山本周五郎を模倣し、江戸時代の武士の姿を描いた完全オリジナル小説『落日の士(サムライ)』第四十七章

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――第四十七章 戻る場所の灯――

 寺へ戻る道すがら、伊織は何度か空を見上げた。

 高い。

 ただ高いだけの空だった。

 火の煙もなく、矢の影もなく、帳面の紙片ひとつ舞っていない。

 こういう空を見ると、人は世の中が静かに戻ったような気になる。

 だが伊織はもう、その静けさを信じきれなかった。

 静けさは、しばしば見えぬ手が動くための余白にすぎない。

 それでも――。

 主水の言葉。

 沼田の沈黙。

 秋庭の揺れ。

 それらを胸の中に抱えたまま、寺の門が見えた時、伊織の足から少しだけ力が抜けた。

 戻る場所とは、たぶんこういうものだろう。

 緩めてはいけぬものを、一瞬だけ緩めてもよい場所。

 人が役から降りて、人の顔へ戻ることを許される場所。

 門の脇で、新兵衛が先に口を開いた。

「おう、今日は火の匂いしねぇな」

 その言い方が妙に可笑しくて、伊織は少しだけ笑った。

「煙もない」

「じゃあ今日は、少しは勝ったってことだ」

 新兵衛はそう言って、先に境内へ入っていく。

 こういう男が、いつでも物事を一番簡単な形に戻す。

 それが伊織にはありがたかった。

 寺の中庭では、志乃が干していた布を取り込んでいた。こちらに気づくと、すぐに顔を明るくする。

「兄さま、おかえりなさい」

「ああ」

「今度は朝餉にも昼餉にも間に合いませんでしたね」

 咎めるようでいて、どこか安堵した調子だった。

 戻ったことそのものが、志乃には十分なのだろう。

 母は縁側に座って糸を巻いていた。伊織と目が合うと、手は止めずに言う。

「無事かい」

「無事だ」

「ならいい」

 やはりそれだけだった。

 だが、その“ならいい”にどれほど救われるかを、母は知らぬかもしれぬ。

 あるいは知っていて、あえてそれだけしか言わぬのかもしれぬ。

 お澪は、今日は囲炉裏のそばではなく、庭先の小机に向かっていた。紙を広げ、何かを書き写している。顔色はまだ白いが、目の澄み方は前よりしっかりしてきた。

「何を書いている」

 伊織が声をかけると、お澪は少し驚いたように顔を上げた。

「帳面の癖を、忘れないうちに写していました」

「癖?」

「榎本さんの字、秋庭さんの字、北蔵の控えの書き方、白紙の折り方……そういうものです」

 伊織はしばらく黙って、お澪の前の紙を見た。

 そこには、文字そのものではなく、文字の“癖”が並んでいた。

 はねの長さ。

 払いの角度。

 印の押し方の深さ。

 紙の折り筋の位置。

 これは剣術の型に似ている。

 人は癖で自分を残す。

 隠そうとしても、そこに出る。

「役に立つかもしれません」

 お澪が静かに言う。

「立つ」

 伊織は即座に答えた。

「これは、大きい」

 お澪は少しだけ目を伏せ、それから小さく頷いた。

 傷を負った者が、傷の場所から別の役目を見つける。

 それは、いいことなのだろうか。

 伊織にはまだ分からぬ。

 だが少なくとも、お澪がただ傷としてそこに留まらずに済むのなら、それでいいと思った。


 夕方、老僧が伊織を本堂の裏へ呼んだ。

 そこは寺の中でも一番風の通る場所で、竹の葉擦れが絶えず鳴っている。声を潜めるのに向いた場所でもある。

「主水は、何と言った」

 老僧が問う。

 伊織は、沼田とのやりとりをできるだけ簡潔に話した。正しい文を正しい時に通したいという理、白紙に最初の一行を書く誘惑、そして主水が言った“責を自分で背負う”という境のこと。

 老僧は目を閉じて聞いていたが、話が終わると小さく息を吐いた。

「なるほどな」

「何がです」

「火を持たぬ敵は、ついに自分を正義と思い始めた」

 伊織は黙った。

 まさにそうだと思った。

 土井主計は腹のためだった。

 神谷内膳は藩のためだった。

 榎本は今日の飯のためだった。

 秋庭は正しい文を早く通すためだった。

 沼田は乱れを減らすためだった。

 皆、何かのためだ。

 己が悪であると知りながら動く者より、何かを守るつもりで歪む者の方が、もしかすると深いのかもしれぬ。

「伊織」

 老僧が目を開ける。

「お前は、どこで止まる」

 突然の問いだった。

 しかし今の伊織には、その問いの重さが分かる。

 どこで止まるか。

 主水のように、止めるべき文を止める側へ行くのか。

 沼田のように、流れを整えると称して白紙へ手を入れるのか。

 その境は、一歩違えば誰にでも曖昧になる。

「まだ分かりません」

 伊織は正直に答えた。

「だが、自分が“流れのせいだ”と思い始めたら、そこで一度止まるべきだと思います」

 老僧は、口元だけで笑った。

「主水と同じことを言うようになったな」

「そうでしょうか」

「そうだ」

 老僧は竹の先を顎で示した。

「だが、それでよい。流れに責を預けるようになれば、人は名を捨てる。名を捨てれば、黒い桐になる」

 伊織は、その言葉を静かに受けた。

 名を捨てる。

 役だけになる。

 今までのすべてが、そこへ集約される気がした。


 その夜、囲炉裏端には久しぶりに少し長い時間、人が揃った。

 母が煮物を出し、志乃が汁をよそい、お澪が紙を片づけ、新兵衛が当然のように真ん中へ座る。老僧まで、いつもより少し近いところへ来ていた。

「今日は静かですね」

 志乃が言う。

「静かな日は、嫌いではないです」

「嫌いじゃねぇどころか、大好きだ」

 新兵衛が言う。

「毎日こうなら、俺だってもっと真人間になれる」

 母がすかさず言う。

「なれないよ」

 皆が少しだけ笑った。

 笑いは小さい。

 だが小さい笑いほど、よく沁みる。

 伊織は、その輪の中に座っている自分を、少しだけ不思議に感じた。

 昼は城で白紙と判の流れを読み、夜はこうして煮物の湯気の中にいる。

 どちらが本当の自分なのかではない。

 どちらも自分なのだろう。

 そうでなければ、きっと続かない。

「兄さま」

 志乃が言った。

「明日は、またお城ですか」

「おそらくな」

「じゃあ、その前に」

 志乃は少しだけ考え、それから笑った。

「朝ご飯はちゃんと食べてください」

 伊織は思わず笑った。

「分かった」

「約束ですよ」

「ああ」

 そんな約束が、いまは妙に大事に思えた。

 朝飯を食う。

 戻れるように行く。

 それだけのことが、人を役から引き戻す。

 お澪が、ふと真顔で言った。

「沼田さんは、どうなるのでしょう」

 囲炉裏の火が小さく鳴る。

 伊織はすぐには答えなかった。

 主水は、表へはまだ出すなと言った。

 つまり、沼田をただの罪人として斬って終える気ではない。

 だが放っておくとも思えぬ。

 たぶん主水は、沼田を“鏡”として使うつもりなのだろう。

 どこまでが止めるべき文で、どこからが白紙を濁す手なのか。

 その境を測るために。

「まだ決まらぬ」

 伊織はようやく言った。

「だが、簡単には終わらぬだろう」

 新兵衛が鼻を鳴らした。

「簡単に終わることなんざ、最初から一つもなかったがな」

 まったくその通りだった。

 波瀾万丈という言葉が、もう大きな騒ぎだけを指さないことを、伊織は知っている。

 小さな選び。

 小さな嘘。

 小さな今日の都合。

 そういうものが積もり積もって、大きな嵐になる。

 だから、自分の役目もまた、小さなところを見ることなのだろう。


 その夜更け、皆が寝静まった後、伊織は囲炉裏の残り火の前で一人、秋庭の顔を思い出していた。

 白紙を前にした若い目。

 まだ戻れる者の目。

 次に思い出したのは、沼田宗十郎の顔だった。

 理で正しさを整えようとし、どこかで一線を越えた男。

 戻れるのか、それとももう遅いのか。

 そして最後に、主水の顔。

 あの男は、自分がどこで止まっているか、常に見張っているのだろう。

 だからこそ、白紙を扱ってなお、まだ黒い桐にはなっていない。

 伊織は、火の赤を見つめた。

 赤い。

 小さい。

 だが、消えていない。

 波瀾万丈の物語は、次の火を待っているわけではない。

 むしろ、火がつく前の小さな熱を見つけることが、これからの戦いなのだ。

 そしてその戦いは、剣より長い。

 帳面より長い。

 もしかすると、一生続くのかもしれない。

 それでも伊織は、目を逸らさなかった。

 囲炉裏の残り火のように、小さくても消えぬものを守るために。

(第四十八章につづく)

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