が憤然とした。
「でも警部、あれじゃ納得できませんよ! 現場の人間はあんなに苦しんで、泣きながら証言したのに!」
十津川は唇を噛み、静かに言った。
「納得できなくても、受け止めなければならない。だが、裁判が終わっても、真実は消えない。人々が語り継ぐ限り、川井もまた裁かれ続ける」
5
その日の夜。
川井は記者会見に臨んでいた。数十台のカメラが閃光を放ち、報道陣が一斉に質問を浴びせる。
「無罪判決を受けた今の心境は?」
「私は最初から無実でした。危機管理の助言をしただけであり、裁判所がそれを正しく理解してくれたことに感謝します」
冷静に答える川井。その表情は、むしろ誇らしげだった。
「遺族からは強い反発が出ていますが?」
「お気持ちは理解します。しかし、感情と法は別です。国家の安全を考えれば、混乱を防ぐことが最優先でした」
その傲慢な言葉に、記者たちの表情は険しくなった。だが、川井は気にも留めなかった。
会見をテレビで見ていた遺族支援センターの人々は、怒りと絶望の入り混じった声を上げた。
「なんて人なの……!」
「人の命を数字としか見ていない!」
森本佳織は涙をこらえ、硬く拳を握った。
「だったら私たちが語り継ぐしかない。真実を、未来へ」
6
その頃、十津川と亀井は新幹線の車内にいた。
窓の外を夜景が流れ、遠くで雷鳴が響いていた。
亀井がため息をついた。
「結局、川井は逃げ切ったってわけですか……」
十津川は窓の外を見つめながら答えた。
「逃げ切ったように見えるだけだ。法で裁かれなくても、人の記憶は消えない。彼が無罪である限り、遺族の怒りと悲しみは、永遠に彼を追い続ける」
亀井はしばらく黙り、やがて静かに言った。
「……この事件、まだ終わってませんな」
十津川は頷いた。
「そうだ。迷宮の出口は見えたが、終着駅はまだ先だ」
列車は闇の中を走り続けていた。
(第二十九章へつづく)
※この小説はフィクションであり、実在の人物や団体とは一部の史実を除き関係ありません。西村京太郎風のリアリズムを重視し、架空の登場人物を通じて事件の構造に迫っていく構成になっています。
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