西村京太郎を模倣し、『JR福知山線脱線事故』を題材にした小説、「終着駅の迷宮」(ラビリンス)第二十三章・第二十四章

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第二十三章 残されたダイヤ

 薄曇りの空の下、兵庫県警捜査一課の刑事・真鍋は、尼崎駅近くの線路脇に立っていた。事故から数ヶ月が過ぎ、現場の空気は表面上は落ち着きを取り戻していたが、真鍋の胸中は依然として重いままだった。

 線路に並行して設置された防音壁には、新しいコンクリートの色がまだ浮いて見える。その向こうを通過する快速電車の車輪音が、わずかに反響して聞こえてきた。

 真鍋の手には、事故当日に運転士が使っていた運行ダイヤのコピーがあった。公式には事故原因は「速度超過」と発表されている。だが、このダイヤには不可解な点がある。通常の運転スケジュールとは微妙に異なる秒単位の記載があり、しかもその修正が赤ペンで何度も加筆されていたのだ。

 「このダイヤは、どこで修正されたんだ?」

 背後から声がかかった。副署長の小暮である。

 「会社の運転区で渡されたものじゃない。整備係の証言と照らすと、途中で誰かが差し替えた可能性がある」

 真鍋はそう答え、ダイヤの紙をたたんだ。

 二人はその足で、福知山線沿線にある小さな喫茶店へ向かった。そこは、事故前日の夜に運転士・斎藤が同僚と会っていたという場所だった。店主の女性は、事件のことになると今でも声を潜める。

 「斎藤さんね、あの日…えらく苛立ってましたよ。『こんな無茶なスケジュールでやってられるか』って」

 女性の証言に、小暮の眉間がわずかに動いた。

 事故後、鉄道会社は“過密ダイヤ”の存在を認めたが、それはあくまで一般的な混雑路線における範囲内という説明だった。しかし、現場の運転士からは「秒単位の競争」「遅延の罰則」などの証言が相次いでいる。

 真鍋はその証言を一つひとつノートに書き留めながら、頭の中で線を結んでいった。線路上の事故は物理的な速度だけでは起きない。その背後には必ず、人間の決定や組織の構造がある。

 午後、二人は鉄道会社本社の安全管理部を訪ねた。応対したのは中年の担当課長で、事故後の広報対応で疲れ切った表情をしている。

 「運行ダイヤの修正ですか? そんなものは会社の承認なしにはできません」

 「ですが、この赤ペンの加筆は明らかに現場の判断です。承認を経ていない可能性が高い」

 真鍋の言葉に、課長は一瞬言葉を詰まらせた。

 「……運転区の内部で、何らかの“暗黙の修正”があったのかもしれません。ですが、それを記録に残すことはありません」

 このやりとりで、真鍋は確信を深めた。事故は単なる操作ミスではなく、現場を追い詰めた“見えない指示”が背後にあったのだ。

 その夜、真鍋は捜査本部の会議室に戻り、机の上に資料を広げた。事故発生前後の列車運行記録、速度制御装置の解析結果、そして運転士の過去の勤務表。

 小暮がコーヒーを持ってきて、無言で真鍋の隣に腰を下ろした。

 「ここだ。4月23日の勤務表。この日からダイヤの秒刻みが変わっている」

 「誰が変えた?」

 「運転区の主任、柏原。彼は事故の二日前に急な人事異動で外されている」

 「異動の理由は?」

 「公式には“本人の希望”だが、内部告発をしようとしていたらしい」

 柏原の行方を追うため、真鍋は翌朝、京都の外れにある古いアパートを訪ねた。呼び鈴を押すと、痩せた男がドアを開ける。柏原だった。

 「……刑事さんか。やっぱり来たか」

 室内には新聞と時刻表が山積みになっており、その隅に事故現場の写真が貼られている。

 「斎藤のダイヤは、会社から来たものじゃない。あれは“指示”じゃなく“命令”だった。安全よりも定時運行を優先しろってな」

 柏原は震える手で紙を差し出した。それは、事故当日と同じ修正版のダイヤだった。だが、そこには小さく鉛筆で書かれた注意書きがあった。

 《1分遅延=ペナルティ 上層承知済》

 真鍋は息をのんだ。この一行が、事故の背景を物語っている。

 鉄道会社は公には“安全第一”を掲げながら、現場には“遅れを出すな”という圧力をかけていた。その矛盾が、運転士を追い詰め、最後のカーブで速度を落とせない状況を生み出したのだ。

 「これを証言してくれますか」

 真鍋の問いに、柏原は苦笑した。

 「証言したところで、会社も国も認めやしないさ。だが……斎藤の名誉のためなら」

 外に出ると、夕暮れの線路を貨物列車が通り過ぎていった。その低い唸りが、真鍋の胸の奥まで響いてくる。

 まだ終着駅は見えない。しかし、迷宮の出口は少しずつ形を現しつつあった。

第二十四章 社内報告書の影

 四月末の雨は、都会のビル街を湿った鉛色に染めていた。

 兵庫県警本部捜査一課の会議室では、窓の外の景色とは対照的に、緊張感が張り詰めている。机の中央には、一冊の分厚いファイルが置かれていた。鉄道会社が事故後に作成した「社内事故調査報告書」の写しだ。

 刑事の真鍋は、書類のページを静かにめくった。行間から漂うのは、無味乾燥な文体の奥に潜む、何かを隠そうとする意図だ。

 《運転士の判断による速度超過》

 その一行が報告書の結論として太字で記されている。しかし、柏原から受け取った修正版ダイヤには、明らかに「秒単位の遅延を許さない」という命令が書き込まれていた。

 真鍋は眉間に皺を寄せ、小暮に視線を送る。

 「この報告書は、事実を“整理”しすぎている」

 「要するに、会社の責任を最小限に見せたいわけだな」

 報告書の付録には、社内ヒアリングの概要が載っていた。だが、そこに柏原の名はない。事故当時の運転区主任であった人物が聞き取り対象から外されている理由は、説明されていなかった。

 「これは偶然じゃない。柏原を外すことで、都合の悪い証言を封じた」

 真鍋の声には、静かな怒りが滲んでいた。

 午後、二人は新聞社の社会部を訪れた。応対した記者の高梨は、事故以来ずっと鉄道会社を追っている男だ。

 「柏原? 名前は知ってる。だが、表には一切出てこない。社内で“問題児”扱いされて、異動させられたと聞いている」

 高梨はデスクの引き出しからコピー用紙を取り出した。それは、事故の二週間前に社内メールで回った文書の抜粋だった。

 《定時運行の厳守を徹底せよ。遅延発生時は速やかに挽回運転を行うこと》

 挽回運転――すなわち速度を上げて遅れを取り戻すことだ。この文言が、事故の構造を端的に示していた。

 「このメールを送ったのは誰です?」

 真鍋の問いに、高梨は慎重に言葉を選んだ。

 「安全管理部の次長、牧野。だが、彼は取材を一切拒否している」

 翌日、真鍋と小暮は牧野の自宅を訪ねた。兵庫県内の閑静な住宅街にある二階建ての家。インターホンを押すと、応対に出たのはやつれた表情の中年男性だった。

 「取材も捜査も、もうご勘弁ください」

 牧野は開口一番そう言った。

 「我々は取材ではありません。刑事です」

 小暮が警察手帳を示すと、牧野はため息をつき、玄関脇の応接室に通した。

 コーヒーの香りが漂う中、牧野は低い声で語り始めた。

 「事故前、上からは“安全第一”と言われていました。しかし同時に、“遅延を減らせ”とも命じられていた。私は、その二つをどう両立させればいいのか分からなかった」

 「例の社内メールは、あなたが書いたのですか」

 真鍋の問いに、牧野は苦い笑みを浮かべた。

 「はい。ただし、文面は私の言葉ではない。役員会で決まった方針を、そのまま書き写しただけです」

 役員会。真鍋は心の中でその言葉を繰り返した。組織の最上層部が、現場の運転士を追い詰める方針を承認していた可能性がある。

 その日の夜、県警本部に戻った真鍋は、柏原から預かったダイヤと社内メールの写しを並べた。

 「この二つが揃えば、“偶然の速度超過”という説明は成り立たない」

 「だが、直接的な証拠にはならん。法廷に出せば、会社側は“現場の誤解”だと主張するだろう」

 小暮の冷静な言葉が、部屋の空気を冷やした。

 翌朝、予想外の動きがあった。高梨の所属する新聞社が一面トップで「福知山線事故 内部メール入手」と報じたのだ。記事には「遅延挽回運転」の文言と、牧野の実名が載っていた。

 社内は大混乱に陥り、役員会は緊急招集された。だが、その会議の内容は外部に漏れなかった。

 午後遅く、真鍋のもとに一本の電話が入る。

 「……柏原が行方不明になった」

 報告したのは地元署の刑事だった。午前中にアパートを出たきり、戻っていないという。机の上には、事故現場の写真と時刻表、そして書きかけの手紙が残されていた。

 《斎藤の死を無駄にしないために――》

 真鍋は受話器を握りしめた。

 迷宮は、新たな出口を示すはずだった柏原を飲み込み、再び深い闇へと刑事たちを引きずり込もうとしていた。

(第二十五章につづく)


※この小説はフィクションであり、実在の人物や団体とは一部の史実を除き関係ありません。西村京太郎風のリアリズムを重視し、架空の登場人物を通じて事件の構造に迫っていく構成になっています。

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