平岩弓枝を模倣し、「お玉ヶ池事件」を題材にした完全オリジナル長編小説『お玉が池』第三章・第四章

目次

第三章 沈む月、浮かぶ心

 秋祭りの賑わいは去り、町にはひんやりとした静けさが戻っていた。

 提灯の残り香も薄れ、昨日までの高揚はまるで幻だったかのように夜風へ消え込んでゆく。季節は確かに冬へ向かい始めている。表通りの喧噪は遠のき、家々の灯りがぽつりぽつりと揺れながら、秋の終わりを惜しむようであった。

 だが――

 お玉の胸の内だけは、まるで祭りの余熱を閉じ込めたように熱かった。

 池のほとりで交わしたわずかな言葉。

 源海の声、視線、そして沈黙。

 その全てが、お玉の中で何度も、何度でも再生されてしまう。

 「あなたが無事なら、それだけでよい」

 その言葉は、祈りのようで、償いのようでもあった。

 お玉は胸元を押さえ、夜ごとその響きを抱いたまま眠れずにいる。

 恋は、いつでも誰かを苦しめる。

 その苦しみが甘いものであることを、人は恋と呼ぶのだ。

     *

 寺の境内は、紅葉が落ち、冬支度に追われ始めていた。

 源海は、冷え込みに負けぬよう薪を多く割り、炉に火を足し、僧房を整える。だが、どれだけ身体を動かしても、胸に巣くった迷いは消えない。

 ――お玉殿の姿が、頭を離れない。

 僧の道は、心を空にすることである。

 だが、空にしようとするたび、逆にそこへ彼女の面影が流れ込んでくる。

 彼女の涙、彼女の震え。

 庇いたい、守りたい――そんな気持ちが立ち上がる。

 「煩悩を捨てよ」と仏は説く。

 ならば、この想いはすべて捨てねばならぬのか。

 しかし、源海はどうしても捨てることができなかった。

 心を捨てた先に、祈りはあるのだろうか。

     *

 ある夕暮れ、お玉は寺を訪れた。

 母は何も言わない。娘の心がどこへ向かっているのか、薄々気づいているのだろう。

 だが、恋を止めることほど、難しいことはない。

 心が選んだ道に無理をさせれば、人の心は壊れてしまう。

 「供物を……お納めくださいませ」

 お玉は深く頭を下げ、源海へ菓子を渡した。

 源海は静かに受け取る。

 その指先が再び触れそうになり、ふたりは息を飲んだ。

 源海は一歩、距離を置いた。

 「……ありがとう存じます。仏に供えさせていただきます」

 僧としての言葉。

 だがその声の奥には、別の思いが沈んでいる。

 沈黙が落ちた。

 池の水面へ目を向けると、風に揺れた月影がゆらゆらと踊っている。

 「どうして、池ばかり見ているのですか」

 源海の問いに、お玉はゆっくりと答えた。

 「……ここへ来ると、自分がどこへ向かうのか、少しだけ見える気がするのです」

 源海は、その言葉の重さに気づいていた。

 娘の心は揺れている。

 彼の存在が、その揺れを大きくしている。

 それでも、口を閉じることしかできない。

 なぜなら、禁じられた想いほど、声には出せぬものだから。

     *

 その夜、お玉は再び眠れなかった。

 布団の中で転がり、何度も向きを変える。

 寒さは布団で防げても、心の熱はどうにもならない。

 ――源海様は、どう思っておられるのだろう。

 思いが深まるほど、恐れも膨らんでいく。

 自分の想いが、彼の道を遮ってしまうのではないか。

 もし届かぬ想いなら、その先には深い絶望しかない。

 娘は片手で唇を押さえた。

 涙が滲んだ。

 恋とは、どうしてこれほど人を弱くするのだろう。

     *

 一方、源海の夜もまた終わらなかった。

 僧房で経文を開き、読経を繰り返しても、心は揺れ続ける。

 娘の顔を思い浮かべるたび、胸が軋む。

 「この想いは……罪なのか」

 彼は灯明の前で手を合わせた。

 夜は静まり返り、ただ遠くで犬の吠える声が響く。

 人は祈るとき、心の弱さを知る。

 弱さと向き合うからこそ、祈りは真実になる。

     *

 数日後、寺に妙な噂が舞い込んだ。

 「池の底に、何かが沈んでいるらしい」

 子どもたちが指差す先で、水が濁り、底の影が不気味に揺れ動いている。

 老婆がつぶやいた。

 「……また、誰かの想いが沈んだのかもしれないね」

 その言葉を聞いたお玉は、思わず息をのむ。

 名を呼ばれるような恐怖があった。

 池が、自分を見ている気がした。

 源海もまた、不穏な気配を感じていた。

 池の水が濁るのは、ただの自然現象ではない。

 人の情が積み重なり、重く沈む――

 それが、お玉が池の名の由来なのかもしれない。

     *

 ある夜、町で火事が起きた。

 火の手は大きく、表通りから悲鳴が上がる。

 桶が鳴り、男たちが走る。

 女たちは子を抱いて避難する。

 僧たちも飛び出し、源海もまた助けに向かった。

 お玉は家で母と共に雨戸を固く閉ざしていたが、

 火の勢いに胸がざわつき、池の方へ走り出した。

 源海が見えた。

 彼は燃え盛る家屋の前で人を導いている。

 その背中に、一瞬火の粉が舞い降りた。

 「源海様!」

 お玉は叫び、駆け寄る。

 源海は振り返り、お玉の姿を見て硬直した。

 「何故ここへ……危ない!」

 だが娘は止まらなかった。

 足は、心の向かう方へしか動かぬものだ。

 火の手が一瞬弱まり、そして消火が追いついた。

 危機は脱した。

 だが、お玉の震えは止まらなかった。

 「ご無事で……ご無事で……」

 涙が溢れ、言葉にならない想いが溢れ出た。

 源海は娘の肩に手を置いた。

 「泣かないでください……私は、ここにいます」

 その声は、祈りに似ていた。

 だが同時に――

 祈りでは収まらぬ情が滲んでいた。

     *

 火事のあと、ふたりは池のほとりに並んで立った。

 炎の影がまだ夜を赤く染めている。

 源海は静かに口を開いた。

 「……もし、私が僧でなければ――」

 そこまで言って、言葉を止めた。

 仏門の戒が、その先を塞いだ。

 お玉はそれだけで十分だった。

 僧の道を歩む人の心に、自分がいる。

 それは、何よりの救いであった。

 娘は涙を拭き、月へと視線を上げた。

 沈む月が、池の水面に細く引き伸ばされている。

 「私は……源海様の幸せを願います」

 その言葉の意味は――

 きっと、お玉自身にもまだ分かっていない。

 池の底で、影がゆっくりと揺れた。

 それはまだ形を持たない。

 だが、確かに存在している。

 恋の行方は、まだ誰にも分からない。

 ただひとつ言えるのは――

 水面に映る月は沈み、

 沈んだ月は、必ずまた浮かび上がるのだ。

──第三章 了──

第四章 深淵のさざめき

 火事はどうにか鎮まり、町に安堵の溜息が広がった。

 だが、その夜に交わされた言葉と、触れかけた手の温度は、お玉と源海の胸に深く刻まれていた。

 「もし、私が僧でなければ――」

 源海が続けなかったその先の言葉。

 それこそが、お玉の望む未来そのものだった。

 だが、娘は知っている。

 僧が道を踏み外すことはただの罪ではない。

 それは、彼の守ってきたすべてを壊すことに繋がるのだ。

 恋は、叶うほどに人を傷つける。

 そのことを、お玉はまだ知らなかった。

     *

 火事の後、町では奇妙な噂が広まった。

 「池が笑っている」

 「月の夜に、池から女の声がする」

 子どもたちが面白半分に騒ぎ始め、それを諫める老婆は、ぽつりと言った。

 「池は忘れぬ。世の女の涙が染みているからさ」

 お玉の背筋に、ひやりと冷たいものが走る。

 池の底を覗き込むと、深い闇が息づいているように見えた。

 ――わたしは、引き寄せられているのだろうか。

 お玉は首を振り、その思考を振り払った。

 だが、不吉な予感は消えてくれなかった。

     *

 源海は、火事の件で寺の住職に呼び出されていた。

 「若い娘とかかわりがあると聞いた。

  修行が揺らぐようなことがあってはならぬ」

 住職の声には咎めよりも心配があった。

 だが、それが余計に源海を苦しめる。

 「はい……戒めております」

 返事の裏に潜む迷いを、住職は見抜いたのかもしれない。

 僧が情を持てば、それは破滅の始まりである。

 源海は夜、鐘楼に上り、冷たい鐘の縁に座って月を見上げた。

 秋も深まり、月は鋭い光を放つ。

 「心を空にすることが、どうしてこれほど難しいのだ……」

 胸の奥は、もはや静寂に沈めることができなかった。

 波紋を立てるのは、いつもただひとりの娘。

     *

 夜更け、隣家の若い女が、お玉の家に駆け込んだ。

 「お玉さん!来て……!夫が……!」

 お玉が飛び出すと、隣家の男が床に伏してうなっていた。

 火事で吸った煙のせいか、高熱にうなされている。

 「水を!濡れ布巾を!」

 お玉は迷いなく動き、母と連携して看病を始めた。

 絹針を握る手とは思えぬ力強さがあった。

 夜明けまで看病を続け、男はようやく落ち着いた。

 汗ばんだ頬に触れる手が震える。

 安堵と疲労が同時に押し寄せた。

 その帰り道、池に差しかかる。

 秋の夜の風は鋭く、池面は黒々と静まり返っている。

 ――水底から、声がした。

 「呼んでいるのか……?」

 錯覚だったのかもしれない。

 だが、お玉は身を寄せられるような感覚に襲われ、思わず胸元を掴んだ。

 「いけない……帰りませねば……」

 影が揺れた気がした。

 お玉は逃げるように背を向けた。

     *

 その頃、源海は経蔵の奥で経典を開いていた。

 教えを書き写し、姿勢を正し、息を整え――

 それでも、心は乱れる。

 「その娘は、あなたにとって何なのです?」

 ふと、背後から住職の声がした。

 源海は驚きと共に、胸の内を見透かされた寂しさを覚える。

 「……わかりません。ただ……放っておけないのです」

 住職は静かに頷いた。

 「情は罪ではない。だが、迷いは刃となる」

 迷いは人を切り裂く。

 その刃は、向ける相手を間違えれば悲劇を招く。

 源海は、頭を垂れた。

     *

 その翌日、池のほとりで、お玉は偶然、源海と出会った。

 互いの視線が結ばれた瞬間、胸の鼓動が跳ねる。

 源海が口を開いた。

 「……無事でよかった」

 お玉は、ほんの少し笑った。

 「源海様が……ご無事で何よりです」

 言葉は乏しい。

 だが、多くを語る必要はなかった。

 「この先も……気をつけてください」

 そう言いながら、源海は祈りの形で手を合わせた。

 それが僧としての精一杯――

 いや、人としての精一杯だった。

 別れ際、池の水面がふたりの影を揺らす。

 お玉は、恐る恐る尋ねた。

 「……池が、怖いのです」

 源海は目を細めた。

 「怖れることはありません。

  池は何も奪おうとはしない。

  ただ、人の心を映すだけです」

 お玉は沈黙した。

 心が沈むとき――

 水はそれも飲み込んでしまう。

     *

 町では再び噂が広がる。

 「夜ごと池に白い影が浮かぶ」

 「声をかけられた者が病に伏した」

 池は、何かを待っているようだった。

 ある雨の夜、お玉は家を抜け出し、池のほとりに立った。

 傘も差さず、雨を浴びながら。

 「私は……どうしたらよいのでしょう」

 問いは、濁った水に吸い込まれた。

 背後で足音がした。

 「ここにいては危ない」

 源海が傘を差し出していた。

 お玉は泣きそうな目で彼を見つめた。

 「源海様。わたし……あなたに、迷惑をかけてしまって――」

 源海は首を振った。

 「迷惑など……思ったことはありません。

  ただ……あなたが苦しむなら、私は――」

 その言葉もまた、途中で途切れた。

 戒律という重石が、彼の口を塞いだ。

 どこかで雷が鳴った。

 池の水面に光が走る。

 お玉は震える声で言った。

 「源海様……わたし、池に呼ばれている気がするのです」

 源海は息を呑んだ。

 池を見つめるその瞳の奥に、暗い深淵が揺れている。

 「何があっても、あなたを手放しません」

 ついに源海は、その言葉を口にした。

 僧としては決して許されぬ誓い。

 だが、言わずにはいられなかった。

 雨はさらに強くなり、

 池の闇がふたりをじっと見つめていた。

──第四章 了──

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