西村京太郎を模倣し、『JR福知山線脱線事故』を題材にした小説、「終着駅の迷宮」(ラビリンス)第二十一章・第二十二章

目次

第二十一章 証言の重み

 東京地方裁判所の法廷。

 重々しい空気の中、傍聴席には遺族、記者、そして関係者たちが詰めかけていた。

 裁判長が木槌を打ち下ろすと、ざわめきはぴたりと止んだ。

「それでは、証人・藤原浩一氏、入廷してください」

 扉が開き、黒いスーツに身を包んだ藤原が、ゆっくりと証言台に向かった。

 かつての彼は、技術戦略本部の中心人物として、システム設計やデータ管理に関わってきた。しかし今、その姿勢はやや猫背で、表情には決意と恐怖が交錯していた。

 検察官が立ち上がる。

「藤原さん、あなたは事故後、技術戦略本部のサーバーログを改ざんするよう指示されたと証言されていますね。その指示をしたのは、被告人・西田靖で間違いありませんか?」

「……はい。間違いありません」

 法廷の空気が重くなる。

 藤原は一度、傍聴席の遺族の方を見やった。その目に宿るものは、かつての同僚を告発するための冷たさではなく、被害者たちへの償いの色だった。

「どのようなやりとりがあったのか、具体的にお話しください」

 藤原は、ゆっくりと言葉を紡ぎ出した。

「事故三日後の朝、副部長室に呼ばれました。西田副部長は、“外に出す必要のないデータがある”とだけ言いました。私は何を指しているのか尋ねました。すると、副部長は“ATSパターン速度制御の制限データ”のことだと……。あれが残っていれば、制御システムの不具合や設定ミスが疑われる。だから削除しろと」

 検察官が続ける。

「削除はしましたか?」

「……しました。しかし、その時、私は副部長の声をICレコーダーで録音していました」

 法廷に微かなざわめきが走った。

 弁護人がすぐに立ち上がる。

「異議あり。証拠の取得方法に違法性がある可能性が――」

 裁判長が制した。

「その点は後ほど審理します。証言を続けてください」

 藤原は、少し震える声で言った。

「私は、そのデータが消えることで、本当の原因究明ができなくなると分かっていました。でも……会社に逆らえば、自分の立場も危うくなる。家族も守れない。――私は臆病者でした」

 遺族席の一角で、小さなすすり泣きが聞こえた。

 その音に、藤原の声はさらに沈んだ。

「だからせめて、証拠を残した。いつか、正しく使ってもらえるように」

 検察官が深く頷いた。

「あなたがその音声を十津川警部に渡した理由は?」

「……娘に、胸を張って生きたかったからです。あの日、家で私を見上げた娘が、“パパは正しいことをしてるの?”と聞いた。その言葉が、ずっと耳から離れませんでした」

 

 法廷は再び沈黙に包まれた。

 裁判長は淡々とメモを取り、やがて証言を終える合図をした。

「証人、席に戻ってください」

 藤原が証言台を降りると、遺族席から一人の女性が小さく頭を下げた。それは森本佳織だった。彼女の瞳には、わずかな感謝と、消えぬ悲しみが同居していた。

 

 ――休廷後。

 検察控室で、十津川と亀井は藤原と向かい合っていた。

「よくやってくれました、藤原さん」

 十津川の声は低く、しかし温かみを含んでいた。

 藤原は俯いたまま、かすかに頷く。

「……でも、これで会社も私も終わりです」

「終わるのは、嘘を守り続けた時代だ」

 十津川の言葉に、藤原は初めて顔を上げた。

 その目はまだ曇っていたが、どこか遠くに光を見つけたようだった。

 

 同じ頃、被告人席の西田は、弁護士と短く言葉を交わしていた。

「……証言は計算外だ」

「しかし、音声の存在は致命的です。こちらは証拠能力を否定する方向で争いますが……」

「やれるだけやれ。私は、会社のために動いただけだ」

 その言葉に、弁護士は何も返さなかった。

 

 午後の審理では、川井啓一の証人尋問が予定されていた。

 政治と企業、そして事故の真実が交錯する局面が、いよいよ表舞台に引きずり出されようとしていた。


第二十二章 政治の影

 午後二時。

 再開された法廷には、午前よりさらに多くの傍聴人が詰めかけていた。

 傍聴席の空気には、目に見えぬ熱がこもっている。

 それは、この後証言台に立つ男――川井啓一という存在が、事故の真相に新たな光を当てると誰もが感じていたからだ。

 裁判長が証人入廷を告げると、川井がゆっくりと歩み出てきた。

 グレーのスーツに赤いネクタイ。痩せ型の体をまっすぐに立て、まるで国会の委員会に臨む時のような自信を漂わせている。

 その背後には、彼の秘書と思しき若い男が控えていた。

 検察官が起立し、尋問を始めた。

「川井さん、あなたは当時、国土交通省の鉄道安全委員会に強い影響力を持つ与党議員でしたね?」

「影響力というより、職務の一環として関わっていただけです」

「では、事故発生後、被告人・西田靖と接触しましたか?」

「……はい。事故の翌日、関係各所から“事態の沈静化を図ってほしい”との要請がありました」

 傍聴席がざわつく。

 川井は一切動じず、まっすぐ検察官を見据えていた。

「沈静化とは、具体的に何を指すのですか?」

「世間の混乱を抑えることです。報道が過熱し、鉄道会社への信頼が崩れれば、経済全体に悪影響が及ぶ。……だから私は、西田副部長に“情報管理を徹底しろ”と助言しました」

 検察官が目を細める。

「その“情報管理”の中に、ATSパターン制御データの削除も含まれていたのではありませんか?」

 川井は口元にわずかな笑みを浮かべた。

「私は削除しろとは言っていません。……ただ、“誤解を招く情報は整理すべきだ”とは言いました」

 その言葉に、検察官はすかさず追撃する。

「整理とは、隠蔽の婉曲表現では?」

「検察官、あなたは私の言葉を勝手に解釈している。私は政治家として、必要な範囲での情報コントロールを提案しただけです」

 法廷に微妙な緊張が走る。

 十津川は傍聴席から、このやり取りを冷静に見守っていた。川井は老獪だった。直接的な指示は避け、言葉を曖昧にしながら、自らの関与を薄めようとしている。

 

 検察官は、机上の資料をめくり、一枚の書面を掲げた。

「これは、事故から三日後に国交省内部で回覧されたメモです。“ATS関連記録は当面、外部非公開”――この文書の発案者は、あなたではありませんか?」

「……私の名前はありませんね」

「しかし、このメモを作成した課長が、“川井議員の口頭指示を受けた”と証言しています」

 川井の視線が一瞬、揺れた。

 だがすぐに平静を装い、ゆっくりと椅子の背にもたれた。

「それは、その課長の主観でしょう。私は政策全般について助言しましたが、具体的な技術記録に口を出す立場ではありません」

 検察官は口を閉ざし、数秒間の沈黙が流れた。

 その沈黙を破ったのは、傍聴席の一角からの小さな咳払いだった。

 振り返ると、そこにいたのは森本佳織だった。彼女は、川井を真っすぐに見つめていた。

 その視線は、感情を押し殺しながらも、鋭く突き刺さるようだった。

 

 尋問は続く。

 検察官が質問を変えた。

「川井さん、あなたは事故の四日前、被告人・西田と非公式に会っていますね。その時、何を話しましたか?」

「覚えていません」

「覚えていない?」

「政治家は毎日多くの人と会います。一つひとつ記憶していたら、頭が持ちませんよ」

 この開き直ったような返答に、法廷内に苦笑が漏れた。

 しかし十津川は、その裏にある冷たい計算を感じ取っていた。

 ――川井は、核心を突かれる前に記憶の欠如を盾にして逃げようとしている。

 

 その時、検察官が切り札を出した。

「では、この音声をお聞きください」

 スピーカーから流れたのは、低く抑えられた声。

 ――『ATSの設定は、専門家以外には理解できない。公開すれば、誤解が広がるだけだ。だから、西田君、処理しておけ』

 明らかに川井の声だった。

 傍聴席がどよめき、裁判長が静粛を促す。

 川井は、一瞬だけ顔をしかめたが、すぐに肩をすくめた。

「……これは単なる雑談の一部です。しかも、録音が違法に取得された可能性がある」

「しかし、あなたは“処理しておけ”と明確に言っている」

「処理とは、適切に対応するという意味です。削除とは言っていません」

 その言葉の軽やかさに、十津川は内心、唇を噛んだ。

 この男は、どこまでも逃げ道を用意している。

 

 証言が終わると、川井は悠然と証言台を降りた。

 その背中を見送る森本佳織の瞳には、言葉にならない怒りと無力感が渦巻いていた。

 十津川は、その感情を見逃さなかった。

 ――法廷を出た廊下で、十津川は佳織に声をかけた。

「川井の証言、どう感じましたか?」

「……あの人は、本当のことを言っていません。でも、証拠がなければ負けるんですよね」

「証拠は必ず見つけます」

 十津川の言葉は静かだが、その奥には揺るぎない決意があった。

 

 夜、警視庁の一室。

 十津川と亀井は、川井の政治資金記録を洗い直していた。

 事故発生前後の時期に、不自然な資金移動が見つかっている。

 その資金の流れを追えば、川井と鉄道会社の癒着が浮かび上がるかもしれない。

「課長、これ……」

 亀井が差し出した資料には、事故の一週間前に入金された大口献金の記録があった。

 献金元は、鉄道会社の関連子会社――そして、その代表は西田靖の兄だった。

 十津川は、静かに深呼吸をした。

 政治と企業の線が、一本の太い糸で繋がろうとしている。

「これで、あの男を追い詰められる」

 その声は、冷たく鋭く、そして確信に満ちていた。

(第二十三章につづく)


※この小説はフィクションであり、実在の人物や団体とは一部の史実を除き関係ありません。西村京太郎風のリアリズムを重視し、架空の登場人物を通じて事件の構造に迫っていく構成になっています。

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