第二十五章 消された線路
東京駅の午後は、混雑と静寂が同居していた。大勢の乗客が行き交うコンコースの中、十津川警部は亀井刑事とともに、新幹線改札口の横に立っていた。
彼らを迎えに現れたのは、国土交通省鉄道局の若手官僚・北川俊介だった。三十代半ば、冷静な表情の奥に、どこか焦燥感を漂わせている。
「十津川警部、急な呼び出しに応じていただきありがとうございます」
北川は頭を下げた。
十津川は黙ってうなずき、その目で相手の内心を探ろうとした。
「この件は、正式な会議ではありません。……ただ、どうしても警察に伝えなければならないことがあるのです」
駅近くのホテルのラウンジ。三人は奥のボックス席に腰を下ろした。
北川は声を潜める。
「福知山線の事故に関する調査。表向きは“安全対策の不備”や“現場のミス”で整理されつつありますが……実際には、もっと根深い問題が隠されているんです」
「根深い問題?」亀井が身を乗り出した。
北川は一呼吸おいて、さらに声を低めた。
「……“線路移設計画”をご存じですか?」
「線路移設?」
「ええ。福知山線の一部区間では、以前から“都市開発に伴う線路付け替え”が検討されていました。ところが、その案は表向き、途中で消えたことになっている。しかし実際には――一部の政治家と企業の間で、裏で進められていたのです」
十津川は眉をひそめた。
「その話と、事故がどう結びつく?」
「事故現場周辺は、本来なら“再開発エリア”として計画されていた場所です。……もしも事故が起きれば、“安全のための線路移設”という名目で、一気に事業を進められる。裏で動いたのは、不動産開発会社と地元の有力議員たちです」
亀井が思わず声を荒げた。
「まさか……人の命を犠牲にして、都市開発を進めようとしたと?」
「直接そう言える証拠はありません。ただ、事故直後に“移設案”が再び浮上してきた。しかも、その調整会議の議事録は、何者かの手によって消されているんです」
北川の声は震えていた。
「私は局内で、その議事録のコピーを偶然目にしました。会議に出席していたのは、JR西日本幹部、国交省OB、そして某政党の代議士。彼らは、“事故を奇貨として利用する”とまで言っていた……」
沈黙が流れた。
ラウンジの窓越しに、午後の光が斜めに差し込む。
十津川が低くつぶやいた。
「……議事録のコピーを、持っていますか?」
「一部だけ、USBに保存しました。ただ、私の立場ではこれ以上動けません。……命が危ない」
北川の手が震えていた。
「ですから警察に託します。正義を信じられるのは、もうあなた方しかいない」
十津川は頷き、USBを受け取った。
「わかりました。我々が必ず真実を明らかにします」
◇
数日後。警視庁捜査一課の資料室。
USBから抽出されたデータが、分析班によってプリントアウトされていた。
そこには、事故前から進められていた「福知山線移設計画」に関する詳細なメモが記されていた。
――「現状の線路ではカーブが急すぎ、安全性に問題がある」
――「事故を契機に移設を進めれば、遺族対策も兼ねられる」
――「政治的な後ろ盾は確保済み」
亀井が顔をしかめる。
「……これじゃあまるで、事故が起こることを前提にしてるみたいじゃないですか」
「そうだな」十津川は冷静に言った。
「ただし、これは計画段階の議事録にすぎない。これだけで“故意に事故を引き起こした”とは断定できない」
「でも、事実として“消された議事録”が存在する。誰かが隠そうとしたのは間違いない」
十津川は深くうなずいた。
「問題は、その“誰か”だ」
調査の結果、議事録に出席したとされる代議士の一人は、兵庫選出の大物・江島泰造であることが判明した。
彼は長年、地元開発に深く関わり、JR西日本にも強い影響力を持っていた。
「江島議員か……厄介な相手だな」
十津川は資料を閉じ、机を指で叩いた。
「警察が直接動けば、政治問題に発展する。だが、このまま放置すれば、また犠牲が出る。……亀井、覚悟はあるか?」
「もちろんです。俺たちは、真実を明らかにするためにここにいるんですから」
二人の視線が交わった。
その瞬間、部屋の空気は重く張りつめた。
◇
その夜。
十津川と亀井は、神戸市内のホテルで江島議員の元秘書と接触した。
秘書は五十代、細身の男で、周囲を気にしながらテーブルに座った。
「……私はもう、あの人にはついていけません。先生は、事故直後から“これで計画が動き出す”と喜んでいたんです」
「本当に、そう言ったのですか?」
「はい。私は隣の部屋で聞きました。……でも、証拠は何も残っていません。先生は用心深い。記録は必ず破棄する」
「議事録は?」
「それも、私が処分するよう命じられました。ただ、一部だけはコピーを取ってあります」
秘書は、封筒を差し出した。
中には、会議資料のコピーが入っていた。そこには江島の署名も残っている。
亀井が息を呑む。
「これなら、議員の関与を示せる……!」
しかし秘書は、震える声で言った。
「どうか……どうか、私の名前は出さないでください。あの人の力は強大すぎる。……私の命が危ない」
十津川は静かにうなずいた。
「安心してください。我々はあなたを守ります」
◇
翌日。
東京・永田町。国会議事堂を望む通りに立ちながら、十津川は心の中でつぶやいた。
――真実は、権力の迷宮の奥深くに隠されている。
だが、たとえどれだけ時間がかかろうとも、我々はそこに踏み込むしかない。
秋風が、静かに吹き抜けていった。
第二十六章 迷宮の中心
霞が関の朝は、人々の足音と公用車のエンジン音に満ちていた。
十津川警部と亀井刑事は、国土交通省の庁舎前に立ち、目の前にそびえる灰色の建物を見上げた。窓の奥には、鉄道行政を担う役人たちが忙しげに動いている。
だが、その中の誰が「事故を利用した者」なのか。二人は確信を持てないまま、内部調査を進める必要に迫られていた。
「亀井くん」
十津川は低い声で言った。
「これから我々が踏み込もうとしているのは、単なる鉄道事故の捜査ではない。政治と企業が絡む巨大な利権の迷宮だ。……相手は証拠を握らせまいと必死になるだろう」
亀井は、重たい表情でうなずいた。
「承知していますよ。俺たちはもう後戻りできませんからね」
◇
庁舎の一室。応接室に通された二人の前に現れたのは、鉄道局の局長・三浦だった。五十代後半、鋭い目つきに、政官界で揉まれてきた経験がにじみ出ている。
「わざわざお越しいただいたようですが、我々が事故について語れることはすでに報告書で明らかにしています」
三浦は、事務的に言い放った。
十津川は静かに応じる。
「報告書では、運転士の過失と組織的な安全管理の不備が強調されています。しかし我々が入手した資料には、事故前から“線路移設計画”が議論されていたことが記されています。……その事実を、国交省はどう認識しているのですか?」
三浦の目が鋭く光った。
「線路移設? それは開発案として過去に一度検討されたことはあります。しかし正式には廃案になった。事故とは一切関係ない」
「ではなぜ、その議事録が存在し、その一部が意図的に削除されているのですか?」
しばし沈黙が流れた。
三浦は椅子の背に身を預け、ゆっくりと口を開いた。
「……あなた方がどこまで掴んでいるのかは存じません。しかし、国家的な事業には“表”と“裏”がある。表だけを追っていては、本当の姿は見えませんよ」
挑発するような言い方だった。
十津川は、その奥に潜むものを感じ取りながらも、あえて踏み込んだ。
「裏の姿を見せていただきたい。国民の命が犠牲になった以上、隠す理由はありません」
三浦は一瞬だけ口をつぐみ、それから重い息を吐いた。
「……もしも、その裏を知ったら、あなた方は警察官としてだけでなく、一人の人間として危険に晒されることになるでしょう。それでも知りたいと?」
十津川は頷いた。
「はい。我々は、そのためにここに来たのです」
◇
同じ頃、神戸市内の小さなマンション。
北川俊介は、夜ごと電話に怯えていた。受話器の向こうから無言の呼吸音が聞こえることが何度もあった。
彼は机の上に散らばる資料を見つめ、汗をぬぐった。
そこには、事故直後に作成された“非公開報告書”があった。表向きの調査結果とは異なり、事故現場の線路構造に関する欠陥や、移設計画との関連性を詳述している。
だが、その文書には「取扱注意」の赤字スタンプが押されており、外部に出れば自身の身に危険が及ぶことは間違いなかった。
――どうすればいい……。
そのとき、ドアを叩く音が響いた。
北川は息を呑んだ。時計の針は午後十一時を指している。
「……どなたですか?」
返事はない。ただ、もう一度、ドアを叩く音。
彼は恐怖を感じ、ポケットから携帯電話を取り出した。十津川の番号を押そうとした瞬間――。
ドアの郵便口から、一枚の紙が差し込まれた。
震える手で拾い上げると、そこには太い黒文字でこう書かれていた。
――「余計なことに首を突っ込むな」
北川の顔から血の気が引いた。
◇
一方その頃、十津川と亀井は東京に戻り、入手した証拠の裏付けを進めていた。
秘書から渡された封筒の資料を精査するうちに、ある名前が浮かび上がった。
――「江島泰造」
すでに知られていた兵庫の代議士だが、その署名が押された決裁文書が出てきたのだ。
そこには「事故後の速やかな移設推進」について、議員が自ら指示した痕跡があった。
「……これで、議員の関与は確実だな」
亀井が憤りを隠さず言った。
「だが、まだ足りない」十津川は冷静に返した。
「江島議員が“意図的に事故を利用した”という決定的証拠が必要だ。それを掴むには、もっと深く入り込むしかない」
「深くって……どうするんです?」
十津川は少し考え、低い声で言った。
「議員と企業の金の流れを追う。開発会社との裏取引を突き止めれば、議事録以上の証拠が出てくるはずだ」
◇
数日後、兵庫県西宮市。
地元の大手不動産会社「西陽開発」の本社ビルに、二人は極秘に足を運んだ。
この会社こそ、福知山線移設計画の受益者であり、江島議員と深いつながりを持つと噂されていた。
ビルの裏手にある社員用駐車場。
そこに現れたのは、かつて江島の資金管理団体で会計を担当していた元社員の男だった。
「あなたが十津川警部……?」
小声で確認する男に、十津川はうなずいた。
「ええ。……あなたは何を知っているのですか」
男は周囲を警戒しながら、茶封筒を差し出した。
「これは、私が保管していた会計記録のコピーです。……先生(江島)が西陽開発から“寄付金”の名目で多額の金を受け取っていた証拠です」
十津川は封筒を開け、中身を確認した。そこには、数千万円単位の入金記録が記されていた。
「事故の直後に、特に大きな金が動いています。……“移設事業が動き出した祝い金”だと、私は聞かされました」
男の声は震えていた。
「これを公にすれば、私は命が危ない。……でも、もう黙ってはいられない」
その言葉を最後に、男は足早に去って行った。
◇
東京に戻った夜、十津川はホテルの一室で書類を広げ、窓の外の夜景を見つめた。
ネオンの光が川面に揺れ、まるで迷宮のように複雑な影を描き出している。
「……亀井くん」
「なんです?」
「この事件は、単なる“事故”ではない。政治と企業が結託し、人の命すら利用して動かす巨大な仕組みだ。迷宮の中心にいるのは、江島泰造。そして彼の背後には、さらに大きな存在がいるかもしれない」
亀井は黙り込み、やがてゆっくりとうなずいた。
「でも、俺たちは必ず真実を暴き出しますよ。……たとえ、その迷宮の先に何が待っていようとも」
十津川の目が鋭く光った。
「そうだ。我々の使命は、迷宮を突破し、終着駅にたどり着くことだ」
外の夜空に、雷光が走った。
その光は、彼らが進もうとする道の困難さを暗示しているようだった。
(第二十七章へつづく)
※この小説はフィクションであり、実在の人物や団体とは一部の史実を除き関係ありません。西村京太郎風のリアリズムを重視し、架空の登場人物を通じて事件の構造に迫っていく構成になっています。
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