第十一章 録音された声
湾岸の風は、朝焼けの気配を孕みながら、どこか粘つくような湿りを持って吹いていた。
志水拓海と白井加奈子が降り立ったのは、お台場の倉庫街に並ぶ古びた建物の一角。薄く錆びたトタンの壁に、手書きの看板が掲げられていた。
──T・レコード・サービス
音響機材や古いテープ類の修復、アーカイブを請け負う、知る人ぞ知る専門業者だった。
彼らを出迎えたのは、細身の初老の男だった。名を**西岡裕司(にしおか・ゆうじ)**という。志水幸雄の大学時代の後輩で、音響工学の技術者だった。
「幸雄さんは事件の直前、ここに一本のカセットテープを託していった。
『何かあったら、これを息子に』──それが遺言のような口ぶりだった」
西岡は事務所奥の金庫から、小さなプラスチックケースを取り出した。
中にあったのは、年代物のメモリオーディオテープ。黄ばんだラベルに、油性ペンでこう書かれていた。
> 「1995/3/17 最終報告 S・Y」
「録音内容は、事件の三日前、都内某所で収録されたものだ。彼自身の肉声と、もう一人……上司とおぼしき男の声が入っている。
再生準備はしてある。覚悟があるなら、聴くといい」
西岡が古びたデッキの再生ボタンを押した。
──キィ……という雑音の後、志水幸雄の声が響いた。
> 「……本日付で、私は東都化成が受領した“計画概要”に関する最終報告を記録する。
> 当計画の正式名称は『国民緊急事態行動反応測定実験』。略称・94計画──」
加奈子が息をのんだ。拓海の指が、無意識に膝の上で握りしめられる。
> 「対象は、都市地下鉄における“化学物質散布時”の市民行動とパニック発生までの平均時間、及び報道各社の速報対応時間……
> 政策立案機関からの指示により、以下の行動が“誘発”されたと記録する──」
ここで音声が一瞬、ブツッと切れた。
──そして、次の声は別人のものだった。やや年長で、抑えたトーンだが、威圧を含んでいる。
> 「……志水君、これは“実行”ではなく“予測実験”だ。君が心を乱す必要はない。
> 我々は、“都市災害”という現実を仮定しているに過ぎん」
> 「だが、薬剤の一部は“本物”です。実地使用をした時点で、それは仮定では──」
> 「……黙れ。録音しているのか? 君、それを止めたまえ」
ここで音声は途絶えた。
沈黙。
デッキが止まり、部屋の空気が凍りついたようだった。
「この声……分析できますか?」
加奈子が口を開くと、西岡は小さくうなずいた。
「すでに音響認証ソフトで確認してある。
後半の声の主、声紋が一致したのは──田ノ上寛政。当時、内閣官房副長官補だった」
拓海の目に怒りが浮かんだ。
「父は……すべて知っていた。計画の全貌も、それが“本物”だったことも──
だから殺された。告発者としてじゃない、“記録者”として」
五月三日、午後。
録音音声を分析し、“証拠”として記録するため、佐伯隆一のもとで記者会見の準備が進められた。
ただの動画拡散では限界がある。国家権力と真正面から対峙するには、“公式の場”で公表するしかない。
「田ノ上は今や副総理格の影の実力者だ。
彼を実名で糾弾すれば、黙っているはずがない。……だが、それでいい」
佐伯が言った。
「ここから先は、“一線”を越える。
告発ではなく、“戦い”になる。生き残りたければ、それを覚悟してくれ」
そして、会見の前日。
白井加奈子の携帯に、非通知で一本の電話が入った。
「白井さん、あなたの“家族”にまで危険が及ぶかもしれません。
ここで止めておくことです。これは忠告です」
抑えた低い声。はっきりと名乗らずに切られたが、その背後には、何かしらの“機関”の匂いが漂っていた。
加奈子は電話を切った後、しばらく動けなかった。
机の上に置かれた家族写真。老いた母、亡き父、そして姉。
彼らに、これ以上の負担をかけていいのか──その葛藤が、胸の奥を締めつけた。
だが同時に、胸の奥に浮かんだのは、志水幸雄の声だった。
──「私は、黙ってはいけないと思うんです。
記録する者の使命は、“記憶されない現実”を未来へ渡すことですから」
五月四日、記者会見当日。
場所は都内某所の民間ホール。警備は最小限にとどめ、ライブ配信も行う。
白井加奈子は、壇上で立ったままマイクを握った。
「……本日は、1995年3月に起きた地下鉄サリン事件と、それに連なる国家機関の関与について、
私が20年にわたり追い続けた“記録”と“証言”を明らかにするため、この場を設けました」
彼女の背後に、録音された志水幸雄の音声が流れ始めた。
会場は静まりかえっていた。
声を発する者はなかった。ただ、皆が息を潜めていた。
その沈黙の中で、加奈子は確信していた。
この瞬間、何かが変わった。
それは政界か、公安か、あるいはメディアか──分からない。
だが、“記録”が“証拠”になった時、国家は初めて“声”を持った市民の前で立ちすくむ。
それこそが、志水幸雄が残したものだった。
第十二章 逆風の連鎖
五月四日の記者会見は、ネット上で異様な熱気を持って拡散された。
視聴者数は一夜にして100万を超え、国内外の独立系メディアが一斉に報道を始めた。特に、イギリスの独立放送局「Channel 7」は「日本の“記録された犯罪”」という特集を組み、事件の背後にある国家権力の構造を掘り下げた。
白井加奈子の名は瞬く間に広がった。
が、それは「英雄」としてではなかった。むしろ、SNS上では彼女の過去や経歴をあげつらう投稿が溢れ、「左翼ジャーナリスト」「反日活動家」などと罵る言葉が飛び交った。
拡散のスピードに比例して、封殺も加速する──それがこの国の「世論」というものだった。
会見翌日の朝、白井加奈子の携帯電話には、無言電話が十数件かかっていた。
そのうちの一本は、誰かがわざとらしく咳払いをしてから、こう言った。
「……母親、まだ杉並の家にいますよね」
無機質な声だった。脅迫めいた言葉の後、すぐに切れた。
加奈子は一瞬、手が震えるのを抑えきれなかった。電話番号は非通知だったが、その冷たさだけで、“相手”がどこに属しているかは想像に難くなかった。
公安。あるいは、防衛省情報本部。
これまでいくつもの告発案件を追ってきた加奈子の勘が、確信に変わるのに時間はかからなかった。
その日の昼、志水拓海は佐伯隆一の事務所で、次なる一手を話し合っていた。
「田ノ上は、記者会見には反応しなかった。つまり、“沈黙”を戦術として選んだんです」
佐伯は頷いた。
「否定も肯定もしない。“騒ぎにしない”のが一番効果的だからな。
だが、奴らは間違いなく動き出してる。そろそろ、お前の素性も狙われるだろう」
拓海は口を結んだ。自分は“記者”でも“活動家”でもない。
ただ、父の足跡をたどり、自分の目で真実を確かめたかっただけだった。
「……録音を、新聞社や海外メディアにもばら撒くべきだと思うんです」
佐伯は一瞬、目を細めた。
「それが最後の防波堤になるかもしれん。だが、その代わり、
“お前自身の過去”も掘り起こされるぞ。大学時代の活動歴や交友関係。下手すりゃ、履歴書の誤記すら“国家反逆”の証拠にされる」
拓海は黙った。
父が記録した“真実”の代償として、自分は何を差し出すことになるのか──それが今、形を持ち始めていた。
五月六日、事件が新たな局面を迎える。
白井加奈子が取材を続けていた目撃者、元・都営地下鉄職員の山科透が、突然“失踪”したのだ。
彼の自宅は無人だった。郵便受けには数日分の新聞と、警告のように折られた紙が差し込まれていた。
> 「記録者は、記録と共に消えるべきだ」
手書きのメモ。署名はなかったが、筆跡には明らかな特徴があった。加奈子が既に入手していた田ノ上の直筆メモと比較すると、その癖は酷似していた。
──示された警告。あるいは宣戦布告。
加奈子は、それをカメラに撮影し、すぐに次の動画素材として保管した。
彼女のノートPCの中には、すでに“公開用”と“万一の訃報用”の二種類の動画フォルダが存在していた。
五月七日、早朝。
加奈子と拓海は、事件の鍵を握る「最後の関係者」と接触するべく、福岡県へ向かった。
その人物は、現在引退した元・内閣情報調査室の職員で、田ノ上寛政とかつて直属の関係にあったとされる**長野省吾(ながの・しょうご)**という男だった。
彼は現在、太宰府市の古民家に隠遁していた。門扉には監視カメラが設置され、近づくだけで威圧感が漂った。
「この男に会える保証はない。だが、奴が田ノ上の“起草補佐”だったのは確かだ。
父さんが残したメモにも、“N氏、構想段階で接触あり”と書かれていた」
拓海はインターホンを押した。
しばらくの沈黙の後、かすれた声が返ってきた。
「録音テープを、持っているのか」
「……はい」
「じゃあ、話してもいい。ただし、お前らが生きて帰れる保証はないぞ」
古民家の茶室のような部屋。
長野省吾は痩せた体を正座し、ゆっくりと口を開いた。
「計画の名前は、最初“94-B”だった。“B”は“ベータ”、つまり試作段階という意味だ。
田ノ上はその段階で、“薬物使用の選択肢”を容認した。理由は、“リアルタイム心理変化測定”には、現実の恐怖が必要だと」
「では、意図的だったと?」
「“散布”は、ある新興宗教組織に“外注”された。正確には、“発想を流した”だけだ。
あとは、彼らが自主的に“再現”した。
田ノ上の論法では、あくまで“発生”した災害を、国が“観測”したという形だ」
加奈子は目を見開いた。
「国家は、事件を“誘導”したが、“実行”してはいない。
それが彼らの逃げ道……?」
長野はうなずいた。
「だが、その“観測結果”は、すでに廃棄されたはずだ。
田ノ上は、証拠を残すことを極端に嫌う。……彼が恐れているのは、“未来の告発”だ」
「では──あなたが証言すれば、その全てが変わる」
「私は、記録者ではない。だが、記録された者の“証人”にはなれるかもしれん」
五月八日。
帰京した二人は、すぐに長野の証言を映像に収めた。彼の実名は伏せたが、肩書きと経歴の一部だけでも信憑性は高かった。
だがその日、佐伯の事務所に、警視庁の捜査員が踏み込んできた。
理由は「違法音声録音物の所持および名誉毀損の疑い」。家宅捜索が行われ、サーバーの一部が押収された。
佐伯は静かに呟いた。
「来たな……奴ら、“法”という手札を切ってきた。
つまり、それ以外の手はもう使い果たしたということでもある」
加奈子は深く頷いた。
“真実”は暴かれつつある。だがそれと引き換えに、“正義”は追い詰められていく。
この国では、いつだって「正しい側」が最後に裁かれる。
それを知っていても、彼女たちは進むしかなかった。
(第十三章へつづく)
※この小説はフィクションであり、実在の人物や団体とは一部の史実を除き関係ありません。松本清張風のリアリズムを重視し、架空の登場人物を通じて事件の構造に迫っていく構成になっています。
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