山本周五郎を模倣し、江戸時代の武士の姿を描いた完全オリジナル小説『落日の士(サムライ)』第五十三章

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――第五十三章 杉浦弥之助という継ぎ目――

 徳兵衛を押さえたその足で、伊織たちは城下へは戻らなかった。

 戻れば戻ったで主水へ報せねばならぬ。主馬にも、あるいは岡野の口から別の筋へも伝わる。だが今、欲しいのは“公”の動きではなく、“まだ私の名が出ていないと思っている者”の顔だった。杉浦弥之助――主馬の控えに近い場所で、文を少しだけ寝かせる男。その名が徳兵衛の口から出た以上、ひと呼吸でも遅れれば、相手は必ず紙を焼き、顔を変え、役を下へ落とす。

 岡野もそれを理解していた。

「主水殿へは、私から最低限だけ入れます」

 小屋の裏で徳兵衛を縄に繋ぎながら、岡野が言った。

「名までは書かぬ。いま名を出せば、上から止めが入るかもしれぬ」

「止めが入る?」

 新兵衛が眉をひそめる。

「杉浦が主馬殿の近くにいるなら、です」

 岡野は短く答えた。

「主馬殿ご自身がどうこうではない。だが、主馬殿の名で動く手は多い。多ければ、その分だけ“守るつもりの止め”も出る」

 止める手と、通す手。
 主水の部屋で聞いた言葉が、伊織の胸の奥で静かに鳴った。
 杉浦弥之助は、そのどちらにいるのか。
 いや、きっと本人は“止める手”だと思っているのだろう。
 だから厄介なのだ。

「居場所は」

 伊織が問うと、岡野は徳兵衛の襟首を掴み上げた。

「言え」

 徳兵衛は、喉を鳴らして笑った。

「言ったところで……間に合わねぇかもしれねぇぞ」

 新兵衛の目が細くなる。

「試してみるか」

「やめろ」

 伊織が制し、徳兵衛の前に腰を落とした。

「杉浦は、どこへ帰る」

 徳兵衛は伊織の顔を見た。
 その目は、どこか諦めに似た色をしている。
 こういう男は、追い詰められてなお口を閉ざすほどの義理は持たぬ。
 だが、どこまで喋れば自分が少しでも長く生きられるかは測る。

「神田だ」

 やがて徳兵衛が言った。

「古本屋の裏二階。表の名は《杉村屋》だが、本当は貸本もほとんどやってねぇ。紙の出入りを見るための店だ」

 伊織はその名を胸に刻んだ。
 杉村屋。
 杉浦弥之助。
 名を少しずらす。
 これもまた、白紙の理だ。

「古本屋、ねぇ」

 新兵衛が鼻を鳴らす。

「今度は紙が表か」

「紙はいつだって表だ」

 伊織が言う。

「裏へ隠れる必要がない」

 岡野が立ち上がった。

「私は徳兵衛を主水殿の別口へ入れます。お前たちは杉村屋へ」

「お前は来ないのか」

 新兵衛が問う。

「顔が割れている」

 岡野は即答した。

「いま私が表へ出れば、杉浦は匂いで逃げる」

 それは正しかった。
 岡野はもう、白紙の流れの中で「主水の手」として動いている。
 この先は、まだ“表の客”として入れる伊織と新兵衛の方が向いている。

 伊織は頷いた。

「徳兵衛は頼む」

「頼まれた」

 岡野は、そこで一瞬だけ伊織を見た。

「杉浦は、徳兵衛や榎本とは違う。紙の上で生きてきた男です。追い詰めれば火ではなく、文を使います」

「文?」

「疑いを先に流す、ということです」

 伊織の胸が少し冷えた。
 火を持たぬ敵は、最後に“疑い”をばら撒く。
 誰が裏切り、誰が白紙を継ぎ、誰が止める手なのか――それを曖昧にし、こちらの目を濁らせる。
 杉浦弥之助は、きっとそういう男なのだろう。


 神田へ着いた頃には、夕方の気配が濃くなっていた。

 古本屋の並ぶ一角は、昼よりも静かだった。本は、魚や米と違って夕刻に慌ただしく動くものではない。だからこそ、帳面や白紙を隠すには向いている。紙の匂いがしても不自然ではないし、人が出入りしても荷が小さいぶん目立たぬ。

 杉村屋は、表から見ると本当に冴えぬ古本屋だった。

 色あせた暖簾。
 日に焼けた草紙。
 店先に並ぶのは、寺子屋帰りの子どもでも買えそうな読本や、手習いの控え。
 だが奥行きが不自然に深い。
 しかも二階へ上がる梯子が、客から見えぬ位置にある。

「いかにもだな」

 新兵衛が低く言う。

「いかにもすぎて、逆に怪しまれねぇ」

 伊織は答えた。

 二人は、まず表へ入った。

 番台のような机の後ろに、男が一人座っている。
 三十代の終わりか、四十に少しかかるか。
 顔は平凡。
 だが目の置き方が静かすぎる。
 客を見る目ではない。
 客が“何を見ているか”を見る目だ。

 杉浦弥之助。
 伊織は、ひと目でそうだと分かった。

「何をお探しで」

 杉浦は柔らかく言った。

 柔らかいが、温かくはない。
 紙のような声だと、伊織は思った。
 折ればそのまま跡がつき、濡れればにじむ。
 だが乾いているうちは、何も語らぬ声。

「帳場で使う古い勘定本を少し」

 伊織が言うと、杉浦の目がほんの僅かに動いた。
 古本屋に来て帳場の本を求める客は、珍しくない。
 だが、珍しくないからこそ、誰がどういう目でそれを探すかで中身が見える。

「どのようなものを」

「勘定の付け方が古いもの」

 伊織は言った。

「今の書き方ではなく、昔の書き方を見たい」

 杉浦は立ち上がり、棚の奥から数冊の帳本を出した。
 動きに無駄がない。
 そしてその手。
 紙を取る時、左が深い。
 折り筋をつけるあの手だ。

 伊織は一冊を開いた。
 古い勘定本のように見える。
 だが紙質が新しい。
 古く見せるために、わざと煤を擦り込んである。
 こういう細工をする手は、文を“見せる顔”で整えることに慣れている。

「面白いな」

 伊織が言う。

「どこが」

 杉浦が問う。

「古い帳本にしては、紙が若い」

 一瞬だけ、空気が止まった。

 新兵衛が横で何気なく草紙をめくっているふりを続ける。
 だがその目は、もう杉浦から離れていない。

 杉浦は、小さく笑った。

「よくご覧になる」

「紙は嘘をつかぬからな」

 伊織が返すと、杉浦の目が細くなった。

「……榊原殿」

 ついに名を呼んだ。

 つまり、最初から分かっていたのだ。
 こちらがただの客ではないことを。
 それでも受けて立った。
 逃げずに、ここへ座っていた。
 そういう男だった。

「逃げなかったな」

 伊織が言うと、杉浦は肩をすくめた。

「逃げるほどのことはしておりません」

「白紙を継ぎ、判の流れを整え、神田西口の茶屋へ文を通した」

「通したのは、あくまで文です」

 杉浦は静かに言った。

「文そのものに罪はない」

「罪があるのは、順か」

「順が世を裂くこともあります」

 またそれだ、と伊織は思った。
 止める手の理。
 順を整えるという理。
 主水と沼田のあいだにあるあの薄い境を、自分に都合よく踏み越える理。

「お前は何を守る」

 伊織が問う。

 杉浦は、即座には答えなかった。
 視線を古本の背へ落とし、少しだけ考えるように見えた。
 だがそれもまた、計算のうちかもしれない。

「見苦しいものを減らしたい」

 やがて杉浦は言った。

「見苦しいもの?」

「城中へ上がる文の多くは、遅すぎるか早すぎる。怒りが先に立ち、責が曖昧で、下の帳面も整っていない。そんなものをそのまま通せば、止められる者も止められず、動くべき者も動けぬ。……それを少しだけ、整えておりました」

 伊織は黙って杉浦を見た。

「少しだけ」

「はい」

「皆そう言う」

 伊織の声が低くなる。

「少しだけ。今日だけ。ここだけ。――そうやって帳面は濁る」

 杉浦は、そこで少しだけ口元を歪めた。

「ではお尋ねします。主水殿は、一度も文を止めたことがないのですか」

 伊織の胸が小さく鳴る。
 来た。
 やはりこの男は、疑いを使う。
 火ではなく、言葉でこちらの足元を裂く。

「主水殿は」

 伊織は静かに答えた。

「止めた責を、自分の名で背負う」

「私も背負っております」

「違う」

 伊織は一歩進んだ。

「お前は、白紙と古本と店の名の裏へ隠している」

 杉浦の目が、ほんの少しだけ冷えた。
 そこへようやく、本当の地が見えた。
 柔らかい声の下にある、冷たい刃。
 この男もまた、人の顔を保ちながら役へ寄りかかっている。

 そのとき、二階で足音がした。

 軽い。
 女か、若い小僧か。
 杉浦の顔が、初めてはっきりと動いた。
 目だけが、上を見た。
 その一瞬で、伊織は悟る。
 上に、見せたくない何かがある。
 帳面か。
 白紙の元か。
 それとも――

「新兵衛!」

 伊織が叫ぶより早く、新兵衛は梯子へ飛びついていた。

 杉浦が机の下へ手を伸ばす。
 短刀ではない。
 小さな火打ち箱。

 やはり火だ。

 白紙の敵も、最後は火に頼る。
 紙を燃やせば、疑いだけが残る。
 それが一番都合がいいからだ。

 伊織は杉浦の手首を蹴り上げた。
 火打ち箱が飛び、畳に落ちる。
 杉浦はすぐに身を引き、今度は奥の障子へ向かう。
 裏口だ。

 だが新兵衛が二階から怒鳴った。

「伊織! 女だ!」

 伊織の足が一瞬止まる。

 杉浦はその隙を逃さなかった。
 障子を開け、裏へ飛ぶ。
 逃がせば、また次の白紙が生まれる。
 だが二階にいる“女”も見過ごせぬ。

 選ばせる。
 まただ。
 紙の敵は、最後に必ず“人”を置く。

 伊織は一瞬だけ天を仰ぎ、それから決めた。

「新兵衛! 二階を頼む!」

 自分は裏へ飛んだ。

 杉浦の背が、裏庭の向こうに見える。
 古本屋の裏は、紙を乾かす狭い庭になっていて、竹竿に紙が何枚も吊られている。
 紙の間を縫って逃げる背。
 まるで白紙そのものが逃げていくようだった。

 伊織は走った。

 紙が顔に当たる。
 乾いた音。
 杉浦は塀を乗り越えようとする。
 その動きに迷いはない。
 最初から逃げ道も作っていたのだ。

 伊織は紙竿を一本掴み、投げた。
 竿が杉浦の足元へ飛び、脚に絡む。
 男がよろめく。
 その一瞬で伊織が追いつき、背中へ体当たりした。

 二人とも地面へ倒れる。
 紙が舞う。
 白い。
 何も書かれていない白紙が、夕方の光の中で宙を舞う。

 杉浦が歯を食いしばって言った。

「榊原……お前は、いずれ分かる」

「何が」

「白紙をそのまま通すだけでは、守れぬものがあると」

 伊織は、男の腕をねじり上げながら答えた。

「守れぬものがあるのは知っている」

「なら――」

「だからといって」

 伊織は低く言った。

「隠れて書き換えるな」

 杉浦の抵抗が止まった。

 諦めたのではない。
 この男は、きっと最後まで自分を“間違っていない”と思い続けるのだろう。
 だが今は、それでいい。
 口が残り、紙が残り、火がつかなかった。
 それだけで十分だ。

 新兵衛が裏庭へ降りてきた。
 その腕には、十五、六の娘が支えられている。
 怯えているが、怪我はないようだ。

「娘だ。紙を選り分けてた」

 新兵衛が言う。

 杉浦が、その声に目を閉じた。
 初めて人の顔になった。
 役ではない。
 ただの男の顔。

「妹か」

 伊織が問うと、杉浦は小さく頷いた。

「……病をしておる。筆も折りも、女の手の方が早い」

 その答えに、伊織は胸の底が少しだけ痛んだ。
 守るものがある。
 だから少しだけ手を入れる。
 その理は、どこにでもある。
 そしてそれを責めるだけでは、世は何も進まぬ。
 だが放っておけば、また次の白紙が積まれる。

「妹は連れていく」

 伊織が言う。

「紙も帳面も押さえる。お前もだ」

 杉浦は抵抗しなかった。

 裏庭には、まだ白紙が舞っている。
 夕日を透かしたその白さは、何も書かれていないようでいて、もう十分に多くのことを語っていた。

 波瀾万丈の物語は、また一つ白紙の口を塞いだ。
 だがその代償に、人の顔をまた一つ見てしまった。
 それが救いになるのか、痛みになるのかは、まだ分からなかった。

(第五十四章につづく)

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