第一章 毒の郷より
- 一
その村には、かねてより毒の因縁があった。
鉄の匂いが鼻をつき、白日のもとに人は倒れ、血の気の引いた土間には、いずれも「わからずやの理」が転がっていた。そう、誰がいつこの村に“毒”を持ち込んだのか。誰がそれを“味”に変えようと企てたのか。それは、まことに得体の知れぬ謎であった。
和歌山県北部、日高川に程近い寒村――仮にこの地を「東角村(ひがしかどむら)」と記すことにしよう。漁業と林業に生きる村人の数は三百に満たぬ。年に一度、村をあげて行われる“夏の地蔵祭り”は、古来より厄を祓い、五穀豊穣を願う行事であった。
だが、平成十年のその日、祭りは血に濡れた。
――四人の命が、たった一杯のカレーライスによって絶たれたのである。
事件の真相は、当初こそ「食中毒の一種」と軽んじられていた。だが、次第に明るみになる数々の不審、そして村の奥に潜む因習と悪意の影。古びた社の裏手に埋もれていた鉄鍋が、すべての闇を孕み、語らずして叫びを上げていた。
- 二
私――簗瀬譲(やなせ・ゆずる)は、東京の小出版社に勤める編集者である。もともと犯罪ノンフィクションを専門にする雑誌の取材班に籍を置いており、その関係からこの事件のことは耳にしていた。
だが、わざわざ和歌山の一寒村に足を運ぼうとしたのは、ある日、一通の不審な封書が届いたからである。
「毒は、血から始まる。死者は語らぬが、地蔵は見ていた――」
差出人の記名はなく、震える筆跡でそう書かれていた。妙に気になった私は、かつて関西で記者をしていた旧友・槇島邦夫を頼り、彼の紹介で村に赴くこととなった。
「東角村の夏は、死者の匂いがするよ。まあ、譲、お前さんも物好きだな」
そう笑った槇島は、薄くなった髪を手で撫でつけながら、当時の新聞切り抜きを数枚、封筒に入れてくれた。
そこには、青空の下、地蔵堂の脇に置かれた巨大な鍋と、ブルーシートに覆われた遺体の写真があった。傍らには、取り乱した様子の村人、膝をつき泣き崩れる女性の姿も写っていた。
「……女、だな」
「うん?」
「いや、これは――女の憎悪の匂いがする」
私がそう呟いたとき、槇島は一瞬、真顔になった。
「鋭いね。実は容疑に挙がったのは村の“ある女”だ。だが、証拠は曖昧でね。あの村じゃ、誰も彼女の目を見て話せなかったそうだ」
- 三
村に入ったのは、七月の終わり、蝉の声が耳を突き刺す蒸し暑い午後であった。小さな駅舎を出ると、民家の屋根越しに入道雲がのたうっている。道端には夏草がはびこり、電柱には盆踊りの案内が貼られていた。
私を出迎えたのは、東角村の村会議員を務めるという老爺・御堂周平(みどう・しゅうへい)であった。細身で、背筋が真っ直ぐな男である。右手には漆塗りの杖を持ち、口調はどこか旧制中学の教師のような響きをもっていた。
「遠路遥々ようこそ。村も、そろそろ“あのこと”に区切りをつけなければならんのでな」
そう言うと、御堂は私を村の集会所跡に案内した。そこは、かつて事件当日の“地蔵祭り”の会場となった場所で、今はひっそりと草に埋もれていた。
「この場所で……四人が亡くなった、と」
「そう。カレー鍋を囲んだ宴の最中だった。鍋はアルミ製。中身にはヒ素が混入されていたという」
「偶然の混入ではない……と、皆が考えている?」
「いや……皆、考えることすら恐れておる。犯人の名を出すことは“祟り”とされていてな。今でも村人は口を噤んでおるよ」
私が沈黙したまま周囲を見回していると、御堂がぽつりと呟いた。
「――毒を混ぜたのは、たしかにあの女じゃ。しかし……あの女ひとりの手ではない。村そのものが、あの毒を育てたのだ」
- 四
事件の中心人物とされたのは、村の雑貨店を営む**長峰久枝(ながみね・ひさえ)**という四十代の女である。
夫は元消防団員で、町内では厳格な人物として知られていた。二人の子どもがあり、家族としては一見ごく普通に見えたが、久枝には以前から村内でさまざまな「軋轢」があったという。
まず、祭りの運営委員会で他の婦人会と口論になり、その年は“カレー当番”から外されていたにもかかわらず、事件当日、突然会場に現れ、持参した鍋の中身を勝手に混ぜた……という証言が複数あった。
しかし、村人たちは「彼女が混ぜた」という核心に触れようとしなかった。警察の取り調べも難航した。
――なぜ誰も、真実を語らなかったのか。
私はその答えを、村の古い民俗伝承に求めることになるのだが、それはもう少し後の話である。
- 五
夜――私は村の宿に泊まり、帳面を開いては取材の記録を整理していた。すると、不意に戸を叩く音がした。
「……あの、よそ者さんでっか?」
現れたのは、老婆であった。年の頃は七十を優に超え、背中を丸め、手に風呂敷包みを持っている。
「これを、渡して欲しいんや――あの人に。……久枝はんに」
そう言って差し出された風呂敷を開くと、中には古びた写真と、赤い金魚の模様が入った浴衣が畳まれていた。老婆の手は震えていた。
「村は、全部知っとるんや。でも……もう、止められへんのや……」
私はその言葉に、強い既視感を覚えた。
この村には“語られていない共犯者”がいる。
そしてそれは、おそらく“村そのもの”なのだ。
(つづく)
※この物語はフィクションであり、実在の人物・団体・事件とは一部を除き関係ありません。ただし、1998年の和歌山毒物カレー事件を題材とし、横溝正史の文体を模した推理小説として構成しています。
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