童門冬二を模倣し、天海僧正を題材にした小説『智の司祭 天海 ―比叡の風、江戸の空―』第五章・第六章

目次

第五章 寛永の鐘

 上野の地は、まだ湿り気を帯びた風に包まれていた。

 新しい都・江戸が形を成しはじめたとはいえ、そこにはまだ「戦乱の記憶」が沈殿していた。

 田畑の向こうで、子どもが遊ぶ笑い声が響く。その背後に、かつての焦土を思わせる黒ずんだ土が見え隠れする。

 天海は、その光景をじっと見つめていた。

 彼の眼差しの奥には、単なる慈悲ではなく、「人の世の理(ことわり)」を見極めようとする知の鋭さがあった。

 「荒れ果てた土地は、人の心を映す鏡だ。

  そこに寺を建てるということは、心を耕すことにほかならぬ」

 天海は杖を軽く突き、寛永寺造営の地に足を踏み入れた。

 棟梁たちは一斉に頭を下げ、設計の図面を広げる。

 「この伽藍は、単なる祈りの場ではならぬ。

  江戸を見守る“心の北斗”とするのだ」

 天海の言葉に、職人たちは息を呑んだ。

 仏教の教義を超えた何か――都市そのものの“精神の柱”を打ち立てようとする構想だった。

     *

 「比叡に吹く風を、ここにも通したいのだ」

 天海は図面を指でなぞりながら言った。

 「山の気、風の流れ、水の響き――それらが人の心を鎮める。

  智とは、理を知ることではなく、風を読むことなのだ」

 その言葉を聞いた若い僧・祐運は首を傾げた。

 「師よ、風が“智”とは?」

 天海は微笑を浮かべた。

 「風は形を持たぬ。だが、山をも穿つ力を持つ。

  智もまた、形なき力だ。

  己の言葉や理屈に固執する者は、風を掴もうとして掌を閉じる。

  だが、掌を開く者のみが風の涼しさを感じることができる」

 祐運は深く頭を垂れた。

 その教えは、単なる宗学ではなく、生きる知恵そのものであった。

     *

 伽藍の骨組みが組み上がるころ、幕府からの使者がやって来た。

 使者は家光の名を告げ、低い声でこう言った。

 「上様はこの寺を、幕府の“祈祷所”と定められたいとの仰せです。

  ただし、祈祷の対象は“天下泰平”のみとするようにと」

 天海は頷いた。

 「泰平を祈ることは、人を縛ることではない。

  むしろ、人を自由にする祈りであるべきだ」

 使者は首をかしげた。

 「自由、とは……?」

 「恐れを持つ民は、祈りを乞う。

  しかし、恐れのない民は、祈りを共にする。

  私は、その“共の祈り”を作りたいのだ」

 その静かな声には、揺るぎない意志があった。

 使者は深々と頭を下げ、何も言わずに去った。

     *

 寛永寺の鐘は、家康の霊を慰めるために鋳造された。

 その鐘を打つ音は、江戸の町中に響き渡るように設計された。

 天海は自ら鋳造場に赴き、職人に声をかけた。

 「音は、祈りである。

  だが、その祈りが人の心に届くには“間”が必要だ。

  急ぐな。金槌を打つ間にも、風の音を聴け」

 職人は手を止め、息を整えた。

 静寂の中で、火の音と鉄の息が交じり合う。

 その光景は、まるで神仏と人間が同じ炉を囲んでいるかのようだった。

 「この鐘の音が江戸の空を包むとき、

  人々の心から戦が消えるだろう」

 天海はそう呟いた。

 それは願いというより、確信に近かった。

     *

 鐘が完成し、初めて撞かれたのは秋の夕暮れだった。

 夕陽の赤が伽藍を染め、風が木々を渡る。

 その瞬間、低く深い音が上野の丘に響いた。

 ――ごぉぉぉん……

 その音は、まるで大地が息をするようだった。

 町人たちが立ち止まり、子どもが手を合わせ、老婆が涙を流した。

 それは、言葉ではなく、「心で聞く音」だった。

 天海は目を閉じた。

 耳を澄ますと、鐘の余韻の向こうに、

 戦で失われた数多の命の声が聞こえたような気がした。

 「聞こえるか……。

  あの世もこの世も、同じ風でつながっておるのだ」

 弟子の祐運が静かに問う。

 「師よ、この鐘の名は?」

 天海は少し考え、そしてゆっくりと答えた。

 「“寛永の鐘”――

  人の心が広く、永くあらんことを」

 その名に込められた意味を、弟子はまだ理解していなかった。

 だがその音を聴くすべての人々の胸に、静かな温もりが灯った。

     *

 鐘の完成ののち、幕府は寛永寺を正式に“徳川家の菩提寺”と定めた。

 天海はその知らせを受けながら、ただ微笑んだ。

 「世の理とは、力で築くものではない。

  祈りで満たされて初めて、形を成す」

 祐運が問う。

 「師よ、祈りとは誰のためにあるのですか?」

 天海は鐘楼を見上げた。

 「祈りは、誰のためでもなく“誰もが同じ空を見上げるため”にある。

  それが分かる日、人は初めて智に近づく」

 風が吹き、鐘の音が遠くにこだました。

 江戸の空の下、天海は静かに合掌した。

 ――智は火にあらず。

 ――智は風であり、音であり、人の呼吸そのものである。

 彼の祈りは、やがて江戸の心に根を張り、

 百年を超えても絶えることのない「寛永の響き」となって残った。

第六章 家光との対話

 寛永の空は澄み、上野の梢を抜ける風は、鐘の余韻をいつまでも抱きかかえていた。 寛永寺の一隅、白砂の庭に面した書院で、天海は静かに筆を置いた。

 硯に残る墨の香がわずかに揺れる。

 その刹那、控えの僧が膝をついた。

 「天海様。将軍家光公より、今宵、御内意にてお目通りの仰せがございます」

 天海は頷き、袈裟の襟を正した。

 ――いよいよ、権が心を探りに来る。

 智は、これにどう応えるべきか。

     *

 夜。江戸城・紅葉山の一室。

 障子越しの灯が、畳に薄い黄金の縞を落としている。

 若き将軍・家光は、香を焚き、掌に数珠を転がしていた。

 衣紋の隙間から見える喉仏が、微かな緊張に上下している。

 天海が入ると、家光は立ち上がり、礼に似た一歩を寄せた。

 「よく参った。上野の鐘、都(みやこ)の隅々まで響いておるぞ」

 天海は合掌した。

 「鐘は音にて人の心を均します。剛(つよ)き者の胸も、弱き者の胸も、同じ振幅で震えるゆえ」

 家光は唇に笑みを浮かべ、しかしすぐに表情を引き締めた。

 「その心を、政にも教えてほしい。わしは父・秀忠の世を継いだ。だが、父の影の向こうに、なお太祖家康公の背を見てしまう。

 影は、時に光を曇らせる。――この影を、どう扱えばよい?」

 天海はしばし沈黙した。

 沈黙は、言葉より深く相手の心に触れる。

 やがて穏やかに答えた。

 「影は、光の形にございます。影を憎めば光もまた歪みましょう。

 太祖の影を畏れるのではなく、写し取るのです。

 家光公は家光公の姿で、しかし根を太祖と同じ土に張る。

 それが“継承”にございます」

 家光の瞳がわずかに揺れた。

 「継承……。だが、外様はまだ動く。浪人どもは塵のように、風の向き次第で舞い上がる。

 刀で抑えるだけでは、いつか再び刃が交わるのではないか」

 「刀は腕を鎮めますが、怨は胸に残ります。

 怨を鎮めるのは法度(はっと)と施策、そして“名分”。

 人は、自らの居場所が理にかなうと知るとき、初めて怨を置きます」

 家光は膝を寄せ、声を潜めた。

 「名分――それを、寺社の式で支えることは叶うか」

 天海はうなずいた。

 「式は“形”にて“心”を示す地図。

 上野・日光の両輪にて、徳川の理を形にいたしましょう。

 東照宮は“武の記憶”、寛永寺は“心の現在”。

 人は過去を敬い、今を保ちます」

     *

 翌日、天海は城を辞し、上野へ戻った。

 朝の光が白砂を照らし、松影が文字のように伸びる。

 弟子の祐運が、昨夜の様子を問う目で近づいた。

 「師。将軍家は、何をお求めに?」

 天海は庭隅の小石を拾い、砂上に円を描いた。

 「政の円(まどか)を作る相談だ。

 法度は円の縁(ふち)。人の心は水。

 縁が直すぎれば水は跳ね、緩すぎれば溢れる。

 ――縁をしなやかにせよ、とな」

 祐運は感心したように見入り、やがて顔を曇らせた。

 「しなやかに……。ですが、寺社奉行に、我らの営みを“権の介入”と見る者もおります。

 上野の造営に、また横槍が」

 天海は微笑んだ。

 「横槍は、槍を振る者の恐れの長さ。

 恐れは理を曇らせる。ゆえに、恐れの根を探るがよい。

 反対の言は、案外こちらへ道を示している」

     *

 その頃、江戸市中には二つの噂が走っていた。

 一つは「寺社多すぎ、田畑痩せる」。

 もう一つは「上野の鐘、大火を招く」という無体なもの。

 天海は町年寄を呼び、茶を供した。

 「畑を痩せさせぬ理を示そう。寺社の境内地は水脈と風道に沿わせる。

 草木を植え、火除け地とし、町の呼吸を整える。

 鐘は火を呼ばぬ。鐘の音で、人心の慌を消す」

 町年寄の顔がほころぶ。

 「なるほど。火除けの森、鐘は合図――“用”が立つなら、町人も理がわかりやすい」

 天海はうなずき、さらに言葉を継いだ。

「寺は祈祷の場である前に、“公共”であれ。

 学びの場を設け、子らへ読み書きを教える。

 寺子屋の門は広く開け。智は貧富を問わず灯る火だ」

 彼の視線の先で、寛永寺の若木が風にしなった。

 ――いずれ、この木陰に子らの声が満ちる。

 祈りが“生きる術”に繋がるとき、政は初めて呼吸を得る。

     *

 ある夕暮れ、上野山下にて小競り合いが起きた。

 侍装束の若者が、大工の肩を突き飛ばし、材木を蹴る。

 「坊主の城を築く気か。徳川の上に僧を置く気か!」

 大工たちの怒声が上がる刹那、天海が間に入った。

 「材木に罪はない。蹴るなら、わしの心を蹴れ」

 若侍ははっと顔を上げる。

 天海は袈裟の裾をただし、静かに続けた。

 「そなたの怒りは“地位”を守る剣か、“国”を守る剣か。

 前者なら、いずれ自らを斬る。後者なら、わしも血を流そう」

 若侍の手が震えた。

 群衆のざわめきが遠のく。

 天海はさらに一歩、近づく。

「そなたの恐れを言葉にせよ。恐れは、名を与えられて初めて治る」

沈黙ののち、若侍は目を伏せた。

 「……我らは、力を削がれるのが怖い。

 戦のない世で、武の居場所が消えるのが、怖い」

 天海は頷いた。

 「恐れは理解だ。ならば、武の仕事を新しくつくればよい。

 町の火消しを助け、橋を守り、道を護れ。

 刀は、斬るためのみならず“災いを断つ”ためにもある」

 若侍は深く頭を下げ、材木を起こし直した。

 その背に、夕灯の色が静かに差した。

     *

 数日後。江戸城・黒書院。

 家光は天海を迎え、広げた地図に指を置いた。

 「参勤交代をより固める。諸侯に江戸の息を吸わせ、国のリズムを揃える。

 だが、長旅は民百姓にも負担。礼と倹の折り合いを、どう図る」

 天海は地図の東西を撫でるように見た。

 「道中に御用留を設け、宿場に寺子屋と施療の場を置かせましょう。

 武士が往来を護り、町人は商いを活かし、寺は子と病を看る。

 三つの柱が立てば、旅は苦ではなくなる」

 家光の目に光が宿る。

 「道を“政の血管”にするか」

 「はい。寺は“神経”となって、心を繋ぎます。

 鐘の合図と連絡札で、災の報を継ぎ、荷と人を守る。

 ――江戸の息が、国の果てまで届く」

 家光は深く息を吐いた。

 「そなたと話すと、わしの胸の影が晴れる」

 天海は微笑んだ。

 「影が晴れるのではなく、影の形が見えるのです。

 目に映れば、怖れは減る」

     *

 しかし、影は別の形でも忍び寄った。

 ある夜更け、寺社奉行から密書が届く。

 「市中に“異端”の噂。南蛮の祈りが密かに広がる――」

 書状は厳罰を促す文言で締められていた。

 天海は硯の前で長く目を閉じた。

 ――また、怨の火種を増やすのか。

 彼は筆を執り、返書に短く記す。

 「理を以て糾し、情を以て赦す。

 祈りは地下に潜らせるな。

 昼に置けば、影は短くなる」

 取り調べは厳に、処断は柔に。

 祈りをただ斬れば、怨は土中で根を張る。

 昼に立たせ、理で囲えば、やがて風で散る。

 ――天海の策は、武断と寛容の間を縫った。

     *

 春。上野の桜が満ちる。

 花びらは雪のように降り、白砂に淡い文様を描いた。

 家光がふいに訪れ、庭に立った。

 供の者を遠ざけ、二人だけの風が流れる。

 「天海。わしは“強さ”とは何か、ずっと考えている。

 戦で勝つことか、法度で縛ることか。

 あるいは、笑って許すことか」

 天海は花片を一枚、掌に受けた。

 「強さとは、“折れぬ柔らかさ”にございます。

 竹は折れず、雪を受け流す。

 剛だけを誇れば折れ、柔だけを誇れば潰れる。

 ――剛柔の間に、人の道はございます」

 家光の頬に、風が触れた。

 彼は低く問う。

 「わしは、父や祖に負けぬ“わしの徳川”を、どのように築けよう」

 天海は、掌の花片を空へ返した。

 「人を生かすことでございます。

 大名を従えるより、町人に道を、子らに学を。

 人が“自らを良しとする場”を与える者が、真の将にございます」

 家光はゆっくりと頷き、やがて笑った。

 「ならば、わしは“学びと技”を広げよう。

 火事は“定火消”で、道は“修理奉行”で、学は“寺子屋”で。

 そなたの鐘の音を、政の隅々まで通す」

 その声に、桜がざわめいた。

 春の風が、若い君主の決意を確かめるように梢を渡った。

     *

 その夜更け。

 天海は書院でひとり、灯を細めた。

 筆は硯に眠り、心は遠い比叡の闇へ帰る。

 燃えた堂、倒れた師、泣きやむことのない童。

 ――あの夜の火は、今も胸で燃えている。

 「智は、火ではない」

 師の遺声が、ふいに灯下で蘇る。

 「智は、風である。

 火を煽ることも、火を鎮めることもできる。

 風の行方を知り、火の高さを見よ」

 天海は瞑目し、静かに合掌した。

 風を読む。

 それが、自身の役目。

 その風を、若き将軍の胸の奥へ通す。

 それが、寛永という時代の智の仕事だ。

     *

 翌朝。寛永寺の工匠たちが、鐘楼の梁に最後の一本を渡す。

 棟梁が高声に唱えると、山の鳥が一斉に飛び立つ。

 天海は下から見上げ、ひとことだけ告げた。

 「急がず、怠らず、恐れず――三つの律を守れ」

 棟梁は笑って頷いた。

 「わかりやした、上人。急げば矩(のり)を違え、怠れば工が鈍り、恐れれば手元が狂う。

 ……こいつぁ、政にも効きますな」

 天海は目を細めた。

 政も工も、理はひとつ。

 人の仕事は、心の手つきに現れる。

     *

 黄昏。

 上野の丘に、ふたたび鐘が鳴る。

 深い音は、江戸の屋根を撫で、橋を渡り、川面を震わせ、遠い外れの畑にまで潜っていく。

 畦道の童が顔を上げ、母が鍬を止め、旅の武士が足を止める。

 ――ごぉぉぉん。

 その一打に、戦の世の名残がまたひとつ、呼吸へ変わる。

 天海は胸の内でゆっくりと答えた。

 「寛永の鐘よ、人の心を平らにせよ。

 剛も柔も、貧も富も、影も光も――同じ間で震わせよ」

 鐘の余韻の向こうで、家光の笑声が聴こえた気がした。

 若き君主もまた、この音に自らの影を重ねているのだろう。

 影は光の形。

 ならば、影を抱いて進めばよい。

 風は、前からも後ろからも吹く。

 智は、その両方を受けて、ただ歩みを整えるのみ。

 天海は夜空を仰ぎ、静かに目を閉じた。

 比叡の炎は過去となり、江戸の灯は現在となった。

 これから先の世へ、鐘はなお鳴り続ける。

 それは祈りではなく、生の合図。

 人が人を生かすための、静かな律動である。

(第7章につづく)

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