第三十一章 暴露の刻(とき)
都心のビル街に朝の陽光が差し込む頃、梶村奈々はひとり、出版社の小さな会議室にいた。机上にはノートPCと、USBメモリ、そして分厚いファイルの束。昨夜、高村辰夫の邸で手に入れた「記録群」がそこに広げられていた。
外山信義の姿はない。彼は今朝方、公安の内部監察部に呼び出されていた。高村邸に関する情報漏洩の疑いがかけられていたのだ。だが奈々にとって、もはや彼の去就は大きな問題ではなかった。
それよりも、自分がこの記録を「世に出すか否か」が、重くのしかかっていた。
USBの中には、1992年から現在に至るまでの“都市心理適応実験”の記録が詳細に保存されていた。対象者コードと照合する形で、数十名の生活履歴、医療記録、そして“改変された記憶”の痕跡までが、逐一記録されていた。そのなかにあったコード“KJ-17”が、自分であることは疑いようもない。
私は、実験の産物だったのか。
その疑念は、奈々の心に巣くって離れなかった。だが同時に、それでも自分は“今ここにいる”という事実が、彼女の指先を震わせながらもPCのキーボードへと向かわせた。
「あなたは何をしようとしているの?」
声の主は、かつての同僚であり、雑誌『アヴァロン』の編集長・篠田だった。
「本当にこれを掲載するつもりか? これは“事件”じゃない。国家に対する、暴露だ。下手をすれば編集部ごと吹き飛ぶぞ」
奈々は、無言のままUSBメモリを差し出した。篠田はそれを受け取ると、慎重にPCへ接続し、ファイル群を確認した。
その間、沈黙が続いた。
数分後、ファイルを閉じた篠田が、低く言った。
「……これは、本物だな。だが、出す前に考えろ。お前が暴く相手は宗教団体でも個人でもない。『国家の意志』だ。お前の名前は、永久に消されるかもしれん」
「……だから、出すんです」
奈々はかすれた声で言った。
「ここで止めたら、今まで苦しんできた人たちが浮かばれない。父も、事件で命を落とした人も。これは記者としてじゃなくて、人間としての選択です」
篠田はゆっくりと頷いた。彼の目にあったのは、編集者ではなく、男としての決断の色だった。
「分かった。特集号として一本組む。ただし、リスクはお前自身がすべて引き受けろ。掲載前の責任は俺が持つが、後は知らんぞ」
その夜、奈々は高田馬場の小さなバーにいた。かつて外山と初めて情報を交わした場所だ。彼は公安の内部査問を受けており、しばらく表に出ることはできない。だが、彼女は今日ここに「最後の確認」をしに来た。
マスターがそっと封筒を差し出した。中には、外山が残した手紙が一枚だけ入っていた。
梶村記者へ
あなたの行動は、私の過去を清算する唯一の光です。
情報機関にいた私にとって、国家とは常に“虚構”の温床でした。
あなたが真実を選ぶのなら、私は陰で支え続けます。
ただし、覚悟して下さい。真実は、必ずしも人を救いません。
外山 信義
手紙を読み終えた奈々は、カバンから一枚の紙を取り出した。それは『アヴァロン』次号の巻頭予定レイアウトだった。タイトルにはこう書かれていた。
特集:国家が記憶をつくる時――サリン事件の背後にあった“実験”
掲載予定日が近づくにつれ、周囲の空気が変わった。
まず、雑誌社の電話回線に不審なノイズが走るようになった。編集部前には正体不明の“読者”が現れ、深夜には記者の一人が尾行された。篠田が部内に発したひと言が、緊張を走らせた。
「……すでに“見られてる”。いつ潰しに来てもおかしくない」
それでも奈々は原稿を書き続けた。自分の記憶、父との過去、高村の言葉、そして外山の姿。それらを組み合わせ、“何が奪われたのか”を自問しながら、一文一文を紡いだ。
掲載日前夜、篠田が最後の判断を奈々に委ねた。
「やめるなら今だ。印刷所への入稿は、明日の朝四時。たったひと言“やめよう”と言えば、原稿ごと消す。……どうする?」
奈々はわずかに目を閉じ、そして言った。
「出してください。私の名前ごと」
その日、東京の各地で『アヴァロン』最新号が発売された。
大手書店は即日完売し、SNSは「国家実験」「記憶操作」「サリン事件の裏」という文字で溢れ返った。テレビは一斉に黙殺を決め込んだが、ネット配信番組では特集が組まれ、評論家や元公安関係者が顔をしかめながらもコメントを寄せた。
奈々は、雑誌が世に出て以降、一切メディアに姿を見せなかった。
ある者は、彼女が国外へ出たと噂し、ある者は拘束されたと囁いた。だが確かなのは、その“記録”が世に出たことで、少なくとも「事件の輪郭」は大きく変わったという事実だった。
『曇天の螺旋』という名の闇は、国家の底に今なお息づいている。
だが奈々の“決断”は、その闇に一筋の光を射し込んだ。
それが一時的な希望だったとしても――
人は、真実に手を伸ばすことで、自分を取り戻すことができるのだ。
第三十二章 空白の頁(ページ)
朝の霞が東京湾の水面に薄く立ちこめるころ、築地警察署の古びた取調室では、一人の男が無言のまま椅子に座っていた。
男の名は岩倉 貞明(いわくら さだあき)。元厚生労働省・技術官僚。20年以上前に省を退官し、現在は民間の医学財団に籍を置いているが、その実体は“例の実験”の技術顧問として暗躍してきた、中心人物のひとりだった。
彼がいまここにいるのは、自ら名乗り出たためだった。
理由はひとつ――梶村奈々の告発である。
岩倉は『アヴァロン』誌上で自身の名が記載されていることを知るや否や、顧問を辞任し、都内のホテルで数日間潜伏したのち、築地署に電話一本で出頭した。
取調べを担当しているのは、警視庁公安部から異動してきた刑事、永井 聡(ながい さとし)。四十代半ば、叩き上げの刑事であるが、今回の件については明らかに「手に余っている」様子だった。
「……あなたはなぜ、いまになって出てきたんですか?」
永井の問いに、岩倉は窓の向こうをぼんやり見ながら答えた。
「人間というものは、歳をとると、記憶と良心の区別が曖昧になるものです。ときに“間違ったこと”が、“正しかったこと”に思えてしまう。……だが、梶村という記者の文章は、その錯覚を引き裂いた。私の“空白”をね」
「つまり、後悔していると?」
「後悔ではない。“記録”を残したいのです。今なら、まだ間に合う」
岩倉はそう言って、鞄の中から一冊の黒い手帳を取り出した。革張りの表紙に、英字で「Memorandum 1995-2006」と記されていた。
中には、地下鉄サリン事件以降に行われた“社会心理観察プログラム”の内部メモがびっしりと手書きされていた。官公庁の略号、実験対象者のイニシャル、投与された化合物の構成式、経過観察と心理反応――読み解くには相応の知識が必要だが、確実に“本物”であった。
永井は警察手続きの形式を超えて、慎重に手帳を封印袋に収めた。
「……この情報をあなたが出したこと、上層部は黙っていないでしょう」
「覚悟の上です。だから、梶村奈々に渡してほしい。これは、彼女が始めた記録の“続きを紡ぐ”ための資料だ」
同じ頃、都内の閑静な住宅街にある古い文化住宅。その二階の一室で、梶村奈々は身を潜めるようにして暮らしていた。
『アヴァロン』特集の発行から二週間。編集部は炎上し、篠田編集長は辞任。奈々は正式に所在不明となり、SNSには“行方不明”とタグづけされていた。
だが彼女は、消えていなかった。
公安の内通者である外山信義が手配した“空白の場所”で、次なる特集に向けて取材と記録を続けていたのだ。彼女が手にしていたのは、岩倉の手帳の複写だった。警察内部から、外山経由で密かに届けられたものだった。
手帳をめくるたび、奈々の顔が引き締まっていく。
「……これは、“あの夜”の記録……」
1995年3月20日。地下鉄日比谷線、霞ヶ関駅。午前8時13分。記録にはこうある。
対象者コードHF-02、7:56に乗車。
サンプルガス封入装置、起動確認。
投下までの時間13分を計測。
状況制御班より“実施許可”。
08:13、想定通りの発症反応。
つまり、サリン事件は「偶発的なテロ」ではなく、「予測され、条件下で起こされた“反応”の一部」だったというのか。
奈々の背筋に冷たい汗が流れた。
そのページには、関係機関の略号が走り書きされていた。「SIA」「ICPO」「MOF」「厚生A局」……。それは、もはや単なる国内の問題ではなく、国際的な実験構造だったことを示唆していた。
その夜、奈々はついに外山信義に電話をかけた。公衆電話から、記憶していた番号へ。
受話器の向こうに、変わらぬ男の声が返った。
「久しぶりですね。どうやら、“ページ”を手にしたようだ」
「これは……世界に出していい情報なんでしょうか」
「あなたの覚悟次第です。国家は真実を出すことを恐れない。だが、“誰が出すか”を見極めている。今度は、あなたが試される番です」
「ならば、試されてみます。“記憶を奪う国家”が何を隠してきたか、最後まで追いかけたい」
電話が切れた。
奈々はそのまま、公衆電話のボックスの中でしゃがみ込み、手帳を胸に抱えた。
夜空は曇天――月すら見えなかった。
だがその曇りの下で、誰かが真実の欠片を手にしていることだけが、唯一の希望だった。
(第三十三章につづく)
※この小説はフィクションであり、実在の人物や団体とは一部の史実を除き関係ありません。松本清張風のリアリズムを重視し、架空の登場人物を通じて事件の構造に迫っていく構成になっています。
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