第一章 仄暗い午前八時
春にしては空気がひどく重く感じられた。東京の空は鈍色に曇り、かすかな湿気が地表近くにたちこめている。午前八時を五分ほど過ぎたころ、新橋駅の地下にある日比谷線のホームには、朝の通勤客がいつも通りに密集していた。無表情な顔、新聞、居眠り、そして焦燥。どこにでもある東京の朝だった。
だがその日、その空気には、何か説明のつかない「重さ」があった。
小野寺俊一は、五十二歳。都内の区役所に勤務する地方公務員である。彼は習慣的に新橋から日比谷線に乗り換え、八丁堀で降りる通勤ルートを取っていた。職場は江東区。勤続二十七年。典型的な団塊の世代の尻尾を担う男である。
「今朝はなんだか変ですね。人の動きがどこかおかしい気がする」
小野寺は目の前の中年男に話しかけられ、曖昧に笑った。その男はネクタイをゆるめながら、頬をしかめていた。
「ああ、花粉症ですかねえ」と答えると、その男はふいに咳き込み、言葉を返さぬまま壁にもたれかかった。
そして電車が来た。
その瞬間から、日常の風景は、急速に崩壊を始めたのである。
列車が新橋を出てから、わずか一駅──神谷町にさしかかったときだった。前方の車両から悲鳴と咳が聞こえ、乗客の一部がうずくまる。周囲は騒然とし、空気に異様な刺激臭が混じった。
小野寺もまた、呼吸が苦しくなってきた。目が染み、喉の奥が焼けるようだった。異変が明らかにただの咳や風邪ではないことに気づいたとき、車内にはすでに数人の乗客が意識を失っていた。
何が起こっているのか──そのとき誰もが把握していなかった。
が、それは「事件」だった。しかも、一つの車両だけではなかった。
同時刻、千代田線の霞ヶ関、丸ノ内線の後楽園、そして日比谷線の築地駅でも、似たような騒ぎが起こっていた。
何者かが、地下鉄の複数路線に「毒物」を仕掛けたのだ。
毒物の正体は、サリン。
それがわかったのは、数時間後のことだった。
午前十時二十分。都内の各消防署、警察署、保健所には一斉に通報が相次いでいた。被害者の数は急増し、死者まで出ている。だが、現場ではまだ「原因不明のガス発生事故」とされ、事態の本質に誰も迫れていなかった。
その日、都庁の地下会議室では、危機管理対策本部が臨時に設置されていた。だが、あまりに情報が錯綜していた。ある者は「ガス漏れ」と言い、ある者は「テロの可能性」と口にしたが、断言する者は一人もいなかった。
その会議室に、ある一人の男が招かれていた。
名前は佐伯隆一。元公安調査庁職員、現在は民間の危機管理コンサルタントを名乗る四十代後半の男である。薄いグレーのスーツに、よれた書類鞄を抱えて現れたその男は、室内の空気に緊張感がないことにいら立ちを覚えた。
「これはただの事故ではありません。複数の路線に同時に、同じような異常が起きている。この時点で、自然発生は排除すべきです」
佐伯の声は静かだったが、威圧力があった。彼は公安時代、過激派組織の内偵に十年以上関わっていた。目の前の事象が「計画された犯行」であることを、すぐに察知していた。
「サリンです」
彼は断言した。会議室の空気がぴたりと止まる。
同じころ、千代田線の小田急線乗り入れ口では、若い新聞記者が現場を駆け回っていた。名前は白井加奈子。朝都新聞の社会部記者で、入社四年目。情報提供を受けて急行したが、すでに複数の記者が現場に詰めかけていた。
彼女は最初の目撃者に話を聞く。
「目が痛い、喉が苦しいって言ってました。白い液体がビニール袋に入ってて、それが床に置かれてたんです……それを誰かが踏んだって」
白井は手帳にメモを取りながら、ある組織の名を思い出していた。数か月前、彼女は内部告発を受け、ある新興宗教団体について取材を進めていた。だが、当時のデスクは「証拠がない」として記事化を見送った。
オウム真理教。
名前を頭の中で唱えた瞬間、背筋が冷たくなった。
事件は拡大し、刻一刻と被害者の数が増える中、国家は沈黙し続けた。
報道各社の対応も分かれた。原因が明らかにならない以上、下手に「テロ」や「毒ガス」という言葉を使えばパニックを招く。だが、一方で「何かを隠しているのではないか」という市民の不信は膨れ上がっていった。
そして、その「不信」の根は、やがて国家機関、警察、そしてマスコミにまで及んでいくことになる──。
第二章 沈黙する迷路
午前十一時をまわったあたりから、東京の空は次第に明るくなり始めたが、地下鉄構内の空気はまだ重く、冷たいままだった。サリンという言葉が報道関係者のあいだで囁かれ始めたのもこのころである。だが、その確証を持つ者はいなかったし、持とうとする者も少なかった。目の前で人が死に、搬送されているというのに、事実を語ることが恐れられていた。
白井加奈子は、霞ヶ関駅の地上出口近くでメモ帳を閉じた。肺の奥まで鈍く染みこんだ薬品臭に、まだ咳が止まらない。
──ガスではない。毒だ。
彼女の直感は、最初からその言葉を叫んでいた。
朝都新聞本社からの電話が入ったのは、午前十一時十五分。デスクの浅井が、低い声でこう言った。
「戻ってこい。現場にいても何も掴めん。こっちに資料を揃えてる」
「まだ確認できていない証言があるんです。築地のほうに移ります。二人目の死亡者が出たらしい」
「死者の数なんて今さら追ってどうなる。大事なのは“誰が”だ。いいから戻れ」
加奈子は唇を噛み、受話器を耳から離した。
“誰が”。──その言葉は、彼女がここ数ヶ月追いかけ続けていた影と、ぴたりと重なっていた。
オウム真理教。
かつては宗教法人格を持つ、仏教系を名乗る一団体にすぎなかった。だが、白井のもとには、幾度も内部関係者と名乗る人物からメールや書簡が届いていた。そこには、訓練、武器、生物兵器、国家転覆という、いずれも尋常ではない単語が散りばめられていた。
彼女はそのすべてを本気にはしていなかった。ただの誇張、もしくは破門された信者の恨みだろうとさえ思っていた。だが──。
今日の事件で、その全てが急に現実味を帯びてきた。
午後一時。朝都新聞社会部の一角に戻ると、フロアには既に警察庁クラブ、厚労省詰め、都庁担当などの記者が集められていた。長机に資料の束が無造作に置かれ、誰かがホワイトボードに簡略図を描いていた。事件が発生した駅、時間、負傷者数。
「これが同一犯によるものだとすれば、犯行時刻は午前八時から八時十数分にかけて、おそらく協力者が最低五人以上必要になる」
報道デスクの浅井が、図を指さして言う。年齢は五十代半ば。冷静沈着な男だが、目の奥に不安の色が滲んでいた。
「問題は“手段”だ。これだけの人間が同時に、サリンを持ち込み、しかも誰にも気づかれずに──本当に可能なのか」
加奈子がその言葉に口を挟んだ。
「……可能です。オウムが関わっていれば」
会議室が静まり返った。
「……オウム?」
浅井が眉をひそめた。
「教団内部に“科学技術省”と称する研究部門があります。私が以前取材した元信者によると、化学兵器の開発も進めていたと……。昨年の末、上九一色村で異臭騒ぎがありましたよね」
「……おい、加奈子。その話は上に止められただろう。裏が取れていなかった」
「でも、今日の事件でそれが裏付けられたことになるのでは?」
浅井は唇を歪めたまま、沈黙した。
「まだ断定はできない。今は“事故”の線でまとめておけ」
「“事故”ではありません」
加奈子の語気が鋭くなった。部屋の空気が緊張を帯びた。
「……目の前で人が死んでるんです。それも、駅ごとに。同時刻に。偶然のはずがない」
加奈子は会議室を出ると、パソコンを起動し、過去の資料に目を通し始めた。
信者数一万人超。上九一色村の広大な敷地。外国人信者の流入。選挙への出馬。自衛隊の監視下。公安の内偵。暴力的な出家制度。
散乱するファイルの中に、一通の書簡のコピーがあった。
──「彼らは武器を手に入れた。私は恐れている。ある朝、東京のどこかが“沈黙”する日が来るのではないかと……」
去年の秋、差出人不明で届いた封筒。信者番号が記されており、取材を進めたが、その番号の人物はすでに行方不明となっていた。
加奈子はファイルを閉じ、ある疑念が心に生まれた。
──警察は本当に知らなかったのか?
そのころ、別の場所でも一人の男が動き出していた。
佐伯隆一。元公安調査庁の情報分析官である。
彼は、都内のとある旧友の法律事務所を訪ねていた。事務所の主は、現在弁護士として活動しているが、かつて公安で「オウム担当」をしていた男だ。
「……警察は情報を持っていたんだろう」
佐伯は言った。
「だが、何もできなかった。あるいは、しなかった」
「なぜだと思う?」
弁護士は答えず、ただ煙草に火を点けた。
「……おそらくは、“表沙汰”にできない何かがあった。たとえば、教団にスパイを潜入させていたとか。あるいは、もっと政治的な……」
「利用した?」
「あるいは、黙認した」
その日、東京はかつてない「情報の空白」に包まれた。
テレビは原因不明のガス事故と報じ、新聞各社も慎重に言葉を選んだ。毒物の名前は一切出されず、犯人像も明かされない。駅には花が供えられ、警察官が配置された。
だが、誰もがわかっていた。
これは、ただの事故ではない。何かが「意図的」に行われたのだということを──。
そして、その「意図」の背後には、人間の、あまりにも冷たく巨大な意志が潜んでいることを。
(第三章へつづく)
※この小説はフィクションであり、実在の人物や団体とは一部の史実を除き関係ありません。松本清張風のリアリズムを重視し、架空の登場人物を通じて事件の構造に迫っていく構成になっています。
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