藤沢周平を模倣した小説『風の残響』第九章・第十章

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第九章・夜を越えて

 その日、江戸には細かな春の雨が降っていた。

 しっとりと濡れた瓦の色は鉛のようで、町のざわめきすら、どこか遠く鈍く響いているように思えた。

 新九郎と志乃は、町屋の一角にある小さな茶店の裏間に身を寄せていた。

「……内藤家の密会は、急には崩れなかったかもしれぬが、間違いなく動揺は走った」

 新九郎は手元の巻物を見つめながら言った。

「問題は、朽木が次にどこで手を打ってくるか……それを知るには、やはり江戸城の中に通じている者が要る」

 志乃が、すっと身を起こした。

「お心当たりがあるのですか」

「いや、残念ながら、わしでは動けぬ。だが、千絵が――いや、あの女なら、あるいは……」

 そのときだった。

 戸口の板が、そっと開かれた。

「わたしをお呼びかしら」

 現れたのは、千絵だった。

 薄墨の旅装に身を包み、顔には少し疲れが見えるが、目は冴えていた。

「朽木は、次に江戸城内の『大納戸組』に手を入れるようです。大奥の財を使って、尾張家の罪を作り出すつもり」

 志乃が眉をひそめた。

「財を……?」

「はい。加納伊織殿が、大奥の金を密かに横流ししていたという偽の記録が、城内に仕込まれたそうです」

 新九郎の眉がぴくりと動いた。

「でっちあげか。だが、それが正式に発覚すれば、尾張家の存続すら危うくなる……」

 千絵は、懐から細巻きの書状を取り出した。

「これは、朽木がわたしに託した密命書です。『記録の保管場所を確認し、火を放て』とあります。わたしを、使い捨てるつもりだったのでしょう」

 新九郎は巻物を開いた。

 薄墨で書かれた命令の文字。筆致は間違いなく、朽木源四郎のものだった。

「……これがあれば、証拠として動かせる」

 新九郎は顔を上げた。

「この文を、田淵典膳へ届けねば。だがその前に、大納戸の記録を押さえる必要がある。志乃殿、千絵。わしと共に、城内へ入る覚悟はあるか」

 志乃は即座にうなずいた。

「兄の名誉を守るためなら、どこへでも」

 千絵も、静かに頷いた。

「わたしも、この命で償います。朽木が育てた娘ではなく、志乃様と加納伊織様の正義のために」

 夜が、また一段と深くなった。

 三人は、深更の頃合いを見計らって城下へと動いた。

 千絵が持っていた出入りの腰印と合鍵、それに志乃の変装――幕臣の女中装束をまとうことで、女二人は奥向きへとすんなり通された。

 新九郎は、大納戸組の一人である「中山清兵衛」の密通者を買収していた。中山が深夜の帳簿整理にかこつけて、新九郎を帳場へ忍ばせる段取りになっていた。

「ここです」

 中山の声で、板戸が開かれた。

 部屋の中には、並べられた木箱と巻物棚。中山は細かく首を振りながら言った。

「この中に、確かに『尾張家横流し』と記された帳簿がございます。ですが、私は見ております。筆致は他人の手です。誰かが、そっくりに偽装して書いたもの」

 新九郎はその帳簿を開き、じっと見つめた。

 ――確かに加納伊織の筆に酷似している。だが、ほんの僅かに、角の丸め方、止めの呼吸が違っていた。

「偽筆……朽木の仕業に違いない」

 そのとき、廊下の向こうから、足音が近づいてきた。

「何者だ! 城内の奥へ何の用ぞ!」

 番士の声だった。

 中山がうろたえる。

「いけません、見つかります」

 新九郎は、帳簿を懐に入れた。

「志乃と千絵を。二人を先に逃がせ」

 志乃は振り向いた。

「新九郎様!」

「わしは囮になる。おぬしらは、すぐに田淵の屋敷へ!」

 千絵が腕を掴んだ。

「あなたが討たれては、意味がない!」

 新九郎は、その手をそっと外した。

「わしは、剣をもって生きてきた。この刀が通じぬなら、それも天命。だが……真実だけは、必ず届けてくれ」

 千絵と志乃は、涙を堪えながらうなずいた。

 そして、新九郎は立ち上がり、戸を蹴破った。

「こちらに賊が――!」

 番士が声を上げる。

 新九郎は、闇に飛び出した。

 刀が抜かれる音。

 一閃、二閃。返り血が舞う。

 ――だが、新九郎の影は、なおも奥へ奥へと駆けた。

 その背には、ただ一つ、名誉という言葉が貼り付いていた。

第十章・白刃の夜道

 江戸城を囲む堀のほとりに、薄靄が降りていた。

 夜半過ぎ、雨は上がったが、濡れた石畳に月が滲んでいる。

 志乃と千絵は、裏門脇の石垣を這うように走っていた。足音を殺し、息をひそめ、影に影を重ねながら。

 背後には、今しも新九郎が敵を引きつけている音が響いてくる。剣戟の刃が交わる音。怒号と絶叫、そして――静寂。

「新九郎様……」

 志乃が立ち止まりそうになるのを、千絵が強く引いた。

「お逃げなさい。新九郎様の命は、あなたにかかっているのです」

 志乃は顔を伏せ、唇を噛んだ。そして、再び走り出す。

 城の裏門を抜け、小石川の裏通りへ。千絵が先に立って、迷いなく進む。細い道、裏の溝、古井戸の向こう。すべてが、あらかじめ用意された逃走路だった。

 千絵が囁くように言った。

「この先の茶屋、裏口に田淵典膳様の配下が待っているはずです」

「……でも、新九郎様は……」

 千絵の足が止まる。

 その目に、かすかな光が宿る。

「あなたが生きてさえいれば、新九郎様は討たれません。あの方は、そういう剣の持ち主です」

 志乃は、こくりとうなずいた。

 二人は再び走り出す。

 一方――江戸城大納戸裏の庭園。

 新九郎は、倒れた番士たちを背に、静かに呼吸を整えていた。

 脇腹を浅く斬られていた。熱い血がじわりと着物を染める。

「……おぬしらは、まだやる気か」

 前方に、四人の男が立ちふさがっていた。全員、黒羽織に顔を覆い、足捌きに迷いがない。いずれも浪人上がりの剣客だろう。

 一人が進み出た。

 長身で、顎に小さな傷のある男だった。

「加納新九郎殿か。名は聞いております。拙者、黒木一刀斎と申す」

「知らぬな」

「名を残す気もござらん。……命、頂戴仕る」

 瞬間、黒木が前へ跳ぶ。

 風を割るような剣筋――だが、新九郎はその動きに一拍遅れて身を引いた。

 そして、斜め下から斬り上げた刃が、黒木の腹を裂いた。

「ぐ……うぉ……!」

 黒木が崩れ落ちる。

 残る三人が、息を呑んだ。

「まだ、やるか」

 新九郎の声は低く、重い。

 一人が、仲間の死を無駄にするなと叫び、飛び込んでくる。新九郎はその刀を半ば受けて弾き、肘で喉を叩く。もう一人は後ろから回り込もうとしたが、新九郎は身を翻して蹴り上げた。

 三人目が、ついに逃げ出す。

 息を荒げながら、新九郎は膝をついた。

 脇腹の傷が深まっていた。吐き出した息に血の匂いが混じる。

「……ふん、まだ死ねぬぞ」

 新九郎は、そこからしばし地を這うように進み、やがて堀のほとりへ辿り着いた。そこで、千絵が用意していた舟を見つける。

 舟には、老水夫がいた。

「加納新九郎殿か。田淵典膳様より預かっておりました」

 新九郎は頷き、舟へ倒れ込むように乗った。

「志乃と千絵は……」

「すでに、逃げ果せました。典膳様の屋敷へ向かっております」

 その言葉を聞き、新九郎の顔に、かすかな安堵が浮かんだ。

 一方、田淵典膳の屋敷では、志乃と千絵がついに到着していた。

 屋敷の表門を守る侍が、ふたりを見るなり、奥へ走っていった。

 そして、玄関の奥から、典膳自身が姿を現した。

 長身で、白髪混じりの頭をぴしりと結い、威厳を湛えた目でふたりを見つめた。

「加納伊織殿の娘と……朽木源四郎の養女か」

 千絵が、懐から密命書を差し出した。

「これが、すべての証拠です。大納戸に偽帳簿も仕込まれていました。新九郎様が、血路を拓いて……」

 典膳はその文を広げ、じっと目を通した。

 しばしの沈黙の後、唇を結んだまま、うなずく。

「……もはや、潮目は変わったようだな」

 典膳は顔を上げ、家臣のひとりを呼んだ。

「今すぐ老中・水野忠邦公の元へ使いを出せ。朽木源四郎の陰謀、ここに明るみとなったとな」

 家臣が走り出す。

 志乃は、こらえていた涙をふいに流しはじめた。

 その肩を、千絵がそっと抱いた。

「あなたが、ここまで来たからです。新九郎様は、信じていた」

 夜が白み始めていた。

 春の夜明けが、ついに江戸を照らし始める。

(つづく)

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