山本周五郎を模倣し、江戸時代の武士の姿を描いた完全オリジナル小説『落日の士(サムライ)』第五十二章

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――第五十二章 味方の顔、白紙の手――

 岡野の横顔は、いつもの岡野だった。

 無駄な動きがなく、紙を扱う手にも迷いがない。箱を受け取り、中の白紙をざっと改め、数だけ確かめているように見える。だが、その“ざっと”が厄介なのだ。長く帳面と証文を扱う者ほど、一目で十分なことがある。足りぬ紙、過ぎた紙、質の違う紙、折り筋の癖――それらをいちいち数えずとも、手に取った重さで分かる。

 問題は、その岡野が今、どちらの側でその手を使っているかだった。

 伊織は、戸の隙間から目を離さなかった。

 箱を運んできた若い男が、岡野へ何か言う。声は低く、聞き取れぬ。岡野はそれに短く頷き、奥へ目をやった。奥の障子の向こうに、さらに人がいる気配がある。笑いも怒声もない。ただ、紙をめくる乾いた音だけが続いている。

「おい」

 新兵衛がほとんど息だけで言った。

「どう見る」

 伊織は、すぐには答えなかった。

 答えを急げば、間違える。

 主水もそう言った。

 いま見ているのは、まさに“止める手”と“通す手”の境だった。

 岡野が箱を閉じた。

 そして、若い男へ何か指図する。

 男は奥へ下がる。

 そのあと岡野は、懐から紙を一枚出して机へ置いた。

 白紙ではない。

 すでに何か書かれている。

 受け取りの控えか。

 あるいは、次の流し先の指図か。

「動くぞ」

 伊織が低く言った。

 岡野が一人で外へ出る。

 店の裏口から、周囲を気にすることもなく歩き出した。

 隠れる顔ではない。

 むしろ見られて困らぬ者の歩き方だ。

 それが逆に、伊織には不安だった。

 二人は距離を取って後を追った。

 岡野は商家の裏手を離れ、路地を二つ折れ、川沿いへ出た。だがそこで西へは向かわず、今度は南へ切れた。人足小屋と船宿が混じる、ごみごみした一角である。白紙や証文より、酒と荷縄と魚の匂いが強い場所だ。こういう場所は、文を隠すのに向く。紙の匂いが消えるからだ。

「紙を流す先じゃねぇな」

 新兵衛が言う。

「いや」

 伊織は前を見たまま答えた。

「“紙を紙に見せぬ場所”だ」

 岡野は、古びた船宿の脇の小屋へ入った。

 表には何の印もない。

 だが戸口の脇に、小さな舟釘が三本、斜めに打たれている。

 伊織の胸がかすかに鳴った。

 三本線を斜めに交差させた印。

 帳面に出ていた、あの見慣れぬ印。

 つまりここが、その印の“顔”だ。

「やっぱりつながってやがる」

 新兵衛が低く吐き捨てた。

「まだ決めるな」

 伊織は言ったが、胸の内では同じように冷えていた。

 岡野がその印の小屋へ入る。

 それだけで、疑うには十分だった。

 だが十分なだけで、確かではない。

 主水の手が、二重三重に流れを見ている可能性もある。

 今ここで岡野を裏切りと決めれば、こちらの目も濁る。

 二人は小屋の裏へ回った。

 板壁の隙間から、中の様子が見える。

 狭い部屋だった。

 紙の束はない。

 代わりに、船札、荷札、縄、帳面、そして封のされた文が机の上に散っている。

 白紙の流れの終点ではない。

 そこから“荷”へ変える場所だ。

 岡野の向かいに、一人の男が座っていた。

 白髪まじりの船頭風。

 だがただの船頭ではない。

 指が細く、爪が短く整っている。

 水より筆を握る時間の長い手だ。

「これで東筋はしばらく止まる」

 岡野が言った。

 はっきり聞こえた。

 伊織の眉が動く。

「西へ回す分だけで足りますか」

 船頭風の男が問う。

「足りなければ、本所の紙を回せばいい」

 岡野が答える。

 その言葉だけを取れば、完全に“向こう側”の口だった。

 新兵衛が、ほとんど身を起こしかける。

 伊織が袖を掴んで止めた。

「待て」

「待てるかよ」

「まだだ」

 伊織は自分にも言い聞かせるように言った。

 岡野の声色に、まだ何か引っかかる。

 流れを通す者の声ではなく、どこか“確かめている”響きがある。

 それが演技なら厄介だ。

 だが演技でないなら、ここで飛び込めばすべて壊れる。

 小屋の中で、岡野が懐から文を出した。

「これを秋庭の流し先へ戻せ」

 船頭風の男が受け取ろうとした、その瞬間――

 岡野の手が、すっと引いた。

 そして逆の手が、男の喉元に短刀を突きつけた。

「動くな」

 低い声。

 部屋の空気が、一瞬で変わる。

 船頭風の男の目が剥かれた。

 小屋の隅にいた若い手代が立ち上がりかける。

 岡野が振り向きざまに足を払う。

 手代が机へ叩きつけられる。

 封の文が散る。

「主水殿の名で押さえる」

 岡野が言った。

「白紙も、水筋も、ここで終わりだ」

 新兵衛が思わず唸った。

「……あの野郎」

 伊織はそこで、ようやく息を吐いた。

 味方だった。

 だが、ただの味方ではない。

 主水の“別の手”だったのだろう。

 こちらにも知らせず、独自に印の流れへ潜っていた。

 だからこそ、ここまで来られた。

 だがそのやり方は、危うくもある。

 味方の顔が敵に見える。

 そういうやり方を続ければ、やがてこちらの目まで疑いに染まる。

「行くぞ」

 伊織が言い、二人は小屋へ踏み込んだ。

 戸が開く音に、岡野が振り向く。

 一瞬だけ、顔に驚きが走る。

 それからすぐに苦い顔になった。

「見られたか」

「見えた」

 伊織は答えた。

「もう少し早く言ってほしかった」

「言えば漏れる」

 岡野は短く返した。

 その言い方に嘘はない。

 だが角がある。

 主水の手とは、こうしてしばしば味方まで切るように動く。

 船頭風の男は、喉元に刃を当てられたまま伊織を見た。

 その目に、覚えがあった。

 神田の納屋で一瞬見えた、白紙を運ぶ町人風の男の目。

 老けて見えるが、同じ目だ。

 つまりこいつが、水筋の“顔”だ。

「名は」

 伊織が問う。

 男は黙る。

「言わぬなら、舟ごと沈める」

 新兵衛が低く言うと、男は鼻で笑った。

「沈めりゃ文も消える」

「文は拾う」

 伊織が言った。

「お前の顔も、もう見た」

 男は数息黙り、やがて言った。

「……鶴屋徳兵衛」

 伊織の胸の内で、その名を一度転がす。

 聞き覚えはない。

 だが“鶴屋”という屋号は、どこにでもありそうで、だからこそ隠れやすい。

「役は」

 伊織が続けて問う。

 徳兵衛は笑った。

「役なんざねぇよ。荷を受けるだけだ」

「嘘だ」

「じゃあ何だと思う」

 伊織は机に散った封文を拾った。

 宛名はない。

 印だけ。

 三本の斜め線。

 そして一枚だけ、裏に米の控えが書かれている。

「お前は、“紙を荷に変える手”だ」

 伊織が言うと、徳兵衛の笑いがほんの少しだけ止まった。

「白紙も、米の帳面も、ここで一度“荷”になる。船に乗せれば文ではなくなる。舟札に化ければ、誰も中身を見ぬ」

 岡野が低く付け足す。

「そして品川か、日本橋か、あるいは城の外濠沿いへ運ばれる」

 徳兵衛は黙った。

 つまり当たりだ。

 伊織は、机の上の散った文を一枚ずつ見た。

 その中に、見慣れた筆があった。

 秋庭でも、沼田でもない。

 もっと荒いが、どこか整えようとする癖のある字。

「……主馬殿の控えの下役か」

 伊織が呟くと、岡野の目が細くなった。

「見覚えがあるのか」

「ある。主馬殿のところで、控え文を写していた男の字だ」

 岡野が舌打ちした。

「まだ下がいるか」

 徳兵衛がそこで初めて口を開いた。

「下じゃねぇ」

 皆の目が向く。

「何だ」

 伊織が問う。

「そいつぁ、自分で“止める手”だと思ってる」

 徳兵衛は喉元の刃を気にも留めぬように言った。

「主馬様のところへ上がる前に、余計な波を立てる文を少し寝かせる。少しだけ、遅らせる。それで世が静かに回ると、本気で信じてる」

 沼田と同じだ、と伊織は思った。

 白紙に魅せられる者は、城の中だけにいるのではない。

 “止めることで守る”理屈は、いくらでも増殖する。

 徳兵衛はその端を受けるだけ。

 紙を荷に変えるだけ。

 だがその先には、まだ人がいる。

「名は」

 伊織が問う。

 徳兵衛は、今度はあっさり答えた。

「杉浦弥之助」

 伊織は目を閉じ、一度だけその名を胸に刻んだ。

 また一つ、小さな都合の名が増えた。

 大きな敵ではない。

 だがこういう名が積もるたび、世の底は少しずつずれる。

 岡野が徳兵衛へ縄をかけ直しながら言った。

「これで終わりではないな」

「終わりなわけがねぇ」

 新兵衛が吐き捨てる。

「だが一つずつ、口は見えてきた」

 伊織は頷いた。

 火の敵。

 米の敵。

 白紙の敵。

 そして今、水筋の荷へ変える手。

 すべては別々に見えて、どこかでつながっている。

 つながりを見失えば、また黒い桐が生まれる。

 だから見続けねばならぬ。

 小屋の外へ出ると、昼の光が少しだけ傾いていた。

 船宿の匂い。

 紙の匂い。

 味噌の匂いまでは、もうしない。

 だが伊織の胸には、寺の味噌樽の匂いがまだ残っている。

 それが残っているうちは、大丈夫だと、ふとそんな気がした。

 波瀾万丈の物語は、もう剣の届く範囲だけではない。

 だが伊織は歩く。

 火の前では桶を持ち、

 紙の前では目を開き、

 水の前では流れを読み、

 そして戻る場所へ帰るために。

 そうしてようやく、人は役に呑まれずに済むのだろう。

(第五十三章につづく)

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