平岩弓枝を模倣し、「お玉ヶ池事件」を題材にした完全オリジナル長編小説『お玉が池』第九章・第十章

目次

第九章 情の鎖、血の鎖

 初代お玉の影が沈んだ池は、何事もなかったかのように静寂を取り戻していた。

 だが、その静けさは、嵐の前の息遣いにも似ていた。

 源海は、お玉をそっと抱き上げ、家まで送り届けた。

 娘は疲労と恐怖から気を失っている。

 母が慌てて戸を開け、涙ながらに頭を下げた。

 「ありがとうございます、ありがとうございます……」

 源海は首を振った。

 「私が、お玉殿を守らねばならぬのです」

 その言葉に母は目を見張ったが、何も言わなかった。

 ただ――娘が救われたという事実だけが、その胸を満たしていた。

     *

 翌朝、お玉はゆっくりと目を開けた。

 雪のような白い光が、障子越しに揺れている。

 「わたし……また池へ……」

 呟きながら胸に触れる。

 確かに、源海の腕の温もりが残っていた。

 「怖かった……でも……」

 心の底で、確かに何かが目覚めた。

 それは、忘れられた炎。

 掴めば燃え上がる、危険な炎。

     *

 源海は寺へ戻ると、住職に強く諫められた。

 「池に近づくなと言ったはずだ!

  僧として越えてはならぬ境界へ手を伸ばしているぞ」

 源海も負けじと声を上げた。

 「しかし、お玉殿を放置することなどできません!」

 住職は深いため息をつき、静かに告げる。

 「池が狙っているのは――娘ではない。

  お前だ、源海」

 言葉が胸に突き刺さった。

 「娘は“同じ名”を持っている。

  だが、あの影が縛りたいのは、お前の心なのだ」

 源海は固まった。

 思いもしなかった。

 池はお玉を通して、自分へ執着している――?

 住職は目を伏せて続ける。

 「お前には、昔……娘を泣かせて去った罪がある。

  池はそこへ牙を剥いているのだろう」

 源海は息を飲んだ。

 記憶の奥に沈めていた、あの日。

 別れを告げた、幼き許婚の涙。

 ――彼女の名も、お玉だった。

     *

 お玉の家では、母がそっと娘の髪を撫でていた。

 「あなたの名は、祝福の名。

  決して呪いなどではない」

 お玉は、母の顔を見上げた。

 泣きはらした瞳に宿る想いが、母へ溢れ出す。

 「お母様……わたし、源海様を想う気持ちが……間違っているのでしょうか」

 母は微笑んだ。

 「間違いなんてない。

  恋は、人を強くも弱くもする。

  だから、誰も否定なんてできない」

 その言葉に、お玉の胸の霧が少し晴れた。

 「でも……それでも……池は……」

 言いかけたその時、外で雪が強くなった。

 風が、池のほうから吹き込んでくるような冷たさを含んで。

     *

 清之助は、池を見張っていた。

 雪の中でも微動だにせず、鋭い目で水面を観察する。

 「ここは、戦場と同じだ」

 雪の静けさは、死を隠す布。

 その下で、何かが動いている。

 不意に、背後から声がした。

 「清之助殿」

 源海だった。

 険しい表情で、手には経巻を握っている。

 「池を鎮める術が見つかりました」

 経巻には、お玉が池に沈んだ後、

 ある僧が記したという鎮魂の儀式が書かれていた。

 だが、そこには一つ条件があった。

 ――お玉の名を断ち切ること

 「名を断つことは……存在を否定することだ」

 源海は唇を強く噛む。

 「しかし、怨念を断つには、それしかない」

 その時――

 池から、叫びのような音が上がった。

 水面が裂け、白い影がゆっくりと姿を現す。

 「名を……奪われた……」

 声は、悲しみでも怒りでもなく、

 ただ真っ直ぐな嘆きだった。

 お玉も走って駆けつけた。

 「わたしの名前を……奪わないで」

 白い影の動きが止まった。

 娘の声が、怨念に届いたのだ。

 「あなたの名は、あなたのもの。

  わたしの名は、わたしだけのもの」

 涙ながらに叫ぶ。

 「同じ名でも……

  わたしたちは、違う人間です!」

 白い影が静かに揺れた。

 やがて、ゆっくりと湖心へ後ずさりした。

 「……ならば……生きよ。

  わたしの分まで……」

 その言葉を最後に、影は深い闇へと沈んでいった。

 雪が静かに池を覆っていく。

 池が、眠りについたかのように。

     *

 源海は、お玉の肩を支えた。

 お玉は涙を拭いながら、小さな声で言った。

 「わたし……生きます。

  あなたと共に……」

 源海は目を閉じ、震える息を整えた。

 「私も、あなたを……」

 言いかけたところで、

 寺の鐘が夜空に響いた。

 ――戻れ

 ――僧であれ

 戒律の声が、源海を引き戻す。

 「……あなたを救いたい。

  それだけは、曲げません」

 娘は少し笑った。

 それは、呪いから解かれた者だけが持つ、

 儚くも強い光だった。

 ただ……

 池はまだ完全には眠っていなかった。

 氷の下で、黒い影がゆっくりと蠢いていた。

 恋も呪いも、まだ終わりではない。

 ――名を奪う呪い。

 ――名で繋がる宿命。

 その鎖は、誰が断ち切るのか。

 雪は、なお静かに降り続いていた。

──第九章 了──

第十章 祈りの果てに

 夜明け前の江戸は、薄氷のように冷たかった。

 雪はやみ、空には澄んだ月がまだ残っている。

 その月の下で、池はまるで呼吸しているようにわずかに揺れていた。

 源海は、寺の本堂で経を唱えていた。

 その声は静かだが、どこか切実だった。

 祈りとは、願いと同じではない。

 ただ、己の無力を受け入れ、それでも光を求めることだ。

 「お玉殿を、どうか……」

 その言葉が最後まで続かなかった。

 僧としての祈りと、一人の男としての情が交錯して、声にならない。

 火鉢の火が小さくはぜた。

 源海は、己の手を見つめた。

 ――この手で救えるものが、どれほどあるのだろうか。

     *

 一方、お玉は夢を見ていた。

 月光に照らされた池のほとりに、もう一人の“お玉”が立っている。

 白い衣をまとい、髪を風に遊ばせながら、微笑んでいた。

 「あなたは……」

 “初代のお玉”はゆっくりと首を振った。

 「もう泣かないで。

  わたしの願いは、誰かに“愛してもらうこと”ではなかったの。

  誰かを“赦すこと”だったのよ」

 お玉は息をのんだ。

 怨霊と思っていた存在の瞳に、怒りではなく、深い哀しみと慈しみが宿っている。

 「池は、わたしを閉じ込めたのではない。

  わたしが、自ら残ったの。

  愛が、恨みに変わらないように……」

 その声は、風のように消えた。

 お玉が目を覚ますと、枕元に小さな白い花が置かれていた。

 庭には咲いていない花。

 まるで、夢の中から届いた贈り物のようだった。

     *

 その日、源海は住職に呼ばれた。

 「お前は、もう僧である前に一人の人間として、選ばねばならぬ」

 「選ぶ……?」

 「娘を救うために、戒律を破るのか。

  それとも、戒律のために娘を見殺しにするのか」

 源海は唇を噛んだ。

 寺に仕えて十余年。

 信じることは、己を律することだと思ってきた。

 だが今は違う。

 信じるとは――

 “誰かを救いたい”という想いを、手放さぬことだ。

 「……答えは、池が出します」

 そう言い残し、源海は本堂を後にした。

     *

 夕暮れ、池のほとりに立つと、お玉がすでにいた。

 彼女の頬は青白く、まるで光の中で透けて見えるようだった。

 「また……池が呼ぶのです」

 声は震えていたが、怯えてはいなかった。

 源海はそっと近づいた。

 「あなたは、もう呼ばれる側ではない。

  あなたが、あの声を鎮めるのです」

 「……わたしが?」

 「初代お玉の魂は、まだ迷っています。

  赦してほしいと、そう訴えている」

 お玉は池を見つめた。

 水面には、かつての彼女と同じ顔が浮かんでいる。

 泣いているようにも、笑っているようにも見えた。

 お玉は、両手を合わせた。

 「わたしは……あなたを怨みません。

  あなたの名前を、受け継いで生きます」

 その瞬間、池の水が柔らかく揺れた。

 風が止み、雪の匂いが消えた。

 水面が鏡のように静まり、

 月が、その中心に完璧な円を描いた。

 白い影が、静かに微笑んだ。

 「ありがとう」

 声は風に溶け、池は再び沈黙に包まれた。

     *

 夜。

 寺の鐘が鳴り渡る。

 源海は境内の石段に座り、静かに息を吐いた。

 お玉はその隣に立ち、手を合わせていた。

 「……終わったのですね」

 「いや」

 源海は微笑んだ。

 「祈りは、終わらない。

  人が生きる限り、どこかで誰かが、誰かを想って祈っている」

 お玉は、彼を見つめた。

 もう涙はなかった。

 頬を流れた雪解け水が、光の粒のように輝いている。

 「これからは……どう生きたらいいのでしょう」

 「生きるとは、迷い続けることです。

  でも、迷いの中でこそ、人は誰かを照らせる」

 お玉はそっと笑った。

 それは、まるで春の兆しのような笑みだった。

 池のほとりに、再び風が吹いた。

 今度の風は、冷たくなかった。

 月が高く昇り、池の中に静かに映る。

 その光の中には、二つの影が寄り添っていた。

     *

 翌朝、町の人々が池のほとりを通ると、

 水面に咲くように、白い花が一輪浮かんでいた。

 誰が置いたのか、誰が祈ったのか――

 誰も知らない。

 けれど、その日を境に、

 池から人が消えることはなくなった。

 人々は「お玉が守ってくれる」と口にした。

 そして、名は呪いではなく、祈りとして残った。

 ――お玉が池。

 そこにはもう、恐れではなく、静かな慈しみが満ちていた。

 春が来る。

 雪解けの水が流れ込み、柳が芽吹く。

 池の底には、ひとつの影も残っていなかった。

 源海は遠くからその景色を見つめ、

 合掌して小さく呟いた。

 「あなたの祈りは、受け継がれました」

 風が、花の香を運んでいく。

 お玉は家の前で子どもに笑いかけていた。

 その笑みは、かつての影たちさえも救うように穏やかだった。

 ――祈りとは、生きること。

 ――生きるとは、赦すこと。

 池の水は、今日も静かに光を映していた。

──第十章 了──

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