第十一章・動く影
江戸の空が白んだ。
小石川の坂の上、田淵典膳の屋敷には、ひとときの緊張が流れていた。
庭先の梅が咲き始め、かすかに香りを漂わせていた。
志乃はその梅の木の下にいた。
髪を下ろし、白布で傷の手当てを終えた腕を包んでいる。目は虚空を見つめたまま、黙っていた。
背後から、千絵が足音もなく近づいた。
「新九郎様の舟が、まだ戻りません」
志乃はゆっくりと振り向いた。
「……討たれたのではないでしょうか」
「いいえ。あの方は、命を落とすために戦ったのではない。生きるために、剣を振るった。わたしは、そう信じています」
志乃は、そっと微笑んだ。
その笑みには、涙が混じっていた。
同じころ、江戸城本丸。
老中・水野忠邦の執務間では、ひとつの巻物が開かれていた。
田淵典膳が膝を正し、低く言った。
「これが、朽木源四郎が仕掛けた大奥の帳簿捏造の証です」
水野は目を細める。
「朽木……あの男、やはりまだ諦めてはおらなんだか」
「尾張家を貶め、将軍家の継嗣争いに口を差し挟む。それが目的でありましょう。加納新九郎殿が命を賭してこの証を持ち出しました」
水野は頷き、傍らに控えた中間に命じた。
「内勘定方にこの帳簿の筆跡を照合させよ。次に、朽木源四郎を召し出せ。……ただし、油断は禁物だ」
中間がすぐさま走り去る。
水野は、再び巻物に目を落とした。
「新九郎……あの者、確か加納伊織の義弟とか。世が世なら、幕府に召し抱える器よのう」
一方その頃――
江戸北郊、練馬の外れ。
荒れ寺の一室に、朽木源四郎は身を潜めていた。
頬に深い皺を刻み、かつての漆黒の髷は乱れ、目の色は濁っていた。
傍らには、黒羽織の男が控えていた。
「……田淵典膳が、水野忠邦を動かしました」
朽木は笑った。唇がかすかに震えていた。
「笑止……まだだ。まだ、手はある」
「このままでは、役宅に踏み込まれます。城を離れるおつもりですか」
「否。城はわしの庭。むしろ……迎え撃つ」
朽木は、壁際の長箱を開けた。中には、幾通もの文と、何枚もの印判状。
その一つを指差した。
「これは……」
「将軍家の奥印だ。三年前、御用達の不始末で、一度だけ貸し出されたもの。まさか、複写があるとは誰も思うまい」
男が目を見開いた。
「それを……」
「尾張家の蔵方を偽造し、水野を巻き込む。田淵とて、逃れられぬぞ」
朽木は立ち上がった。
すでに、戦は剣ではない。
紙と印が、命を奪う時代なのだ。
夜、田淵典膳邸。
庭の奥にある書院に、新九郎が戻ってきた。
その顔は青白く、歩みもよろめいていたが、両の目だけは鋭く光っていた。
志乃と千絵が、庭へ駆け寄った。
「新九郎様!」
新九郎は、ふたりに微笑みかけた。
「逃げ果せたか……よかった」
志乃が、そっと彼の手を握る。
「あなたの剣が、真実を繋いでくれました」
田淵典膳が奥から現れた。
「よくぞ戻られた、加納新九郎。――だが、朽木もまだ仕掛けてきます。奥印を偽造し、水野殿を巻き込もうとしているようです」
新九郎は、目を細めた。
「ならば、先に打つしかあるまい。朽木の仕掛けを暴く証が、もう一つ、あるはずです」
「証、ですか」
「はい。三年前、奥印を貸し出した際の書き付け。それには、印の保管日数と担当名が明記されている。もしその文が残っていれば――」
田淵が目を見開いた。
「なるほど……それがあれば、朽木の捏造は即座に露見する」
新九郎は、ふっと苦笑した。
「ただし、それは西の丸御用留帳の中にある。――城内、奥の奥です」
千絵が、目を見据えて言った。
「わたしが行きましょう。朽木の養女として育てられたわたしに、まだ顔が利く場所があります」
志乃が驚いたように顔を上げた。
「危険すぎます」
「わたしも……命を使う時です」
千絵の声には、決意がこもっていた。
新九郎はその目を見つめ、ゆっくりと頷いた。
「では、最後の一手――朽木を討つ刃となるのは、そなたじゃ」
夜は再び深まりつつあった。
千絵は、一人、黒装束に身を包み、城下へと向かっていた。
背に、志乃の手で縫われた白い襷を結んで。
風が、わずかに匂う。
春の終わり、風の残響が、いま静かにひとつの運命を動かそうとしていた。
第十二章・忍び入る夜
江戸城・西の丸の奥、御用留帳を収めた文庫蔵は、表から見ればただの文書倉に過ぎなかった。
だが、ここに納められているのは、将軍家直轄の記録――奥印、継嗣、家臣登用、藩政改革に至るまで、あらゆる密事が書き残されたものである。
夜九つ過ぎ、風が一陣、城の白壁をなでた。
その影のひとつが、ふいに揺れた。
千絵だった。
黒羽二重の裃姿に身を包み、裾を絞って忍び草履を履いていた。髪は男装の鬘に収め、顔立ちは和紙で覆い隠してある。
かつて朽木源四郎の養女として、幾度も西の丸に出入りした千絵には、裏手の出入り口も、番の者の性格も、すべて記憶されていた。
(変わらぬ、な……)
裏門の番所にいるのは、酒好きで知られた年寄番士・遠山彦九郎。千絵は、その夜食に混ぜた微量の酔い薬が効いていることを祈りながら、そっと裏門を通り抜けた。
門の蝶番が軋んだ音を立てる。彦九郎は目を開けかけたが、ただ一度呻いて再び眠った。
千絵は息を止めたまま、庭石の陰を駆け抜け、文庫蔵の庇下にたどり着いた。ここまで来れば、あとは鍵ひとつ――
(頼む……)
腰の袋から細工鍵を取り出し、手探りで鍵穴に差し込む。
金属の鳴る音が夜に響きかけたとき、千絵は動きを止めた。
気配――
微かだが、確かに足音。
(誰かいる……?)
背筋が凍った。
しかし、いま戻ればすべてが水泡に帰す。千絵は歯を食いしばり、鍵を回した。
がちゃ、と微かな音。
扉が開いた。
中は、薄暗く、棚が幾重にも積まれていた。
布の束、竹筒、巻物、革の帳簿。それらが乱雑に置かれている。
千絵は、手に灯を取らぬまま、記憶を頼りに探し始めた。
(三年前の夏。奥印が貸し出されたのは、確か八月のはじめ。御用掛は……内藤昌右衛門)
「奥印 拝借」――その表題のある簿冊を探し、三段目の棚を丹念に探る。
指が、一冊の厚い帳面に触れた。
(……あった!)
だがその瞬間、背後で音がした。
襖の向こうに、誰かがいる。
千絵は帳面を抱えたまま、棚の陰に身を隠した。
影が、ゆっくりと中へ入ってくる。足音、ひとつ、ふたつ――
男の声。
「……やはり、来おったか。千絵よ」
その声に、千絵の血が逆流するのを感じた。
朽木源四郎だった。
「そなたは、わしが育てた娘。その手でわしを討とうとは、哀れなことだな」
千絵は身を起こし、帳面を背に隠して言った。
「わたしは、父の仇を討ちます。あなたが命じた密命が、いかに多くの命を奪ったか……!」
「それも、天下のため。将軍家の血筋を絶やさぬためじゃ」
「欺瞞です。あなたはただ、己の地位を守るために剣を濁らせた!」
朽木は、一歩、近づいた。
「ならば、その手で斬れ。わしを越えぬ限り、真実など届かぬ」
その手が、腰の刀を抜いた。
千絵もすかさず、懐剣を抜く。
だが、一合も交えることはなかった。
朽木の背後に、ふいに影が立ったのだ。
――加納新九郎。
朽木の動きが止まった。
「……ほう。生きておったか。鬼か、そなたは」
新九郎は、静かに刀を抜いた。
「鬼でも仏でもよい。そなたが朽ちるならばな」
朽木が、一歩退いた。刃を構える。剣の構えに、かつての猛将の面影が戻っていた。
対して新九郎は、左脇に重心を移し、腰を低く構えた。
「千絵、下がれ」
「でも……」
「そなたの役目は果たされた。あとは、わしが引き受ける」
千絵が帳面を懐に収め、すっと影の中へ退いた。
新九郎と朽木が、ついに対峙した。
静けさの中、呼吸すらが音を立てる。
次の瞬間、朽木が飛んだ。鋭い踏み込みからの一太刀。
新九郎はその刃を受け、半身でかわし、切り返す。朽木が避ける。二合、三合――刃が火花を散らす。
朽木の剣は、かつての剛剣。鋭く、重く、容赦がない。だが新九郎の剣は、それを一歩も退かず受け止める。
(……まだだ。まだ流れを見極めねば)
朽木が、四合目で突きを放った瞬間。新九郎の身体が、ふっと沈んだ。
次の瞬間、その刃が朽木の右脇腹を貫いた。
朽木が呻き、後ずさる。
血が床に滴った。
「……やはり、そなたか。すべてを終わらせるのは……」
そのまま、朽木は腰を崩し、倒れ込んだ。

夜が明けきるころ、加納新九郎、千絵、そして田淵典膳の一行は、御用留帳を携え、水野忠邦のもとへ向かった。
真実はついに、将軍家の耳に届こうとしていた。
(つづく)
コメント