――第五十五章 寺社筋の薄明――
寺社筋――。
その言葉が胸に落ちてから、伊織はしばらく眠れなかった。
寺は戻る場所である。
少なくとも伊織にとってはそうだった。
火と血と帳面の匂いを抱えたままでも、一度ここへ戻れば、人の顔に戻れる。母がいて、志乃がいて、お澪がいて、老僧がいて、新兵衛がいる。囲炉裏の火があり、井戸水があり、味噌の匂いがある。そういうものの中で、自分はまだ役だけの人間にはなりきらずに済んでいる。
だが世の寺が、みな同じとは限らぬ。
紙を納める寺。
控え文を預かる寺。
人が疑わぬからこそ、流れを隠す寺。
もしそういう口があるなら、そこへ踏み込むのは、これまでとは違う重さを持つ。敵の蔵へ入るのとはわけが違う。自分の戻る場所に似た顔をしたものへ、疑いを向けねばならぬからだ。
囲炉裏の残り火が、赤く息をしていた。
老僧はもう休んだ。
母も志乃も、お澪も眠っている。
新兵衛だけが、縁側で鼾をかいていた。
伊織は火の前で膝を抱え、じっと熾きた炭を見た。炭は小さくなっても、芯が残っていれば朝まで保つ。人も同じかもしれぬ、とふと思う。大きな決意よりも、小さな芯が残っているかどうかの方が、長く生きるには大事なのだろう。
やがて、夜明け前の静けさが近づくころ、伊織は立ち上がった。
翌朝、主水への文は短くした。
――寺社筋の口、杉浦の口より出る。
紙納めの小口を先に見たい。
大きくは動かさず、見張りを願う。
それだけで十分だった。
主水は余計な説明を嫌う。
余計な説明は、余計な手を呼ぶからだ。
文を使番へ託したあと、伊織は朝餉の席へ戻った。
母が湯気の立つ椀を置きながら言う。
「今日は、どこへ行くんだい」
「寺社へ納める紙の筋です」
母の手が一瞬止まった。
それから、何でもないことのように言う。
「じゃあ、余計に腹に入れて行きなさい」
それだけだった。
反対も、心配も、説教もない。
だが、その“余計に腹に入れて行け”の中に、母の思うところがすべて入っていた。
寺へ行くからといって、そこで人を見失うな。
人を見失わぬためには、腹を空かせて行くな。
そういうことなのだろう。
志乃が味噌汁をよそいながら言った。
「兄さま、今日は少し顔が固いです」
「そうか」
「お寺が相手だからですか」
伊織は少しだけ驚いた。
妹はやはり、人の顔を見る。
「……そうかもしれない」
志乃は静かに頷いた。
「でも、兄さまが行くお寺と、ここは違います」
伊織は箸を止めた。
「なぜそう思う」
「だって、ここは兄さまが戻ってきた時、まずご飯を出してくれる場所です」
母が横で「当たり前だよ」と言う。
そのやりとりに、新兵衛が笑った。
「ほらな。だから戻る場所ってのは強ぇんだよ」
お澪が静かに補った。
「戻る場所は、人を隠すためではなく、戻すための場所です」
その言葉に、伊織は深く頷いた。
隠す寺と、戻す寺。
見た目は似ていても、役目はまるで違う。
それを見分けねばならぬ。
朝餉の後、伊織は新兵衛とともに浅草寄りの寺町へ向かった。
杉浦の口から出た“寺へ納める小口”という言い方は、漠然としている。だが紙を納める寺となれば、寺子屋を抱える大きめの寺か、写経や勧進で文の出入りが多い寺に限られる。主水へ文を出してはいるが、返事を待っていては流れが先に動く。まずは自分の目で、寺町の“紙の匂い”を見るしかなかった。
浅草へ近づくにつれ、町の匂いが変わる。
魚や味噌の匂いに混じって、香の匂いがする。
寺町特有の匂いだ。
しかも朝の寺町は、町人が願掛けや用足しで行き来するから、思いのほか人が多い。人が多いということは、荷も紛れやすい。
「寺が多すぎるな」
新兵衛が低く言う。
「だからこそ、小口は隠れやすい」
伊織は答えた。
二人はまず、表に寺子屋の看板を出している寺を外から見た。大きな寺は紙の出入りも多いが、そのぶん人目も多い。怪しい筋は、たいていそこを避けて、少し外れた中くらいの寺へ寄る。目立たぬが、文を置くには足りる場所だ。
やがて伊織の目が、一つの寺の門前で止まった。
寺の名は《養源寺》。
さほど大きくはない。
だが門の脇に、小さな木箱が二つ積まれている。
紙の包み方だ。
しかも箱に記された文字が、“寺納”ではなく“学用”となっている。
「学用?」
新兵衛が首を傾げる。
「寺子屋向けの紙だ」
伊織は言った。
「だが、寺子屋の規模にしては箱が多い」
門前にいる小僧の数、庭の広さ、物干しの具合、井戸の桶の数――それらから見て、この寺にそんな量の紙が要るはずがない。紙は軽いがかさばる。必要以上の量は、必ずどこかへ回る。
「ここだな」
新兵衛が言う。
「ああ」
伊織は門前を一度通り過ぎ、裏へ回った。
養源寺の裏は、思ったよりも整っていた。
小さな庭、物置、井戸、そして北側に別棟が一つ。別棟の戸は閉まっているが、板戸の隙間から紙の白が見える。寺子屋の道具置き場にしては、やけに念入りだ。しかも、戸の前の土が何度も踏まれている。人の出入りが多い。
「どうする」
新兵衛が囁く。
「待つ」
伊織が答えると、新兵衛が苦い顔をした。
「またか」
「寺だ。いきなり踏み込めぬ」
「分かっちゃいるがな」
二人は裏手の竹垣の陰に身を潜めた。
しばらくすると、本堂の方から若い僧が一人、別棟へ鍵を持って来た。僧は周囲を見回し、戸を開け、中へ入る。すぐには出てこない。
「坊主か」
新兵衛が言う。
「それとも坊主の顔をした手か」
伊織は答えず、僧が出るのを待った。
やがて僧は、紙束を三つ抱えて出てきた。
紙束の表には、寺子屋用の札。
だが束ね方が、升屋紙舗のものと同じだ。
左が深い折り。
角の爪跡。
「つながってる」
伊織が低く言う。
僧は紙束を抱えたまま、本堂ではなく門とは逆の小路へ向かった。寺子屋へ運ぶなら境内の中で済むはずだ。つまり外へ流す。やはり“小口”だ。
「追うぞ」
二人は僧の後を追った。
僧は寺町を抜け、さらに裏の長屋筋へ入った。
紙束を抱えた僧というのは、どこにいても不自然ではない。そこが厄介だ。誰も見咎めぬ。どんな顔をしていようと、“用向きがあるのだろう”で済まされる。
だが伊織は、その歩き方に違和を覚えた。
僧は足を引きずらない。
腰も低くない。
むしろ、荷を守る商人に近い歩き方だ。
「本職の坊主じゃねぇな」
新兵衛が言う。
「ああ」
やがて僧は、長屋の奥の小さな表具屋へ入った。
表具屋。
紙を扱う。
糊を使う。
巻物や帳本の背も整える。
寺子屋用の紙が出入りしても、誰も疑わぬ。
「今度は表具屋か」
新兵衛が吐き捨てるように言う。
「紙の流れは、紙の顔をした場所ばかりだな」
伊織は頷いた。
升屋紙舗。
古本屋。
そして表具屋。
白紙は、いつも“紙らしい顔”のところを通る。
だから見えにくい。
表具屋の戸は半分開いている。
中から、糊の匂いと湿った紙の匂いが流れてくる。
僧の声が聞こえた。
「今朝の分だ」
別の男の声が返る。
「遅い」
「寺の門前に人が多かった」
「次からは朝餉の前に出せ」
伊織と新兵衛は、目を見合わせた。
ただの寺子屋用紙のやり取りではない。
量も、時間も、流れも決まっている。
伊織は戸の隙間から中を覗いた。
表具屋の奥に、紙を貼る台があり、その脇に小さな帳場がある。
そこへ僧が紙束を置き、男が一枚ずつめくっている。
そしてその帳場の脇に――
見覚えのある箱。
三本線の印。
徳兵衛の小屋で見た、水筋の荷札箱だ。
「全部つながったな」
新兵衛が低く言う。
「紙は寺を抜け、表具屋で帳や巻物に化け、水筋へ乗る」
「ああ」
伊織は答えた。
そしてさらに、男の横顔がこちらを向いた瞬間、息が止まりそうになった。
「……まさか」
男は、主馬の控えで何度も見た顔だった。
杉浦弥之助の名を徳兵衛が漏らした時、紙の端に見覚えのある筆だと思った、その筆の持ち主。
杉浦のさらに下で、主馬の控え文を写していた下役。
杉浦弥之助。
徳兵衛。
秋庭。
沼田。
そしてこの表具屋の男――杉浦の口から出た名前。
「杉浦弥之助……いや、違う」
伊織は小さく首を振った。
「こいつが杉浦の“継ぎ目”か」
新兵衛が言う。
「名、何つったっけ」
伊織は記憶を手繰る。
「……杉浦じゃない。杉村屋の帳場にいたことはない。主馬の控えの下役……」
男が帳面に何かを書きつける。
その字。
荒い。
整えようとする癖。
徳兵衛が言った名が、そこではっきり胸に上がった。
「杉浦じゃない。――杉浦へ紙を流した、杉村屋の前の口だ」
「つまり?」
「こいつが杉浦へ繋いだ“下”……そして主馬殿の控えにいた男」
新兵衛が舌打ちした。
「名前だよ、名前」
伊織はようやく絞り出すように言った。
「……杉浦の言った、杉浦弥之助ではない。――杉浦の一つ下、主馬殿の控えの下役。名は……」
その瞬間、表具屋の中から別の声がした。
「弥之助、そっちは済んだか」
伊織と新兵衛が同時に固まる。
男が顔を上げた。
そして、伊織は理解した。
徳兵衛が口にした“杉浦弥之助”は、古本屋の杉浦その人ではなかったのだ。
古本屋の男は、表の顔。
この表具屋の男こそ、城中の下役として主馬の控えに潜り込んでいた“弥之助”だった。
名を二重に使っていた。
表と裏で同じ名をずらして。
まさに白紙の理だ。
顔をずらし、名をずらし、役だけを通す。
「こいつか……!」
新兵衛が唸る。
だが、その時にはもう遅かった。
弥之助は、戸の隙間のこちらに気づいた。
目が合う。
ほんの一瞬。
だが十分だった。
男は机の上の紙を抱え、奥へ走った。
寺の僧も振り向く。
表具屋の主が立ち上がる。
奥には水路へ抜ける細い戸。
また水だ。
「逃がすな!」
伊織は叫び、戸を押し破った。
表具屋の中へ飛び込む。
糊の匂い。
湿った紙。
そして逃げる背。
弥之助は紙束を抱えたまま、奥戸へ突っ込む。
火打ち箱ではない。
紙を抱えて逃げる。
燃やす前に、流す気だ。
紙の敵は、火より流れを選ぶ。
新兵衛が僧を押さえ、伊織は弥之助を追った。
奥戸の向こうは、細い水路に面した板敷き。
小舟が一艘、ついている。
最初から逃げ道があった。
弥之助が舟へ飛び乗ろうとした瞬間、伊織は紙束ごとその背に飛びついた。
二人とも板敷きに転がる。
紙が散る。
白い紙。
寺社納めの札のついた紙。
帳面の控え。
それらが水際へ滑っていく。
弥之助が肘で伊織の顎を打つ。
伊織が腕を捻る。
男の手から紙が離れる。
だが一枚だけ、水へ落ちた。
白い紙が、黒い水へ吸い込まれる。
「くそっ……!」
伊織が思わず呻くと、弥之助が歯を剥いた。
「一枚あれば十分だ」
その言葉に、伊織はぞっとした。
一枚で十分。
つまり、残った一枚がどこかへ届けば、また次の流れが起きる。
紙の敵は、全部を欲しがらない。
きっかけだけでいいのだ。
伊織はさらに力を込め、男の腕を板へ叩きつけた。
新兵衛が背後から駆け込み、弥之助の足を押さえる。
ようやく男の体が止まった。
息を荒げながら、伊織は散った紙をかき集めた。
濡れたものもある。
読めぬかもしれぬ。
だがまだ多くは残っている。
弥之助は、板の上で笑った。
「榊原……お前、まだ分かってねぇ」
「何をだ」
「寺社筋を押さえても、紙はなくならねぇ」
伊織は息を整えながら言った。
「なくすために来たんじゃない」
「なら何だ」
「戻すためだ」
弥之助の笑いが、一瞬だけ止まった。
その時、新兵衛が低く言う。
「坊主の方は押さえた。だが表具屋の主がいねぇ」
伊織の胸が鳴る。
表具屋の主――。
また一つ、口が抜けた。
だが今は弥之助がある。
寺社筋の紙もある。
そして、ここが寺を“戻る場所”ではなく“隠す場所”にしていた一つの口だという証もある。
伊織は、水路の黒い面を見た。
紙は一枚、流れた。
それでも、全部は流れていない。
ならばまだ追える。
波瀾万丈の物語は、寺社筋の薄明から、さらに水際の暗がりへ踏み込んだ。
紙はまだ流れる。
だが、それを追う目もまた、もう止まらない。
(堕五十六章につづく)

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