藤沢周平を模倣した小説『風の残響』第十五章・第十六章

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第十五章・流れる刃

 夜の神田。火の見櫓の時の鐘が八つを打ち終えた頃、町のざわめきもようやく静まり、路地裏には人影もまばらとなった。

 加納新九郎は、提灯を伏せ、黒羽織の裾を捌きながら小道を急いでいた。傍には、探索方の肥後屋文左衛門。

 二人は、影組の一人が潜んでいるという店蔵――「油屋徳兵衛」の裏手へと向かっていた。

 「油屋といっても、商いは表。裏では、武器の密売と証文の裏書を請け負っていたようですな」

 文左衛門の声は低いが、確かだった。

 「堀口の金が、そこを通じて動いている……と?」

 「ああ。ただ、今夜はそれを確かめるのが先だ」

 彼らは裏口に近づくと、しばし耳を澄ませた。中は静まり返っている。だが、かすかに動く気配があった。

 文左衛門が手にした短棒を小さく回し、無言のまま頷く。

 そして、刹那。

 新九郎が跳ねるように戸を蹴破った。文左衛門が後に続き、灯りを投げ入れる。

 室内には、木箱が並び、その一つが開け放たれていた。

 「伏せろ!」

 文左衛門の叫びと同時、火矢が天井を裂いた。新九郎が床に身を伏せ、二の太刀をかわす。

 煙と火花の中、一人の影が箱の間から現れた。

 仮面をつけ、腰に二振りの短剣。

 その目はまるで獣。声もなく、動きも音を立てなかった。

 だが、新九郎は見ていた。

 (こいつは……剣客ではない。殺しだけを身に付けた、影だ)

 火の気を背に、影の者が跳びかかる。

 新九郎が太刀を抜き、真正面から迎え撃った。短剣と太刀がぶつかり、鉄がきしむ。

 文左衛門が背後から手裏剣を放ち、肩をかすめた。影は身を引くも、すぐに横に跳び、奥の障子を蹴って逃げようとする。

 新九郎がすかさず追い、床を跳び越えて間合いを詰めた。

 「逃がすか!」

 太刀が閃き、影の背に深々と斬りつけた。影は呻きもせず、ついに倒れた。

 油屋の奥の座敷で、文左衛門が影の遺体を調べていた。

 その背には、あの異様な紋――斜め線が貫く三つ巴。

 「これで三人目だ」と文左衛門が言った。「水野様の推測通り、複数の影組が動いていた。そして……」

 彼が影の腰から巻物を引き出す。

 「……これは、暗殺の標的を記した命令書。堀口の花押がある」

 新九郎が受け取って目を通す。

 そこに記されていたのは、「加納新九郎」「田淵典膳」、そして――「千絵」。

 「くそ……!」

 新九郎の声が、低く震えた。

 文左衛門が口を結ぶ。

 「急がねばならん」

 一方その頃、田淵邸。

 千絵は書見台に向かい、亡父・朽木源四郎の遺した帳面を見ていた。彼が残した数冊の帳簿には、ただの商人では知り得ぬ政治家の名が散見され、その中に「堀口」の名も記されていた。

 (父は……すべて知っていた。けれど、なぜ言わなかったの?)

 そのとき。

 障子の向こうに、かすかな足音がした。番士のものではない、軽く、忍び寄るような――まるで猫のような。

 千絵は、ゆっくりと立ち上がると、小柄を帯に差した。

 そして障子に向かって言った。

 「……そこに、誰か?」

 沈黙。

 だが、次の瞬間、障子が破られた。

 突如現れたのは、痩せた小柄な影。先の刺客とは違い、十代にも見える少女――だが、その目には光がなかった。

 その手には、毒刃が握られていた。

 千絵が後ずさると、少女は無言のまま跳びかかる。

 そのとき、奥の障子が開かれ、志乃が脇差を手に飛び込んだ。

 「千絵さま、伏せて!」

 志乃は身を挺して刺客に斬りかかる。少女の刃が志乃の腕を裂き、志乃は倒れたが、その一瞬の隙に、千絵が懐から白粉箱を取り出して投げつけた。

 少女の顔に粉が広がり、視界を奪う。

 その隙に千絵は、志乃を抱きかかえ、座敷の外へと逃げた。

 番士が駆けつけ、少女を取り押さえるも、彼女は刃を自らの胸に突き立てた。

 夜明け前。

 新九郎と文左衛門が駆け戻ると、屋敷は物々しい空気に包まれていた。

 負傷した志乃は眠りにつき、千絵は座敷の片隅で膝を抱えていた。

 新九郎が傍に膝をつく。

 「すまなかった」

 千絵は、小さく首を振った。

 「怖かった……でも、もう逃げません」

 文左衛門が巻物を手渡す。

 「堀口の命令書です。証拠は、揃いました」

 新九郎がそれを受け取り、巻物の封を見つめる。

 その封には、「影をもって、影を討て」と記されていた。

 陰謀の主が、その姿を徐々に現しはじめていた。

第十六章・雲行き

 堀口主膳の屋敷には、朝まだきより客人が絶えなかった。

 その日、最初に奥の座敷に通されたのは、老中屋敷付きの用人、大沢主計頭である。いずれも、藩政を左右する力を持つ男たちだ。

 堀口はいつものように穏やかな微笑を浮かべ、茶をすすめながら帳面を示した。

 「先日の件、影組の動きが露見しかけました。しかし……加納新九郎という男、なかなか骨がありますな」

 大沢主計頭は眉を寄せた。

 「それが、よろしくないのではないか。今や彼の名は江戸中の浪人たちの間に響いておる。ことと次第によっては、御前にも耳に入るぞ」

 堀口は笑みを絶やさぬまま、薄く頷いた。

 「だからこそ、次の手を打つ必要があるのです。反対勢力を“正義”に仕立てさせてはなりません」

 そう言って差し出した巻物には、「加納一派を幕府転覆の疑いあり」と記されていた。

 それは、捏造された証文であった。

 一方、田淵典膳の屋敷では、志乃がようやく床から起き上がれるようになっていた。傷は深かったが、幸い骨には届いていなかった。

 新九郎は彼女の見舞いを終えると、庭の端に立っている千絵に声をかけた。

 「昨夜、屋敷の中に密書を隠し持っていた者がおりました。使用人のひとりで、すでに捕らえてあります」

 「それは……」

 千絵の顔がこわばる。

 「庄吉という者です。もと父君の家人だったと聞いております」

 千絵は目を伏せ、ゆっくりと頷いた。

 「庄吉は、わたしがまだ幼いころから屋敷にいた者です。まさか……」

 新九郎は言った。

 「忠義と信念とは、似て非なるものだ。時に、人は己の正しさを信じるあまり、道を踏み外す」

 その晩、庄吉は密かに取り調べを受けた。

 文左衛門の手により吐かされたのは、驚くべき事実だった。

 「影組に金を払ったのは、堀口様の側ではない……もっと上の、御側御用取次の筋だ」

 「証拠はあるか」

 文左衛門が問い詰めると、庄吉はふるえながら、懐から細い竹筒を取り出した。

 中には、家老衆の印が捺された文があった。

 その中にはこう記されていた。

 「朽木源四郎が藩政の不正を探り、老中・堀口主膳の関与を示す証を集めていた。影組は、これを封じるために雇われた」

 新九郎は、深く息をついた。

 「父君は……最後まで、真実を追っていたのだな」

 千絵は目を閉じた。小さく、だが確かに頷いた。

 その夜遅く、新九郎は文左衛門とともに町に出た。

 目的は、密かに開かれる堀口派の会合を覗き見ることだった。場所は、四谷の裏長屋にある「福寿庵」という小料理屋。表向きは町人向けの酒場だが、裏では金と権力が飛び交っていた。

 「女中の一人が内通しています。名前は“お加代”」

 文左衛門の言葉に、新九郎は頷いた。

 二人は裏手から屋根に上がり、梁を伝って中を覗いた。

 その座敷には、堀口に連なる者たちが十名以上集まっていた。その中には、なんと藩の勘定方・伊庭弥右衛門の姿もあった。

 「伊庭まで……」

 新九郎は低く呻いた。

 会話の中で語られていたのは、反堀口派の粛清。すでに三名が失脚し、次の標的に田淵典膳の名が上がっていた。

 「今宵中に証文を焼け。水野家の令嬢も処せ」

 その言葉を聞き、新九郎は身を強ばらせた。

 (やはり、千絵さまは……)

 しかし、思わぬことが起こる。

 裏手から、一人の刺客が料理屋に近づいたのだ。

 その姿を見た文左衛門が低く唸る。

 「やつ……影組ではない。あれは、“鬼首”だ」

 鬼首(おにこうべ)――影組の中でも、さらに選ばれた数名しか持たぬ特異な称号。人間というより、もはや獣と化した“処刑人”。

 「狙いは……証人か」

 福寿庵の女中・お加代は、裏手の納戸にひっそりと身を潜めていた。

 彼女は、影組の動きに気づき、文左衛門に内通した女である。

 だが、鬼首の目から逃れられる者は少ない。

 納戸の扉が、音もなく開かれた。

 お加代が振り向いた瞬間、そこに鬼首が立っていた。

 口をきかず、ただ一歩、また一歩と近づいてくる。

 彼女は叫んだ。

 「た、助けて……!」

 だがその声は、梁の上の新九郎の耳に届くことはなかった。

 しかし次の瞬間、雷鳴のような破裂音。

 文左衛門が天井から跳び、手の中の火薬玉を炸裂させたのだ。

 煙が立ちこめる中、新九郎が飛び降り、鬼首の前に立ちはだかる。

 「おまえだけは、通さん!」

 鬼首の手には、刃渡り一尺の鉤刃。新九郎の太刀と打ち合うたび、火花が散る。

 鬼首の動きは尋常ではなかった。筋肉の動きすら読めぬ不規則さ、まるで殺しを嗜む獣のようだった。

 が、新九郎は見抜いていた。

 (この男、右足がわずかに……遅い)

 一瞬の隙。新九郎はその足を狙って低く踏み込み、斬り上げた。

 鬼首の悲鳴。だが退かず、最後の力を振り絞って跳びかかってきた。

 その時――文左衛門が火薬の壺を叩きつけた。

 轟音。

 鬼首は煙の中に崩れ落ち、動かなくなった。

 夜が明けた。

 福寿庵の裏庭には、焼け焦げた柱が残り、そこに文左衛門が立っていた。

 「堀口派の会合はこれで潰せました。だが……まだ“上”がいる」

 新九郎は、深く頷いた。

 「このままでは、千絵さまは守れぬ。敵が動く前に……こちらが出る」

(つづく)

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