松本清張を模倣し「地下鉄サリン事件」を題材にした小説『曇天の螺旋』第二十九章・第三十章

目次

第二十九章 密室の協定

ドアが破られる音は、耳の奥に残響として残った。

それが現実のものだったのか、あるいは奈々の精神が見せた幻だったのか。気づけば、彼女は部屋の中央にしゃがみ込んでいた。外からの足音は、すでに遠ざかっていた。破壊された形跡もない。ただ、ノブに微かな擦り傷が残るのみだった。

「警視庁――?」

だが、名乗りも証拠もなく扉を叩く連中が、本当に公的機関の人間だったかどうか、確証はない。

彼女は咄嗟に、USBにまとめたデータの複製をポケットに入れ、隠し通路にしているベランダの非常階段からアパートを抜け出した。通りの先に停まっている黒塗りの車、張り付くような視線。その全てが、今や彼女を取り巻く現実だった。

追われている。

それが明確に認識された瞬間、奈々の中で何かが切り替わった。かつての「記者」としての自己ではなく、「暴く者」としての人格が、明確に形を取ったのだ。


その夜、霞が関・合同庁舎第七号館の地下室で、ある会合が行われていた。

外山信義検事は、隠し持っていた“白鷺計画”の報告書と共に、極秘裏に集めた証拠群を机上に並べていた。対面に座るのは、警察庁情報分析課の主任・楠見昌平。強面の印象を持つが、政界と距離を置いた現場主義の人物として知られていた。

「これは、完全に越えてはならない一線を越えていますな」

楠見は紙の資料に目を落としながら、沈痛な面持ちで呟いた。

「1994年当時、都市安全管理フォーラムを使って民間人への投薬実験を行っていた。しかも、それがサリン事件の直前に集中的に行われた。間宮義一、そしてあなたの父・外山茂明――彼らの死もまた、“事故”ではない」

外山は静かにうなずいた。

「我々が何を相手にしているのか、ようやく見えてきました」

「だが問題は、どうするかです」

楠見は言った。

「この情報を表に出せば、組織の中でも私たちは切り捨てられる。現行法に照らしても、立件には証拠が足りない」

「ならば我々は、“意図的な情報漏洩”という形で動かすしかない」

外山は立ち上がった。

「梶村奈々。彼女はすでに危険な領域に踏み込んでしまった。守らなければならない」

「彼女が“覚醒”したのも、計画のうちだったとしたら?」

楠見の言葉に、外山の顔色が変わった。

「どういう意味です?」

「彼女の精神状態が変化している。過去に“記憶改変”の実験を受けていたとすれば、それが今になって“副作用”として現れている可能性もある。彼女が記憶していること、話していること、それ自体が操作されている可能性を――」

「それでも守る。真実がどれほど歪んでいたとしても、彼女が命をかけて暴こうとしているものを、無視するわけにはいかない」

外山の瞳には、強い決意が宿っていた。


翌朝。奈々は都内の旧いジャズ喫茶で、極秘に外山と接触した。

「……会えるとは思いませんでした」

「私も、無事な姿が見られて安堵しています」

二人の会話は短く、慎重だった。周囲の視線を確認しながら、外山は茶封筒をそっとテーブルに差し出した。

「これに、君の父親が残した音声の未編集版と、白鷺計画の全貌がある。君の推測は、おそらく正しい。“都市安全管理フォーラム”は、1990年代前半に内閣官房の外郭団体として設立され、心理的テロ対策と称して市民の行動心理を研究していた。そして……」

外山の声が一段低くなる。

「オウムによるサリン散布は、当初“模擬演習”として想定されていた可能性がある」

「まさか……国があの事件を“見逃した”と?」

「いや、“利用した”。暴走した信者によるテロという構図は、メディアと公安の共同脚本だった可能性がある。恐るべきは、その脚本が“事実”に勝ってしまったという点だ」

奈々は言葉を失った。

「私は君に、報道を頼むわけではない。むしろ……慎重に動いてほしい」

外山の目が真剣だった。

「この事実を世間に晒すことが、本当に犠牲を止めることに繋がるのかどうか、まだ答えは出ていない。だが、真実を知る者としての“責任”は、君にも、私にもあるはずだ」

奈々は頷いた。確かに、真実を“公開すること”と、“伝えること”は、似て非なる行為だった。


その夜、青山の高架下で、楠見昌平は旧知の“仲介人”と会っていた。相手は公安から追放された元分析官・水原。現在は表向き、民間のセキュリティ会社に勤務していたが、裏では警察庁内部の腐敗情報を密かに流していた。

「君にしか頼めない」

楠見は一枚のSDカードを差し出した。

「これには、“高村辰夫”が直接指揮した実験映像が含まれている。メディアには出せないが、しかるべき筋に渡れば、彼の身柄は確保できる」

「しかしそれは、警察庁自体の崩壊を意味するぞ」

「崩れねばならん。膿を出さずして、未来はない」

楠見の目には、もはや覚悟が宿っていた。

水原はしばらく沈黙した後、SDカードを静かに受け取った。

「では、君の“正義”が正しいかどうか、確かめてみよう」


一方、奈々の元には、一通のメールが届いた。

差出人不明。件名にはただ一言。

「Phase5:水面下へ」

本文には添付ファイルが一つだけ。開くと、そこには信じがたい一文があった。

「梶村奈々=実験計画9409-SS 被験者番号004/観察対象から行動者へ移行確認済」

自分の名前。その横に“観察対象”というラベル。

その瞬間、奈々の脳裏に走馬灯のように過去の記憶が蘇った。父と見た遊園地、大学の講義室、そしてあの小さな診療所の白い壁。

私の人生は、どこまでが“私”だったのか?

その疑念が、奈々の心を突き動かした。


第三十章 影の邸宅

夜の霞が関は、まるで廃墟のようだった。高層ビルの窓はほとんど灯りを落とし、通りを行き交う車もまばら。だがこの静けさの奥には、目に見えぬ緊張が流れている。梶村奈々は、外山信義の運転する車で、ある邸宅へ向かっていた。

「目的地は、三鷹の某所にある旧帝大関係者の私邸です。現在は高村辰夫の所有になっている。もともと都市安全管理フォーラムの初代理事が住んでいた屋敷です」

「そんな場所で会うなんて……罠ではないんですか?」

「ありえます。しかし奴が自ら接触してくる以上、我々に何かを“見せたい”意図がある」

車窓に流れる街並みは、異様な静寂を湛えていた。日常の皮を被った、もうひとつの東京。そこに地下鉄サリン事件の“起源”が眠っているとしたら、それは正史でも報道でもなく、国家という装置が編んだ偽りの物語である。


屋敷は、武蔵野の森の奥にあった。

門扉は鉄製で、まるで美術館のような佇まいだった。入り口には私服警備員が数名待機していたが、外山の名前を出すと、すんなりと通された。

邸内に入ると、異様な静けさと芳香が奈々の神経を刺激した。白檀の香のような匂い、絨毯の足音の沈み――ここはもはや、住居ではなかった。

外山が口を開いた。

「“この場所で話すべきだ”と奴が指定してきた。その理由を、君自身が確かめてほしい」

屋敷の最奥、重厚な扉が二人を迎える。

コン、コン――外山がノックしたのと同時に、ゆっくりとドアが開いた。

そこにいたのは、老人だった。高村辰夫――かつて内閣情報調査室に在籍し、その後、都市安全管理フォーラムの発足に深く関わったとされる人物。

「これはこれは。ようこそ、“実験場”へ」

老人の声は落ち着いており、どこか懐かしさすら感じさせる。それが逆に恐怖を呼んだ。

「あなたが……高村辰夫?」

奈々の問いに、男はただ頷いた。

「おそらく、あなたにはまだ“自分”が見えていない。あなたの過去を司っていたのは、あなた自身ではなく、我々の“記録”だ。理解していただけますかな?」

奈々は凍りついた。

「……どういう意味?」

老人は立ち上がり、壁の一角を操作した。隠し戸棚が開き、複数のモニタと書類の束が現れる。そこには、1992年から1995年にかけて行われた“心理適応実験”の記録が並んでいた。

「あなたは1993年、当時小学校四年生として、都内某所の医療機関で“記憶耐性実験”に登録された。我々は家庭環境、教育方針、日常的行動記録を継続的に観察し、定期的に“記憶刺激”を与えた」

「やめて……! 私の父は……! あの人はそんなものに――」

「君の父親は、協力者だった。梶村信吾氏は、当時“都市安全管理”における倫理審査委員会の一員として、実験計画に署名している。娘の安全を条件に、データ提供を黙認した」

静寂が、奈々の全身を襲った。

「……うそ。そんなこと、あるはずがない」

「うそ、ではない。これは“記録”だ。だが記録には、事実と虚偽の境界がない。君が覚えている思い出も、我々が与えた“触媒”の可能性がある」

老人の声はまるで催眠のように響いていた。

「地下鉄サリン事件もまた、我々にとっては“触媒”だった。国家が一個人の記憶を改変できるか。社会的恐怖が、心理にどのような影響を与えるか。それを測るための、格好の材料だった」

外山が思わず机を叩いた。

「貴様のしてきたことは、もはや実験ではない。人間への冒涜だ」

「そうだろうか?」

高村は静かに立ち上がった。

「君は“正義”の名の下に行動している。だが正義とは、誰のためのものか。社会の秩序とは、何を犠牲にして保たれるべきか。答えは既に出ている。我々の社会は、嘘の上に立ってなお、“成長”している」

奈々の視線が震えた。外山も言葉を失っていた。

「君がここに来たのは、真実を知るためではない。確認するためだ。“自分の存在”がどこまで他者に決定されていたか、それを知りたかったのだ」

高村の手がモニタの一つを指す。そこには奈々の生活行動が、まるで生体データのように時系列で並べられていた。

「これは……いつから?」

「1992年から今に至るまで。断続的ではあるが、“行動予測モデル”としてはほぼ完成に近い。現在の君の選択も、我々は予測済みだ。ここに来ること、涙を流すこと、そして――この会話が、いずれ誰かに“漏洩”されることも」

奈々はその場に膝をついた。

彼女の存在は、果たして自分のものだったのか?

記者としての行動、父への愛情、事件への執着……それらすべてが、国家の実験の中で“仕組まれた”結果だったとすれば――。


邸を出た後、奈々は一言も発しなかった。

外山もまた、口を閉ざしたままハンドルを握り続けていた。

だが、車内に満ちる沈黙には、かすかな“決意”の気配が漂っていた。奈々の目は真っすぐ前を見据えていた。震えながらも、確かな意志がそこに宿っていた。

「……彼が言った通り、私の人生が操作されていたとしても」

奈々が呟いた。

「それでも、私は選ぶ。私自身の意思で、真実を暴くって」

外山は、ハンドルを握る手に力を込めた。

「その時は、私も共に立ち会う。たとえ、何を失ってもだ」


(第三十一章につづく)

※この小説はフィクションであり、実在の人物や団体とは一部の史実を除き関係ありません。松本清張風のリアリズムを重視し、架空の登場人物を通じて事件の構造に迫っていく構成になっています。

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