松本清張を模倣し「地下鉄サリン事件」を題材にした小説『曇天の螺旋』第二十五章・第二十六章

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第二十五章 迷宮の輪郭

東京・神田の一角、古書店が立ち並ぶ裏路地に、「文献堂」と書かれた小さな古書店があった。時間が止まったようなその空間で、梶村奈々は一冊の分厚い学術誌をめくっていた。

『国際神経毒性学会報告書1993年版』

目当ては、ある研究者の論文――著者欄にはこう記されていた。

今西泰三(元・A研究所附属分析部門)

彼女の手が止まった。すぐにポケットからスマートフォンを取り出し、柳田に電話をかける。

「いたわ、今西。彼、本当に実在してた。しかも学術界にいた。公安の資料じゃ“協力者”としか書かれてなかったけど、こいつ、研究者だったのよ。化学兵器じゃない、“神経情報操作”の分野でね」

「……情報の毒か」

「そう。サリン事件が物理的なテロだったとすれば、今彼が企ててるのは“認知の撹乱”。ネットやSNSの流布によって群衆の判断力を鈍らせる……“現代版のサリン”よ」

柳田は言葉を失っていた。事件の進行は、物理的な犯罪の範疇をとうに逸脱していた。脳を、精神を、都市空間ごと“麻痺”させるという発想。――それは、情報化社会における最も静かな殺人だった。

「今西は、何を使ってる?」

「“第三波”よ。フェイクニュースと生成映像、匿名の仮想人格。すでにいくつかの掲示板で“連絡手段”を確認したわ」

「公安は……?」

「動いてない。多分、掴んでるけど、わざと放置してる。彼を泳がせてるのよ」

柳田は一度、深く息をついた。そして言った。

「会おう。俺たちで止めるしかない」


その夜。東池袋のネットカフェ、ガラスの仕切り越しに無数の液晶が光を放っていた。個室ブースのひとつで、ある男がPCを操作していた。白髪混じりの無精髭、頬の皮膚は乾燥して裂け、見る者に不快な印象を与える。男――今西泰三は、外界の音にまるで反応しない。

モニターに表示されていたのは、ある仮想掲示板のスレッド群。

【F-Data:Phase3】

“2025年6月13日、08:45。”

その日時は、奇しくもかつての“サリン事件”と同じ曜日、同じ時刻だった。

「浄化は、記憶と同じ座標でなされねばならない……」

今西はかつての自分を演出していたわけではない。彼にとって、“模倣”は信仰ではなく、数学的な“反復”だった。因果の均衡を求める装置。それが再現されることで、秩序が“修復”されると信じていた。

彼の目は、暗闇に燃えるように濁っていた。


翌日早朝。新宿の路地裏、ある廃ビルの屋上で、柳田と梶村が会っていた。梶村の手には、今西が使っていたとされるアカウントの“ログ一覧”があった。

「これは……?」

「彼が接触していた“人物”――つまり、匿名で協力していたユーザーよ。でも、解析でわかったの。8つのアカウント、全部、同じIPからのアクセスだった」

「同一人物……?」

「いいえ、正確には、“自動応答型人格群”。AIを用いて分裂した“彼自身”なのよ」

柳田は思わず絶句した。

「一人で“集団”を構成していたってのか」

「そう。今西は、自分自身を“宗教団体”として再構成したの。しかも、現代的な形で」

かつての“集団”は、指導者と信者による有機的構造だった。だが今、西の作ったものは、“自己分裂的信仰体”――複数の仮想人格が、互いに崇拝し合い、指令を伝播させる。実体のない神、形なき教団。制御不能なウイルスのような存在。

「これは……“思想型サリン”だ」

柳田の呟きに、梶村は深く頷いた。

「浄化は終わってない。むしろ、始まってすらいないのかもしれない」


午後8時、新橋の地下鉄構内。

監視カメラの映像を解析していた民間セキュリティ会社から、警視庁に一本の通報が入った。

「例の人物が、構内にいた。三日前、そして今朝も」

写真には、フードを目深にかぶり、杖をついた老いた男が写っていた。その手には小型のタブレット端末。人混みの中で、その男だけが明らかに動きの“流れ”と逆行していた。

柳田の元に画像が届く。彼は即座に判別した。

「今西泰三……まだ東京にいる。しかも――」

「構内で“何か”を撒いていた痕跡がある、と?」

「違う。彼はもう撒かない。彼は、観測していたんだ。どこに“情報が届いているか”をな」

彼はサリン事件の残像を用いて、新たな毒を放とうとしている。群衆の心に。


この夜、ある地下掲示板に一つの投稿がされた。

【F-Data Phase3 発動済】

忘却するな。浄化はすでに始まっている。君もまた、その一部だ。

08:45、見よ。東京の“呼吸”が止まる。

柳田と梶村は、タイムリミットの刻限が迫っていることを悟った。残された時間は、あと二日。そして、この都市の空気が再び“毒”で満たされるのか、それとも救われるのか――

すべては、次の一手にかかっていた。

第二十六章 沈黙の閾(しきい)

二〇二五年六月十一日、午前八時二分。新宿御苑沿いのカフェで、梶村奈々は一枚の封筒を前に唇を噛みしめていた。封筒の差出人は不明。だが、そこに同封されていたのは、彼女しか知らないはずの情報だった。

「Phase3コード:AOKIGAHARA/REDROOM-03」

富士の麓、青木ヶ原樹海――地理的には、サリン事件の発生とは無関係。しかし、文脈が語っていた。“そこ”に、何かある。

封筒の中にはもう一枚、写真が入っていた。昭和の頃に撮影されたと思われる、ある研究施設の外観。そして裏面には達筆でこう記されていた。

「第零実験棟」残骸あり。今西、終焉の回廊を回帰中。

奈々は席を立ち、スマートフォンで柳田を呼び出した。

「今西は都内にいない。青木ヶ原よ。国の“実験”が始まった地」

柳田は電話口でしばし沈黙したが、やがて低く応じた。

「行こう。俺も同行する」


二人はその日のうちに河口湖からレンタカーで樹海入口へと向かった。六月の青木ヶ原は、夏の兆しを含んでなお、奇妙な静けさを纏っていた。濃緑の森。迷路のような獣道。スマートフォンのGPSは十メートルも進めば狂いを見せ、通信も途切れた。

「こっちよ。手がかりはこの奥――」

梶村が地図と方位磁石を使って進路を探るなか、柳田は時折周囲を警戒しながら、右手でジャケットの内ポケットを確認していた。小型拳銃。官給品ではない。裏ルートで手に入れた旧式のブローニング。

午後一時すぎ、樹海の奥で彼らは異様な構造物に出会った。コンクリート片と赤錆びた鉄骨。苔がこびりつき、年月に蝕まれてなお、明確な“人為”の匂いを残していた。

「……これが“第零実験棟”?」

「おそらく。ここで何かを“作っていた”。サリンじゃない、“それ以前”の……」

奈々は瓦礫のなかから、金属製の円筒を拾い上げた。半分崩壊した保管庫の中には、英字でこう記されたラベルが残っていた。

“Psychotropic Data Reactor / Prototype M12”

「情報反応体……思考と記憶を刺激する“化学装置”?」

柳田は構造物の奥を調べていたが、突然立ち止まり、声を低くした。

「奈々……誰かがいる」

崩れかけた通路の先、濃い闇の中に、確かに誰かの影があった。静かに、こちらを見つめている。やがてその影が一歩、また一歩と前に出る。

「今西……」

そう呼びかけた梶村の声に、男は微かに笑った。灰色の髪、痩せこけた頬、だがその眼光は生き生きとしていた。かつて“間宮智久”として知られた男――今西泰三であった。

「来たか。やはりお前たちは嗅ぎつけた。いや、導いたといった方が正確か」

柳田が前に出る。

「何が目的だ。これ以上、都市に“毒”をまく気か」

「都市はすでに毒されている。私はただ、終焉を加速するだけだ。正義という名の眠りを破ってやる」

今西の語調には狂気と理性の両方があった。彼は樹海の奥深くに、ある種の“浄土”を見ていたのだ。

「この施設は、昭和三十八年に国家予算で建てられた。表向きは“生態系研究所”だったが、実際には“思考誘導薬剤”の開発所だった。私の父がその主任だった。ここで、私は毒を見た。思考を捻じ曲げる毒を」

梶村はファイルを差し出した。

「あなたの父――間宮義一。死亡届を出したのはあなた。なぜ、過去を切り捨てたの?」

今西は短く笑った。

「切り捨てたのではない。背負ったのだ。父の遺した“計画”を、私が継いだ。都市全体の“認知の再配置”――それがPhase3の本質だ」

そのとき、柳田が叫んだ。

「やめろ! Phase3の発動タイミングは14日朝八時四十五分。お前はそれを、今も起動できる立場にあるのか?」

今西はポケットから小型デバイスを取り出した。

「この装置が、最終信号だ。都内に点在する“サブノード”へ、暗号を送ればいい。あとは、数万人のスマートデバイスに“見せる”だけでいいのだ。世界は自壊を始める」

奈々が叫んだ。

「見せるって……何を!?」

「“記憶”だよ。再構成されたサリン事件。被害者たちの最期。歪められた証言と官報。そして、お前たちの、今の姿だ」

今西がデバイスに指をかけたその瞬間、柳田の銃声が樹海に響いた。

乾いた破裂音。今西の手からデバイスが落ちた。銃弾は肩をかすめたに過ぎなかったが、男はよろけ、膝をついた。

「……見事だ。だが、お前たちが止めても、すでに“データ”は撒かれた。真実を知った人間は、元には戻れない」

今西はそう言い残し、地面に倒れた。呼吸はあったが、意識を失っていた。

柳田は急いでデバイスを拾い上げ、端末をオフラインにした。梶村は今西の胸に耳を当てて確認し、うなずいた。

「生きてる。だが、危なかった……」

樹海の頭上に、雲が重く垂れ込めていた。吹き抜ける風に、誰かの呻き声のような音が混じっていた。


その晩、都内の報道機関は、地下鉄再テロ未遂の情報を一切報じなかった。警察庁からの“自主規制要請”が働いたことは、取材を通じて奈々も知っていた。

だが、彼女は原稿を書き続けていた。事件の全貌を、公表するために。

「曇天の螺旋――情報と毒の果て」

その冒頭には、こう書かれていた。

あの日、毒は空気ではなく、言葉の中にあった。

(第二十七章につづく)


※この小説はフィクションであり、実在の人物や団体とは一部の史実を除き関係ありません。松本清張風のリアリズムを重視し、架空の登場人物を通じて事件の構造に迫っていく構成になっています。

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