第三十七章 供述者の影
六月の雨は、東京のアスファルトに冷たい黙を落としていた。国会記者クラブの一室。記者たちのざわめきは、午後三時を回っても収まることがなかった。
奈々は白いブラウスに身を包み、用意された長机の前に座っていた。顔には明らかな疲労が滲んでいたが、眼差しには一分の曇りもない。彼女の隣には外山の元同僚、内調の退官者・佐久間重則が座っていた。
「本日、皆さんにご提示する資料は、地下鉄サリン事件に関する政府内未公開報告書の写し、および第七分科会内部会議の録音データです」
静寂が走った。
奈々がUSBメモリを掲げた瞬間、カメラのシャッター音が一斉に鳴り響く。
佐久間は咳払いをし、低い声で語り出した。
「私が在籍していた防衛庁第七分科会は、平成元年に設置された機密情報処理機関です。名目上は国内外のテロ対策情報の集約を目的としていますが、実際には……“思想傾向の監視と調整”を任務としていました」
数人の記者が顔を見合わせた。
「調整、とは?」
ひとりが問いかけると、佐久間は首を傾げた。
「報道機関、官僚、地方議員、果ては民間学者に至るまで、政府の“危険認定”を受けた者については、職場異動、補助金打ち切り、公安調査庁の非公式リスト入り、時には……“不慮の事故”すら選択肢に入る」
「まさか……それが、地下鉄事件に?」
奈々は答えた。
「母は、厚生労働省の薬害訴訟担当でした。サリンに対する医療体制の見直しを求める動きを牽引していたんです。でも、ある時から急に黙らされた。会議記録を読みました……母の発言は、明確に“忌避すべき言動”として名指しされていた」
空気が凍ったようになった。だが記者たちの手元は止まらない。まるで“歴史の証人”になるかのように。
奈々は、深く息を吸い、続けた。
「私が届けたいのは、復讐ではありません。知ってほしいのは……国家にとって“不都合”というだけで、人が命を奪われ、遺族が真実を知らされぬまま沈黙させられる現実です」
その会見から数時間後、永田町の地下にある政府広報室には、報告が届いていた。
「オピニオン・ジャパンが記事化。BBC、NHK、ロイターが拡散準備。トレンド2位。ハッシュタグ“第七分科会”急上昇中」
神原秋人は、その報告書を読みながら、ただ静かに頷いた。
「……やはり抑えきれなかったか」
部下が問う。
「コードF-0の発動は?」
「不要だ。これ以上手を出せば、我々も崩壊する」
神原は立ち上がり、ひとつの古びた鍵束を机に置いた。それは、かつての“七分科会”の保管庫を開けるものだった。
「諸君。我々がやってきたことを、記録として残す時が来た」
その夜、磯部慎一は新宿の小さなバーで外山と再会していた。
「お前、死んだかと思ったよ」
「死に損なっただけさ」
グラスを傾けると、磯部は苦く笑った。
「なあ外山……俺たちは何を信じてたんだろうな。あの夜、毒ガスが撒かれたあの駅で、現場にいた俺は、ただ写真を撮ってただけだった。助けもせずに、ニュースにするためだけに、だ」
外山は静かに答えた。
「……正義ってやつは、時に“記録するだけ”の人間の方に残るんだよ。手を出さない、けど見つめ続ける者にな」
磯部は頷いた。そして小さな声で言った。
「それでも……あの朝の匂いだけは、今でも鼻の奥に残ってる。硫黄と、汗と、……誰かが吐いた血の匂いだ」
その翌日、ある男が自首してきた。
警視庁の受付に現れたのは、元公安調査庁の分析官・伊達洋介。神原秋人の部下であり、“記録係”と呼ばれていた男だった。
彼は、裁判を受けることを望んだ。
「これが終わったら、俺は死刑になるかもしれません。でもそれでいい。なかったことにするよりは」
検察官は彼の証言を逐一記録した。
・地下鉄サリン事件には政府の“情報黙認”があったこと
・オウムの動向は既に詳細に把握されていたこと
・国家転覆の兆しを察知しつつ、行動を取らなかった理由は「社会実験」的側面が含まれていたこと
「我々は、人間を“数値”で判断していた。“発症率”、“影響度”、“波及度”。そこに命はなかった」
六月十六日。奈々は母の墓前に立っていた。
雨は止み、雲間から陽が差していた。だが空は、やはり重たかった。
「……お母さん。ごめんね。私、やっとここまで来た。でもね、きっと、まだ終わらない」
彼女は白百合を一輪、墓に捧げた。
「でも、お母さんが信じた正義を、私は、信じてるから」
彼女は振り返り、石段を下りていく。
その背中に、淡い風が吹いた。
それは、まるで誰かがそっと見送っているかのようだった。
第三十八章 亡霊たちの会議
梅雨の晴れ間を縫うように、霞が関の一角ではひとつの秘密会議が始まろうとしていた。
場所は、かつて内閣情報調査室の極秘資料が保管されていたとされる旧庁舎地下の「第五審議室」。地図にも載っていないその部屋は、壁面すべてが鉛板で覆われ、通信を完全に遮断する設計がなされていた。
そこに集まったのは、政治、公安、旧内調、自衛隊関係者を含む総勢七名。いずれも「第七分科会」の末端に名を連ねていた人間たちだった。
椅子に腰かけた神原秋人は、眼鏡を外し、目頭を押さえた。沈黙を破ったのは、防衛省情報本部出身の元准将・名越慎吾だった。
「……いよいよ我々も終わりか。あの女の会見で、空気が変わった。報道は抑えきれん」
神原はうっすらと笑った。
「終わり? 名越君。君はまだ、“始まり”すら理解していないのか」
「どういう意味だ」
神原は、テーブルの上に一冊のファイルを置いた。古びたそれには、手書きの文字でこう記されていた。
「L計画 第0草案」
「地下鉄サリン事件は、ひとつの警鐘だった。しかし、我々が描いていたのは、もっと先……日本という国家の構造そのものを変える、“浄化”の予行だったのだ」
ざわつく室内。誰もがその言葉を鵜呑みにできなかった。
一人が低い声で問う。
「つまり……“実験”は終わっていないと?」
神原は頷いた。
「第二段階の着火点は既に選定されている。内外の混乱を利用し、公共の信頼を崩壊させ、新たな“管理形態”を作る……それが“曇天計画”だ」
一同の顔色が変わった。
「お前は正気か、神原。そんなことをすれば――」
「我々にはもはや選択肢はない。暴露は止まらない。であれば、“混乱”の中で再構築を図るしかない」
その瞬間、背後の扉が音もなく開いた。
現れたのは、黒いスーツに身を包んだ若い男。眼光鋭く、無表情なままファイルを差し出した。
「あなたの命で、都内の施設にあるL-17資料がすべて破棄されました。対象者名簿も“事故死”として処理完了です」
神原は頷き、返す言葉はなかった。
その頃、警視庁では伊達洋介の供述録が静かに打ち込まれていた。
「……地下鉄事件で得られた最も重要な教訓は、“市民が何も知らぬまま死ぬことに、慣れる”という事実だった」
検事が息を呑む。
「報道、教育、司法、行政。あらゆる部門が“前例”を守ることで、実際には何も変えようとしない構造。それを突いたのが、我々の任務だった。国家というものは、形を保つために真実を殺す……そういう仕組みになっている」
検事は問いかけた。
「あなた自身は、どこで一線を越えたと?」
伊達は笑った。
「……気がつけば、“線”など存在しなかった。ただ、命令に従っているうちに、気づけば地獄の真ん中にいた」
外山誠はその供述書を読み終え、肩を落とした。
磯部慎一と共に、都内某所の簡易編集室で、過去の記録映像を繋いでいた。そこには1995年の現場映像、搬送される被害者、記者会見の断片、そして警察が握りつぶした証拠写真の数々が含まれていた。
「おい外山……これ、本当に放送する気か?」
「するさ。たとえどんな圧力が来ようと、俺たちは見たことを伝える義務がある」
磯部は黙ってうなずいた。だがその手には、微かな震えが走っていた。
一方、奈々は新宿のアパートで、亡き母の遺品を整理していた。押し入れの奥から見つかった一冊のノート。
そこには、母が生前に綴っていた日記が収められていた。
《1994年12月2日》
“私たちは、何か恐ろしい計画の手前に立っている気がする。最近、会議中に資料が次々と差し替えられる。上からの指示だというが、明らかに“毒性情報”を軽視している。今、私は何かとんでもない嘘に加担させられているのではないかという恐怖を感じている。”
奈々はページをめくる手を止め、目を閉じた。
「……やっぱり、お母さんは全部、知ってたんだね」
彼女は震える指でそのノートを閉じ、そっと胸に抱いた。
午後十時、都心某所。ひとつの“事故”が発生する。
神原秋人が乗っていた防衛省所有の車が、高速道路で激突・炎上したのだ。ブレーキ痕はなく、助手席にはファイルがひとつ残されていた。
焼け焦げたその中身は、識別不能だった。
だが、その死によって“第七分科会”の組織的責任追及は不可能となる。
ある記者は呟いた。
「死人に口なし、か……」
だが、外山は違った。
「死人に口はなくても、声を聞いた人間がいる限り、黙ってはいられない」
彼は最後の資料映像を、全国ネットの報道局へ送信した。
奈々は、夜の空を見上げていた。ビルの谷間から見える月は、淡く、頼りなかった。
彼女の胸に残るのは、怒りでも恐怖でもなかった。
ただ――
「終わらせなきゃね。誰かが、ここで」
その声は、やがて遠くで始まったサイレンの音にかき消されていった。
(第三十九章へつづく)
※この小説はフィクションであり、実在の人物や団体とは一部の史実を除き関係ありません。松本清張風のリアリズムを重視し、架空の登場人物を通じて事件の構造に迫っていく構成になっています。
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