横溝正史を模倣し和歌山毒物カレー事件を題材にした小説『鉄鍋忌聞録』(てつなべきぶんろく)第九章・最終章

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第九章 火の鎮魂

 秋が深まった。村の空気はすっかり冷え、柿の実が赤く熟れている。

 私は村の郷土資料館にある「夏祭りの供養記録」を手に取っていた。

 あの夜、カレーを食べたことで四人が倒れ、うち二名が死亡した。使用されたのは家庭用のヒ素だった。

 疑われたのは、あの日、鉄鍋の見張り番だった志津である。

 だが、志津は自ら毒の存在を否定し、やがて「鉄鍋の火の呪い」として処理されていった。

 だが、私は知っている。志津は毒を入れていない。


 御堂家に残されていた祭り当日の調理記録には、重要な点があった。

 ● 志津がカレーを仕上げたのは午前11時。

 ● その後、カレー鍋には“火止めの儀式”として蓋を被せ、祠の地下に安置された。

 ● 鍋を再び火にかけたのは、午後五時三十分。

 ● 蓋を開けたのは、志津ではなく、久枝だった。

 つまり、「毒が入れられたとすれば、その間のどこか」だ。


 私は久枝と再び面会した。彼女はやつれた表情で、だがどこかふっきれたようでもあった。

「久枝さん、ひとつだけ確認したいのです」

「……はい」

「祭り当日、あなたが鍋の蓋を開けたとき、“匂い”に違和感はなかったですか?」

「ええ。……少し、金属っぽいにおいがしました」

 それが決定打だった。

 ヒ素は金属臭を帯びる。だが、長時間火にかけると揮発し、においも飛ぶ。

 志津が炊いたときには“異臭はなかった”。しかし再加熱時に発生した金属臭――つまり、毒は午後に入れられたことになる。


 犯人は、午前と午後の調理の“すき間”に毒を投入した人物である。

 そして鍋は祠に安置されていた。その場所は、御堂家の内々の人間しか知らない。

 私が最も注目したのは、澄江(すみえ)――志津の妹、そして村議の妻である。

 彼女は事件後、一貫して“志津は病んでいた”と主張し続けていたが、その態度は異様に断定的だった。


 私は澄江を訪ねた。

「志津さんのことですが、なぜあそこまで“犯人視”されていたのですか?」

 澄江は一瞬、微かに目を泳がせた。

「姉さんは……狂っていたのよ。塩を焼いて、火に話しかけて……正直、誰が見ても異常だったわ」

 私は鞄から小瓶を取り出した。

 中には、祠の近くの地面から採取した土壌が入っていた。

「澄江さん。ヒ素は、この村の土壌からは取れません。ですがこの小瓶の中からは、高濃度のヒ素が検出されました。つまり、誰かが“毒物をこぼした”ということです」

「……!」

 澄江は何も答えなかった。


 私は静かに続けた。

「毒を祠に運ぶには、村人の目を避ける必要がある。あなたは、夏祭りの前日、役員として準備をしていましたよね?」

 澄江の指が、微かに震えた。

「あなたは祠に入れた。志津の鍋の蓋を開け、毒を入れた。それは、志津を破滅させるためだった」

 澄江の口から、かすれた声が漏れた。

「……あの人は、御堂の“正統”じゃないのよ」

「知っていたのですね。志津が和津さんの娘であり、“平児”であったことを」

「ええ。姉さんは、母の寵愛を一身に受けていた。火の娘として、選ばれし者として……でも、私だって……」


 澄江の声は次第に涙に濡れていった。

「私は、“火の子”じゃなかった。何をやっても塩は赤くなった。“穢れの血”だと、蔑まれた。姉さんだけが、いつも真っ白だった。火を操る女神のように……」

「だから、壊したかったのですね」

「ええ。あの鉄鍋の火ごと、全部、終わらせたかったの……」


 後日、警察に澄江は自首した。

 村は大混乱に陥ったが、それでも誰一人、彼女を責めることはなかった。

 それほどまでに、御堂家の“火の呪縛”は重たかったのだ。


 私は最後に、久枝と祠を訪れた。

 供養の火はもう焚かれていない。ただ、かつて鉄鍋が置かれていた場所に、白い石がひとつ、供えられていた。

「先生。……私、火が好きになれそうです」

 久枝は静かに言った。

「火は、燃やすだけじゃない。温めるものでもあるから」


 村はやがて、御堂家の呪縛から解き放たれていった。

 火も、塩も、鉄鍋も。もはやそれは伝説ではなく、過去の一頁となった。

 だが私は、今でも思うことがある。

 あの火の中に、本当に焼かれていたのは何だったのか。

 それは「血」か、「嘘」か、「母の愛」か。

 それとも――人が人であることを守るための、最後の祈りだったのかもしれない。

最終章 鉄鍋忌聞録

 あれから、もう三年が経つ。

 私は今、ある古びた旅館の一室に腰を下ろし、書き終えた原稿を前にして、湯呑に口をつけている。

 机の上には、一冊の原稿がある。

 それがこの物語――すなわち、『鉄鍋忌聞録』である。


 和歌山県某村に伝わる“鉄鍋の火”と“塩の儀式”、それがもたらした迷信、差別、血の宿命。

 そして夏祭りの夜に起きた、毒カレー事件――。

 ヒ素を仕込んだのは、志津ではなく妹の澄江であり、その動機は姉への嫉妬と、御堂家に対する長年の怨嗟だった。

 志津は「火の巫女」として生涯を捧げながらも、最後は火に焼かれることを望んだ。

 だが、彼女は火の中で死ななかった。

 彼女の祈りは、娘である久枝の腕によって、引き戻されたのだ。


 私がこの事件を記録に遺そうと決めたのは、村の外から来た一人の部外者として、“火”が象徴するものの実態を、誰かが正しく言葉にせねばならないと感じたからだ。

 火は、清めの象徴ではなかった。

 塩は、真っ白な血を証明する道具ではなかった。

 鉄鍋は、血統を煮詰める釜ではなかった。

 それらはすべて――人の不安が作り出した“偽りの象徴”に過ぎなかった。


 久枝は現在、和歌山市内の保育施設で働いている。

 彼女は人前で「御堂久枝」と名乗ることはない。

 志津の死後、和津の養子として戸籍上も正式に「綾小路久枝」となった。

 私が彼女を訪ねたのは、先月のことである。

 その日、彼女は保育室の隅で、小さな子どもと一緒に粘土で“鍋”を作っていた。

「見てください先生、“塩入りカレー鍋”ですよ」

 彼女は冗談めかして笑ったが、その瞳は、決して笑ってはいなかった。


 私は彼女と近くの喫茶店で、久しぶりに向き合った。

「久枝さん。あなたは、もう火を怖がらないと、そう言っていましたね」

「はい。怖くないです。……でも、時々、匂いがするんです」

「匂い?」

「……赤く焼けた塩の匂いです。ふとした時に、鼻を突くんです。それは、記憶の匂いなんでしょうね」

 彼女はカップを手に取り、そっと続けた。

「火を見て育ったから、火を怖れた。でも、火を抱いてくれたのも母でした。だから私は、火を捨てたくないんです」


 村では、今でも火祭りが続いている。

 ただし、御堂家による“塩の儀式”は完全に廃止された。

 祠も解体され、御堂家の屋敷は今や公民館として整備され、老人たちの集会所になっている。

 久枝は、一度だけその場所に訪れたことがあるという。

「白い塩の跡が残っていました」

 そう彼女は言った。

「でも、もう赤くは見えませんでした」


 私は事件のあと、村の外で暮らすことにした。

 あの事件は、解決した。

 しかし、心の奥にはいまだに“焼ききれなかった記憶”が残っている。

 それは志津の涙でも、澄江の悔恨でもない。

 火を囲んで、白い塩を手に取る村人たちの“目”である。

 あの目は、火を見る目ではない。

 “誰かを炙り出そうとする目”なのだ。


 私が原稿をまとめる中で、最も苦しんだのは、「志津の罪」をどう描くか、という一点だった。

 志津は、人を殺してはいない。だが、彼女の沈黙が、久枝を苦しめ、村を迷信に縛り付けていた。

 では彼女は“罪人”だったのか。

 私は違うと思っている。

 彼女は、火の中で燃えることでしか、自分を終えられなかった“犠牲者”である。

 志津は、信仰の象徴でも、呪術の巫女でもない。

 彼女は、ただの一人の母だった。

 火を灯すことよりも、火から守ることを選んだ母だった。


 私の記録――この『鉄鍋忌聞録』は、決して“推理小説”ではない。

 毒の入れられた鍋。

 赤く変色した塩。

 燃える祠。

 それらは一つ一つ、謎として明かされたかもしれないが、真の意味で解かれることはない。

 なぜなら、それは“人の心”が生んだものだからだ。

 火は怖い。だがそれ以上に、人の心の奥に潜む“火”はもっと怖い。

 それは愛の炎であり、妬みの炎であり、祈りの焰でもある。


 私の原稿は、まもなく書籍化されるという。

 それを読んだ久枝から、ひとつだけ手紙が届いた。


「先生。鉄鍋のこと、書いてくださってありがとうございます。でも、私は“鉄鍋の娘”ではありません。“志津の娘”でも、“和津の娘”でもありません。私は、私です。火の匂いと、母のぬくもりと、あの夏の夜の光を知っている私です。それだけで充分なんです」


  • 十一(終)

 私は筆を置いた。

 あの日、御堂家の祠の奥で聞いた火のはぜる音が、今でも耳に残っている。

 それは怒りでも、呪いでもない。

 たぶん、母が台所でカレーを煮ていたときの、あの音と同じだったのだろう。

 火は恐れるものではない。

 火は、記憶であり、祈りであり、いつかの愛なのだ。


  • 終幕

 『鉄鍋忌聞録』完。



※この物語はフィクションであり、実在の人物・団体・事件とは一部を除き関係ありません。ただし、1998年の和歌山毒物カレー事件を題材とし、横溝正史の文体を模した推理小説として構成しています。

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