第十七章・静かなる決起
田淵家の庭は、朝霧に包まれていた。
白梅の木の枝に、昨夜の雨がしずくとなって残り、ぽたり、ぽたりと落ちる。
その音の中、新九郎は木刀を手に黙々と素振りを続けていた。
太刀筋は鋭く、無駄のない動きである。だが、その表情にはわずかな迷いが浮かんでいた。
(……本当に、千絵さまを巻き込んでよいのか)
堀口派を討つには、千絵が持つ朽木源四郎の記録、そして父の遺言書にあたる文書が必要だった。それを公に出せば、敵は確実に動く。火急の策ともなろう。
だが、それは千絵の命をさらに危険にさらすことでもあった。
その千絵は、居間の机の前で一枚の書状を広げていた。
「これは、父が遺してくれた最後の文です」
そう言って新九郎に差し出したのは、青墨で書かれた手紙だった。
『千絵へ。おまえがこれを読むとき、私はもはやこの世にはおるまい。だが、おまえには真実を伝えておかねばならぬ――』
その書き出しから始まった文には、堀口主膳と老中・河尻備中守との内密な癒着、そして朽木が集めた証拠の在処までが記されていた。
新九郎が目を見開いた。
「これがあれば……!」
「はい。父は、自分の死と引き換えにしてでも、真実を残そうとしたのでしょう」
千絵は、淡く微笑んだ。その表情には、悲しみと決意がないまぜになっていた。
「新九郎様。わたくしを、江戸城下の“公方検分”の場へ連れて行ってください」
「……それは、命を懸けることになります」
「承知しております。けれど、逃げては父にも志乃にも顔向けができません」
新九郎は黙って頭を垂れた。
そして、ゆっくりと立ち上がった。
「わかりました。では、われらも命を懸けましょう」
文左衛門が手配したのは、小石川の屋敷に仕える年寄・大黒屋久兵衛の協力だった。
大黒屋は一見ただの両替商だが、実は町年寄の中でも古株で、幕府中枢と裏でつながっていた。
「御城の御検分役の中に、堀口に反感を抱いている者がいる。名は、佐原平四郎。彼にこれを渡せば、道が開けるかもしれん」
そう言って差し出したのは、堀口派の会合の密書であった。
「ただし……そのかわりに“芝口の証文”も渡せと言うてきた」
「芝口……?」
文左衛門が言った。
「三年前、堀口が取り潰した商家・岩城屋が書いた借財の帳面じゃ。あれも、この陰謀の一部です」
新九郎は深く頷いた。
「それも渡そう。我らが守るべきは、帳面ではなく、命と正義です」
翌日、江戸城・西の丸下の目付屋敷にて。
千絵、新九郎、そして文左衛門は変装の上、密かに屋敷に入った。
佐原平四郎は、年のころ五十前後。小柄ながら、鋭い眼光の持ち主だった。
「おまえが、朽木源四郎の娘か」
千絵は一礼し、懐から父の遺書を差し出した。
佐原はそれを受け取ると、しばらく沈黙したのち、口を開いた。
「源四郎とは、昔一緒に仕えていた。あれは……正しすぎた。だが、今こそ正しき者の声を聞かねばならぬ」
彼は、堀口主膳を町奉行所の役人へ告発する命を下した。
その文書に、千絵の花押と佐原の印が並んで記された。
(ついに……堀口を、討てる)
新九郎は、文左衛門と目を合わせた。
しかし、その知らせは早くも敵の耳に届いていた。
堀口主膳は、佐原の動きを知るや、すぐさま私兵を差し向けた。
「もはや、暗殺ではない。反乱とみなす者すべてを、一掃せよ」
彼の命に従ったのは、影組の残党ではなかった。
出てきたのは、幕府の正規の与力の一団であった。
新九郎たちが佐原屋敷を出た直後、江戸の町に火の手が上がった。
その混乱に乗じ、堀口派は千絵を襲撃しようと動き出す。
夜の神田明神裏、新九郎たちは一時的に身を潜めていた。
文左衛門が外の様子を見て戻ってくる。
「町は混乱しています。恐らく、堀口が火付けまで使うとは……」
新九郎は刀を膝に置き、静かに言った。
「それだけ、追いつめられている証拠です。だが、奴は最後の一手を使うはず……“将軍家の名”を」
千絵は、新九郎の顔を見た。
「では、どうすれば……?」
新九郎は刀の鯉口に手をかけた。
「堀口を討つしかありません。城に上がる前に」
その目に宿るのは、これまでとは違う色だった。
剣士としての顔、そして武士としての覚悟――かつての加納新九郎ではなかった。
千絵は、その背を見つめ、静かに呟いた。
「……わたくしも、覚悟はできております」
第十八章・水際の誓い
江戸城下の空気が変わったのは、火災から三日目のことであった。
あの夜の火は、町屋を三十棟以上も焼き尽くした。町人は怯え、口々に「また大火か」「戦でも起こるのでは」とささやいた。
だがその裏では、火事の混乱に紛れて影組の残党が複数動き、証文の奪取、千絵の捕縛、新九郎の暗殺までが計画されていた。
文左衛門が入手した密書には、明確にこう記されていた。
――「次なる標的、加納新九郎は、夜半、品川口にて始末すべし」――
文左衛門は歯を食いしばった。
「やつら、とうとう正面から襲うつもりか……」
「かえって都合がよい」
新九郎は、そう静かに言った。
「すべてを終えるには、最後の一太刀が要る。ならば、こちらもその舞台を用意するまで」
その夜――。
潮の香りが濃く立ちこめる、品川・御殿山の裏手。月は朧にかかり、潮騒の音が時折、風に乗って響いた。
その水際に、新九郎はひとり立っていた。
着流し姿に、腰の太刀は柄に布を巻き、静かに鯉口を切られていた。
その姿を見つけたのは、堀口主膳が差し向けた最後の影組・“夜叉の鴉”こと烏丸兵馬であった。
「加納新九郎、ついに見つけたぞ」
兵馬は声を低く唸らせた。
その背後には、八名の剣士が並んでいた。皆、影組の中でも選ばれし者たちである。
新九郎は、一歩も動かなかった。
「――来るがよい。すべてを終わらせる」
そして、剣が抜かれた。

最初に斬りかかったのは、槍を手にした大男であった。
だが新九郎は、一合も交えることなく、半歩をずらして肩口を袈裟に斬った。
斬撃の流れは淀みなく、返す太刀で二人目の胴を割る。
月光の中で、ただ鋼の閃きだけがひとつ、またひとつと舞い、影組の剣士たちは瞬く間に倒れていった。
六人目を斬ったところで、烏丸兵馬がようやく動いた。
「貴様の剣、たしかに見届けた。だが俺の闇は、おまえの“光”など届かぬ」
兵馬の剣は、目にも留まらぬ速さで宙を切った。
新九郎は、避けず、受けた。
刃と刃がぶつかり合い、鈍い音が水際にこだました。
二太刀、三太刀と打ち合うごとに、互いの動きは鋭さを増していく。
兵馬の剣は、斬るよりも“削ぐ”技。まるで獣の爪で肉を裂くように、鋭角で掠める。
だが、新九郎の太刀は、重く、まっすぐだった。
そして四度目の打ち合いのあと、一瞬の間隙。
新九郎は、足を半歩踏み込み、兵馬の間合いを詰めた。
「……これが、父の形見の太刀だ」
その声と同時に、突き上げた斬撃が、兵馬の胸を割った。
兵馬は倒れこみながら、血を吐いた。
「見事だ……だがな……」
そのまま、地に伏す。
影組最後の刺客が、消えた。
新九郎の前に、文左衛門が駆け寄った。
「終わったな……」
「いいや、まだだ」
新九郎は、太刀を鞘に納めながら言った。
「敵の首魁は、まだ座にある。堀口主膳を――この手で裁かねば、何も変わらぬ」
その頃、江戸城内・西の丸屋敷。
堀口主膳は、静かに茶を啜っていた。
その膝元には、佐原平四郎からの呼び出し状があった。
――「翌朝、御目見役の席において説明を要す。出頭なき場合、逆意の疑いあり」――
堀口はそれを見て、ふっと笑った。
「佐原め……余計な動きを」
だがその目に、焦りはなかった。
むしろ、どこかすでに覚悟を定めたような落ち着きがあった。
「いよいよ……清算の時が来たか」
夜が明ける。
新九郎と千絵は、城下に向かっていた。
馬車は使わず、徒歩で進む。混乱を避け、できるだけ目立たぬように。
千絵の顔には白紗がかけられ、細工が施された文箱を抱えていた。
その文箱には、朽木源四郎の証文のすべてと、老中・河尻との癒着を示す密書が収められていた。
「……ここまで、来ました」
千絵がぽつりと呟いた。
新九郎は、静かに頷いた。
「後戻りはできません。だが、これが……正しき道です」
ふたりの足音が、神田の石畳を刻んでいく。
次に立つのは、御目見の席――その場で、すべてが決まる。
(つづく)
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