第九章 情の鎖、血の鎖
初代お玉の影が沈んだ池は、何事もなかったかのように静寂を取り戻していた。
だが、その静けさは、嵐の前の息遣いにも似ていた。
源海は、お玉をそっと抱き上げ、家まで送り届けた。
娘は疲労と恐怖から気を失っている。
母が慌てて戸を開け、涙ながらに頭を下げた。
「ありがとうございます、ありがとうございます……」
源海は首を振った。
「私が、お玉殿を守らねばならぬのです」
その言葉に母は目を見張ったが、何も言わなかった。
ただ――娘が救われたという事実だけが、その胸を満たしていた。
*
翌朝、お玉はゆっくりと目を開けた。
雪のような白い光が、障子越しに揺れている。
「わたし……また池へ……」
呟きながら胸に触れる。
確かに、源海の腕の温もりが残っていた。
「怖かった……でも……」
心の底で、確かに何かが目覚めた。
それは、忘れられた炎。
掴めば燃え上がる、危険な炎。
*
源海は寺へ戻ると、住職に強く諫められた。
「池に近づくなと言ったはずだ!
僧として越えてはならぬ境界へ手を伸ばしているぞ」
源海も負けじと声を上げた。
「しかし、お玉殿を放置することなどできません!」
住職は深いため息をつき、静かに告げる。
「池が狙っているのは――娘ではない。
お前だ、源海」
言葉が胸に突き刺さった。
「娘は“同じ名”を持っている。
だが、あの影が縛りたいのは、お前の心なのだ」
源海は固まった。
思いもしなかった。
池はお玉を通して、自分へ執着している――?
住職は目を伏せて続ける。
「お前には、昔……娘を泣かせて去った罪がある。
池はそこへ牙を剥いているのだろう」
源海は息を飲んだ。
記憶の奥に沈めていた、あの日。
別れを告げた、幼き許婚の涙。
――彼女の名も、お玉だった。
*
お玉の家では、母がそっと娘の髪を撫でていた。
「あなたの名は、祝福の名。
決して呪いなどではない」
お玉は、母の顔を見上げた。
泣きはらした瞳に宿る想いが、母へ溢れ出す。
「お母様……わたし、源海様を想う気持ちが……間違っているのでしょうか」
母は微笑んだ。
「間違いなんてない。
恋は、人を強くも弱くもする。
だから、誰も否定なんてできない」
その言葉に、お玉の胸の霧が少し晴れた。
「でも……それでも……池は……」
言いかけたその時、外で雪が強くなった。
風が、池のほうから吹き込んでくるような冷たさを含んで。
*
清之助は、池を見張っていた。
雪の中でも微動だにせず、鋭い目で水面を観察する。
「ここは、戦場と同じだ」
雪の静けさは、死を隠す布。
その下で、何かが動いている。
不意に、背後から声がした。
「清之助殿」
源海だった。
険しい表情で、手には経巻を握っている。
「池を鎮める術が見つかりました」
経巻には、お玉が池に沈んだ後、
ある僧が記したという鎮魂の儀式が書かれていた。
だが、そこには一つ条件があった。
――お玉の名を断ち切ること
「名を断つことは……存在を否定することだ」
源海は唇を強く噛む。
「しかし、怨念を断つには、それしかない」
その時――
池から、叫びのような音が上がった。
水面が裂け、白い影がゆっくりと姿を現す。
「名を……奪われた……」
声は、悲しみでも怒りでもなく、
ただ真っ直ぐな嘆きだった。
お玉も走って駆けつけた。
「わたしの名前を……奪わないで」
白い影の動きが止まった。
娘の声が、怨念に届いたのだ。
「あなたの名は、あなたのもの。
わたしの名は、わたしだけのもの」
涙ながらに叫ぶ。
「同じ名でも……
わたしたちは、違う人間です!」
白い影が静かに揺れた。
やがて、ゆっくりと湖心へ後ずさりした。
「……ならば……生きよ。
わたしの分まで……」
その言葉を最後に、影は深い闇へと沈んでいった。
雪が静かに池を覆っていく。
池が、眠りについたかのように。
*
源海は、お玉の肩を支えた。
お玉は涙を拭いながら、小さな声で言った。
「わたし……生きます。
あなたと共に……」
源海は目を閉じ、震える息を整えた。
「私も、あなたを……」
言いかけたところで、
寺の鐘が夜空に響いた。
――戻れ
――僧であれ
戒律の声が、源海を引き戻す。
「……あなたを救いたい。
それだけは、曲げません」
娘は少し笑った。
それは、呪いから解かれた者だけが持つ、
儚くも強い光だった。
ただ……
池はまだ完全には眠っていなかった。
氷の下で、黒い影がゆっくりと蠢いていた。
恋も呪いも、まだ終わりではない。
――名を奪う呪い。
――名で繋がる宿命。
その鎖は、誰が断ち切るのか。
雪は、なお静かに降り続いていた。
──第九章 了──
第十章 祈りの果てに

夜明け前の江戸は、薄氷のように冷たかった。
雪はやみ、空には澄んだ月がまだ残っている。
その月の下で、池はまるで呼吸しているようにわずかに揺れていた。
源海は、寺の本堂で経を唱えていた。
その声は静かだが、どこか切実だった。
祈りとは、願いと同じではない。
ただ、己の無力を受け入れ、それでも光を求めることだ。
「お玉殿を、どうか……」
その言葉が最後まで続かなかった。
僧としての祈りと、一人の男としての情が交錯して、声にならない。
火鉢の火が小さくはぜた。
源海は、己の手を見つめた。
――この手で救えるものが、どれほどあるのだろうか。
*
一方、お玉は夢を見ていた。
月光に照らされた池のほとりに、もう一人の“お玉”が立っている。
白い衣をまとい、髪を風に遊ばせながら、微笑んでいた。
「あなたは……」
“初代のお玉”はゆっくりと首を振った。
「もう泣かないで。
わたしの願いは、誰かに“愛してもらうこと”ではなかったの。
誰かを“赦すこと”だったのよ」
お玉は息をのんだ。
怨霊と思っていた存在の瞳に、怒りではなく、深い哀しみと慈しみが宿っている。
「池は、わたしを閉じ込めたのではない。
わたしが、自ら残ったの。
愛が、恨みに変わらないように……」
その声は、風のように消えた。
お玉が目を覚ますと、枕元に小さな白い花が置かれていた。
庭には咲いていない花。
まるで、夢の中から届いた贈り物のようだった。
*
その日、源海は住職に呼ばれた。
「お前は、もう僧である前に一人の人間として、選ばねばならぬ」
「選ぶ……?」
「娘を救うために、戒律を破るのか。
それとも、戒律のために娘を見殺しにするのか」
源海は唇を噛んだ。
寺に仕えて十余年。
信じることは、己を律することだと思ってきた。
だが今は違う。
信じるとは――
“誰かを救いたい”という想いを、手放さぬことだ。
「……答えは、池が出します」
そう言い残し、源海は本堂を後にした。
*
夕暮れ、池のほとりに立つと、お玉がすでにいた。
彼女の頬は青白く、まるで光の中で透けて見えるようだった。
「また……池が呼ぶのです」
声は震えていたが、怯えてはいなかった。
源海はそっと近づいた。
「あなたは、もう呼ばれる側ではない。
あなたが、あの声を鎮めるのです」
「……わたしが?」
「初代お玉の魂は、まだ迷っています。
赦してほしいと、そう訴えている」
お玉は池を見つめた。
水面には、かつての彼女と同じ顔が浮かんでいる。
泣いているようにも、笑っているようにも見えた。
お玉は、両手を合わせた。
「わたしは……あなたを怨みません。
あなたの名前を、受け継いで生きます」
その瞬間、池の水が柔らかく揺れた。
風が止み、雪の匂いが消えた。
水面が鏡のように静まり、
月が、その中心に完璧な円を描いた。
白い影が、静かに微笑んだ。
「ありがとう」
声は風に溶け、池は再び沈黙に包まれた。
*
夜。
寺の鐘が鳴り渡る。
源海は境内の石段に座り、静かに息を吐いた。
お玉はその隣に立ち、手を合わせていた。
「……終わったのですね」
「いや」
源海は微笑んだ。
「祈りは、終わらない。
人が生きる限り、どこかで誰かが、誰かを想って祈っている」
お玉は、彼を見つめた。
もう涙はなかった。
頬を流れた雪解け水が、光の粒のように輝いている。
「これからは……どう生きたらいいのでしょう」
「生きるとは、迷い続けることです。
でも、迷いの中でこそ、人は誰かを照らせる」
お玉はそっと笑った。
それは、まるで春の兆しのような笑みだった。
池のほとりに、再び風が吹いた。
今度の風は、冷たくなかった。
月が高く昇り、池の中に静かに映る。
その光の中には、二つの影が寄り添っていた。
*
翌朝、町の人々が池のほとりを通ると、
水面に咲くように、白い花が一輪浮かんでいた。
誰が置いたのか、誰が祈ったのか――
誰も知らない。
けれど、その日を境に、
池から人が消えることはなくなった。
人々は「お玉が守ってくれる」と口にした。
そして、名は呪いではなく、祈りとして残った。
――お玉が池。
そこにはもう、恐れではなく、静かな慈しみが満ちていた。
春が来る。
雪解けの水が流れ込み、柳が芽吹く。
池の底には、ひとつの影も残っていなかった。
源海は遠くからその景色を見つめ、
合掌して小さく呟いた。
「あなたの祈りは、受け継がれました」
風が、花の香を運んでいく。
お玉は家の前で子どもに笑いかけていた。
その笑みは、かつての影たちさえも救うように穏やかだった。
――祈りとは、生きること。
――生きるとは、赦すこと。
池の水は、今日も静かに光を映していた。
──第十章 了──

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