藤沢周平を模倣した小説『風の残響』第三章・第四章

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第三章・春霞の影

 品川からの帰り道、新九郎は芝の裏通りで一人の娘とすれ違った。

 年の頃は十八か、十九。紺の小袖に、白の細帯をきゅっと結び、黒髪は清潔な島田に結われている。ぱっと見て目を引く美貌であったが、それ以上に印象に残ったのは、その娘の目の色だった。

 どこか憂いを含みながらも、鋭く何かを見透かすような眼差し――。

 娘は一瞬、新九郎をじっと見つめると、軽く会釈してすれ違った。

(……見覚えがあるような……)

 いや、違う。誰かを知っているような目、ということだ。新九郎は足を止め、振り返ったが、娘の姿はもう見えなかった。

 その夜、彼女は再び現れた。

 雨上がりの裏道。新九郎が越前屋で聞いた話を元に、加納伊織の行動を洗って歩いていたときだった。横手の長屋の軒先から、ひょいと姿を現したのだ。

「……柿本新九郎さまですね」

 澄んだ声だったが、どこか張り詰めた調子があった。新九郎が無言で頷くと、娘は一歩、近づいた。

「私、加納伊織の……妹の、志乃と申します」

 新九郎の目が鋭くなった。

「妹? だが、越前屋の番頭はそんな話は――」

「それが、表向きに出していないのです。兄は、ある密命を帯びて江戸に来ました。私も、少し離れて兄を見守るようにと言われて……。けれど……殺されました」

 志乃はそう言うと、小さな手をぎゅっと握りしめた。新九郎は静かに言った。

「……何を探っていたのか、知っているのか」

「一部だけ。兄は、旧幕臣たちの再結集の動きを探っていました」

 新九郎の顔に、さっと陰が差す。

 それは、彼自身が長く心の底に沈めていた言葉だった。

「ただの探りではありません。ある書状が、越前屋から流れて、どこかの手に渡ったようなのです。兄はそれを、取り戻そうとしていた……」

「書状……?」

「討幕の前夜に、ある大名が密かに幕府に忠誠を誓った誓紙があるそうです。けれど、それは表に出てはまずい。今の世では、逆賊の証となるから」

「……そして、その書状を握った者が、今の幕政に揺さぶりをかけようとしている」

「ええ。兄はそれを止めようとして……殺されたんだと思います」

 風が吹き、春の雨が残した石畳の匂いが立ちのぼった。

 新九郎は、志乃の眼差しを見つめた。あの澄んだ瞳の奥に、静かな覚悟があった。

「……お前、何を望む」

「兄の無念を晴らしたい。そして、書状が悪用されないように、止めたい」

 新九郎は、ふっと目を伏せた。

「……おれのそばにいると、危ない目に遭うぞ」

「承知です。けれど、ただ待っているのは、もういやです」

 その言葉には、若さ以上のものがあった。

 新九郎は黙ってうなずいた。

 一方、深川の旧武家屋敷の奥――

 その部屋には、烏のように黒い着物をまとった男がいた。名は梶間兵馬。かつて幕府に仕えた隠密であり、今は新政府に鞍替えした裏面の工作者である。

「加納伊織は始末された」

 畳に頭を垂れていた手下が答える。

「だが、奴が持っていた書状の行方が、まだ……」

「ふん……。では、次は柿本新九郎だな」

「はい」

 兵馬は立ち上がり、雨戸の向こうに目をやった。

「新九郎……。但馬守家中で、隠然たる剣の遣い手と聞く。あの“無音の間合い”を使う奴か……」

「噂では、一太刀の間に息を止めさせるとか」

 兵馬の口元に、薄く笑みが浮かんだ。

「そうでなければ面白くない。書状を奴が持っているとは思えんが、奴が動くなら、裏に何かある」

「では、尾けさせますか?」

「いや。尾行など奴には通じぬ。いっそ、近づけ」

「近づけ、とは?」

「娘だ。若い女ならば、奴の懐に入れる」

 兵馬は、屏風の陰に控えていた女の姿に目を向けた。

 薄紅の着物をまとった女が、無言で一歩前に出た。目には涼しげな光が宿り、唇には何も映していない。

「……名は?」

「千絵と申します」

「よいか。奴の懐に入り、志乃という娘の動きを探れ。そして、書状の在処を聞き出せ。必要とあらば……」

 千絵はわずかに頷いた。

 その頃、新九郎は志乃とともに、加納伊織の宿泊していた品川宿の裏手の茶屋にいた。

「この茶屋は、兄が江戸に来たとき、必ず立ち寄る場所でした」

 志乃が案内した裏座敷で、新九郎は一枚の置き手紙を見つけた。床板の下、僅かな隙間に挟まれていたそれは、裏返しのまま、墨のしずくがにじんでいた。

「……これは」

 開くと、ただ一行。

 《源昌院の古井戸に、第二の証あり》

 新九郎は目を細めた。

 源昌院――浅草北の古寺だ。今は廃れて久しいが、徳川家にゆかりある場所。そこに、証がある?

 志乃が顔をあげた。

「行きましょう」

「いや……俺一人で行く。お前は越前屋の番頭を再び探れ。あの男、すべてを語っていない」

「わかりました」

 新九郎は立ち上がり、腰の刀に手をやった。

 再び、剣を抜くことになるかもしれぬ――

 そう感じながら、彼は夜の帳へと歩みを進めた。

第四章・井戸の記憶

 夜の浅草は、静まりかえっていた。

 露店の灯も絶え、辻には人影もない。そんな中、新九郎は源昌院の山門前に佇んでいた。

 寺は荒れ果てていた。苔むした石段は崩れ、山門の扉も半ば外れかけている。もはや参詣者など訪れぬ、忘れ去られた徳川の影である。

 門をくぐり、枯れた庭を踏みしめながら進むと、かすかに水音が聞こえた。

 裏手にあるはずの井戸だ――。

 苔むした石積みの古井戸は、すでに使われていないようだった。桶もなく、縄も切れ、ただ口を開けて静かにそこにあった。

 新九郎は井戸の縁に近づき、身をかがめた。中は暗く、底は見えない。だが、湿った冷気が立ち昇ってくる。

 縄を結んだ灯を投げ込むと、底に何かがあった。木箱のような影。

 新九郎は用意していた滑車と縄を使い、井戸に降りた。

 冷たい湿気が、傷口に沁みた。右肩の古傷がずきりと疼く。

 箱を拾い上げ、縄で結び、井戸の上へと引き上げた。

 地上に戻ったときには、すでに額に汗が滲んでいた。だが、それを拭う間もなく、背後に気配が走った。

「……そこまでだ、柿本新九郎」

 木立の影から、黒装束の男が二人、静かに現れた。抜き放たれた刀が、月明かりにかすかに光る。

「どこの者だ?」

「答える必要はない。お前が持っている物を渡してもらおう」

 その声に、何の感情もなかった。まるで道具が喋っているようだ。

 新九郎は無言で箱を背負い、刀を抜いた。

 ――間合い、二間。

 風が止まったような静寂の中で、一歩踏み出すと同時に、一の太刀を放った。

 最初の男の腹が裂け、呻き声とともに崩れ落ちる。

 二人目はすでに間合いを詰めていた。だが、その太刀は荒く、焦っていた。新九郎は身をひねってかわし、相手の背に刃を滑らせた。

 血が飛び散る。男は呻きもせず、崩れた。

 再び静けさが戻った。

 新九郎は、ふうと息を吐いて刀を納めた。夜の風が、ようやく戻ってくる。

 一方その頃、志乃は越前屋の番頭・田代を訪ねていた。

「……どうして、私に黙っていたのです。兄のことを知っていたのに」

 志乃の声には怒りと悲しみが入り混じっていた。田代は困ったように眉をひそめ、両手を膝に置いて言った。

「志乃様……申し訳ない。だが、あれは命にかかわることでした。わたしも、言えなかったのです」

「兄は殺されました」

 その言葉に、田代の顔が引きつった。

「……やはり、そうですか。では、もう動くしかありますまい」

「動く?」

「加納さまが探していた書状は、旧幕臣たちの再起の証拠でもありますが、それ以上に、現政権の腐敗を暴く証でもあるのです」

 志乃は息を呑んだ。

「腐敗……?」

「今の役人たちの中には、密かに旧幕府の財を隠し持ち、それを足がかりに権力を広げようとしている者がいます。加納さまはそれを止めたかったのです」

「その証拠が……書状に?」

「はい。そして、柿本さまが手にされたであろう、第二の証……」

 そのとき、ふいに店の裏口が開いた。涼やかな声が響いた。

「お取り込み中、失礼いたします」

 女――千絵が現れた。

 白い肌に、紅の小袖。まるで夜に咲く花のように、静かに微笑んでいた。

「あなたは……?」

「志乃さまですね。わたしは千絵と申します。加納伊織さまのことを調べていたとき、あなたの名を知りました。柿本さまにもお世話になっております」

 志乃の目が警戒を帯びた。

「柿本さまに?」

「はい。お怪我をされたとき、お見かけしました。どうか、ご安心ください」

 千絵は優雅に頭を下げた。

 田代は訝しげに見ていたが、志乃は言った。

「では、あなたも兄の死について……?」

「ええ。少しは、力になれるかと」

 その夜、千絵は志乃の泊まっていた町屋に泊まり、ろうそくの明かりの下で、長く語り合った。千絵は静かに話し、志乃はそれを熱心に聞いた。

 だが、志乃が知らぬことが一つある。

 その灯りが落ちたあと、千絵が床の間に座り、懐から取り出したのは、緋色の絹で包んだ小箱だった。

 中には、梶間兵馬から託された毒針と、暗号の書かれた巻紙。

 千絵は静かにそれを開き、目を細めた。

「柿本新九郎。……あなたは、いかなる剣を使うのかしら」

 声は、闇に溶けていった。

 そのころ、新九郎は品川宿の小さな茶屋に戻っていた。木箱の中から現れたのは、一通の書状と、金細工の印籠だった。

 書状には、ある大名の名が記されていた。

 「尾張中納言、徳川慶勝」

 かつて勤王の姿勢を示したとされる慶勝が、実は幕府に極秘の誓紙を送っていた――それが公になれば、幕政の正統性が揺らぐ。

「……これは、確かにまずいな」

 新九郎は小さくつぶやいた。

 この書状を誰かが握れば、いかようにも揺さぶりがかけられる。政敵を倒すにも、あるいは裏取引の道具にもなる。

 そのとき、障子の外から足音がした。

 刀を抜き、身構える。

「……お怪我は?」

 志乃の声だった。

 新九郎は刀を戻し、障子を開けた。

 そこには、志乃と――千絵の姿があった。

 夜の帳が静かに降りる中、三人の運命が、ゆっくりと交差し始めていた。

(つづく)

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