――第四十六章 沼田宗十郎の朝――
朝は、夜の嘘を薄める。
だが薄めるだけで、消しはしない。伊織は城門をくぐりながら、そう思っていた。夜のうちに聞いた名――沼田宗十郎。検印方。白紙に最初の一行を通す手。秋庭のような若い書役ではない。もっと古く、もっと城の理に馴染んだ手だ。そういう者は、火も薬も使わぬ。ただ時と順をずらすだけで、人を追い込み、世を静かに歪める。
それがいちばん見えにくい。
だからこそ、いちばん深い。
主水の控えの間へ通されると、部屋にはすでに秋庭がいた。昨夜と同じく縄はかけられていない。ただ、部屋の隅に座し、目を伏せている。逃げる気力も、言い逃れる気力も、いまは薄れているように見えた。けれどそれは折れたということではない。ただ、紙の上で滑っていた足が、ようやく畳に着いたに過ぎぬのだろう。
主水は文を広げながら言った。
「沼田はじきに来る」
伊織は一礼し、定められた位置に座った。
「主馬殿には」
「まだ知らせぬ」
主水は顔も上げずに言った。
「主馬が悪いのではない。だが主馬の周りにいる手が、どこまで沼田の癖に染まっているか分からぬ。癖というものは、悪意より厄介だ。知らぬうちに真似る」
伊織は黙って頷いた。
榎本清十郎も、秋庭も、最初から大きな悪を抱いていたわけではない。
ただ“こうすると上手く回る”という癖を真似た。
その癖が、やがて帳合の理にまで育つ。
やがて襖の向こうで足音が止まった。
「沼田宗十郎にございます」
「入れ」
襖が開き、一人の男が入ってきた。
四十代の半ばほど。背は高くなく、顔立ちも薄い。だが衣の整え方に隙がない。髪も、裃の襟も、指先の爪も、すべてきちんとしている。こういう男は、自分の乱れを人に見せぬ。見せぬからこそ、他人の乱れも嫌う。
「お呼びとのことにございますが」
沼田は主水へ頭を下げ、それから部屋の空気を測るように一瞬だけ目を動かした。
秋庭を見た。
伊織を見た。
その目の動きは、驚きよりも“計算”に近かった。
つまり、この男は完全な不意打ちにはなっていない。
いつかこういう日が来ることを、どこかで読んでいたのだ。
「座れ」
主水が言う。
沼田は静かに座した。背筋は崩れぬ。だが膝の置き方が少しだけ硬い。緊張ではない。体をすぐ動かせるよう、無意識に構えている。逃げるためではなく、言葉の間合いを取るための構えだ。
「秋庭を知っているな」
主水が、前置きなく言った。
沼田は一度だけ秋庭へ目をやり、すぐに戻した。
「はい。書役にございます」
「ただの書役か」
「それ以上でも以下でも」
主水の口元が、ほんの少しだけ冷えた。
「白紙を流していた」
沼田は眉一つ動かさなかった。
「意味が分かりませぬ」
「分からせてやろうか」
主水が顎を引くと、伊織は懐から昨夜押さえた白紙の束と判の木箱を出し、畳の上へ置いた。秋庭の肩がわずかに震える。沼田は、その箱を見た瞬間だけ、呼吸が半拍止まった。
伊織は見逃さない。
「これは神田西口の茶屋の裏座敷で押さえたものだ」
主水が言う。
「秋庭と、城中の使番、それに町人の手が揃っていた。……まだ意味が分からぬか」
沼田は数息黙っていたが、やがて静かに言った。
「秋庭」
名を呼ばれた若い書役は、ゆっくり顔を上げた。
「沼田殿」
「お前が喋ったのか」
その問いに、責めは薄い。驚きも少ない。
ただ、“どこまで喋ったか”を量る声だった。
秋庭は唇を噛み、やがて言った。
「白紙は、もう白紙ではありません」
沼田の目が、初めて少しだけ細くなった。
「……そうか」
それだけだった。
怒りもしない。
叱りもしない。
そこに伊織は、むしろ底知れぬものを感じた。
この男は、感情で人を動かしていない。
理でしか人を見ていない。
それが怖い。
「沼田宗十郎」
伊織が口を開いた。
「お前は何をしていた」
沼田は伊織を見た。
「何を、と申されても困る」
「正しい文を、正しい時に通すことを望んでいた」
伊織は秋庭の言葉をそのまま返した。
「そのために、どの文を止め、どの白紙を流し、どの判を借りた」
沼田は、そこで初めてほんの僅かに笑った。
「榊原殿。あなたは帳面の読み方が早い」
「答えろ」
「答えましょう」
沼田はあまりにも素直に言った。
その素直さが、逆に不気味だった。
「私は、文を整えていただけです」
「整える?」
伊織の声が低くなる。
「そうです。世には、早すぎる文がございます。遅すぎる文もございます。本来は一月寝かせるべきところを明日出そうとする者もいれば、今すぐ出すべきものを十日も留める者もいる。そういう乱れを整えるのが、検印方の役目です」
主水が冷たく言う。
「役目の範囲を越えて、な」
沼田は、主水に向き直った。
「越えておりませぬ。私はただ、正しい順に並べたまで」
「その“正しい順”を、誰が決める」
主水の問いに、沼田は少しだけ間を置いた。
「流れでございます」
伊織は胸の奥で小さく息を吐いた。
またそれだ。
流れ。
役。
腹。
皆、最後はその言葉に戻る。
自分の判断ではない、流れが決めたのだという顔で。
「お前の流れは、誰の得になる」
伊織が問う。
「得、とは」
「榎本は、今日の藩の飯を守るために帳面を歪めた」
伊織は言った。
「秋庭は、正しい文を早く通したいと思って白紙に手を出した。土井や内膳は、藩や幕府を守ると言いながら人を売った。……お前は、何を守る」
沼田は黙った。
その沈黙は、計算ではなかった。
少なくとも今この場では、初めて答えを探す沈黙だった。
やがて、静かに言う。
「……乱れぬことです」
「何が」
「城中が、です」
主水の目が冷える。
沼田は続けた。
「城中は、ただ正しいだけでは回りません。主水殿もご存じのはずです。正しい文を正しい時にそのまま通せば、外が裂けることがある。外が裂ければ、中へ響く。中へ響けば、また別の文を止めねばならぬ。ならば最初から、裂けぬように順を変える。それだけです」
その言葉は、主水を真っ直ぐに射抜いた。
沼田は主水を責めているのではない。
同じ理を共有しているはずだと、暗に言っているのだ。
そこが、この男の怖いところだった。
主水は少しも表情を変えずに言った。
「お前は、いつから私の心を読めるようになった」
沼田は、そこで初めて口を閉ざした。
主水の声は低い。
だが底に刃がある。
伊織は、その刃が主水自身にも向いていることを感じた。
主水もまた、“乱れぬこと”のために文を止めたことがあるのだろう。
だからこそ、沼田の理屈は危うい。
似ているからだ。
似ているが、一線を越えている。
「違いを申せ」
主水が静かに言う。
「お前と私の違いを」
沼田は、しばらく黙り、それからようやく頭を下げた。
「……私は、外で帳面を継ぎました」
「なぜだ」
「中だけでは追いつかなかったからです」
沼田の声に、初めてわずかな熱が混じった。
「土井が倒れ、神谷が崩れ、志摩屋が塞がれれば、外の乱れがそのまま城中へ返ってきます。米も、薬も、文も止まる。止まれば、また別のところで血が出る。……それが見えていた」
「だから白紙を流したか」
「はい」
沼田は答えた。
「少し手を入れれば済むと思った」
「少し、か」
伊織が言う。
「人は皆そう言う。少しだけ。今日だけ。ここだけ。――その少しが、どれだけ人を削るか知っているのか」
沼田は、初めて伊織へ真正面から向き直った。
「知っております」
「ならなぜ」
「知っていても、やるしかない時がございます」
その一言に、部屋の空気が重くなった。
伊織は、返す言葉を一瞬失った。
なぜなら、その理屈は、どこかで自分の胸にも触れているからだ。
火を止めるために嘘をつく。
誰かを守るために誰かを囮にする。
帳面を守るために人を先に逃がさぬ。
そういう選びを、自分もしてきた。
土井や沼田と同じではない。
だが、まったく別とも言い切れぬ。
主水が、その沈黙を切った。
「沼田宗十郎」
静かな声だった。
「お前の罪は、白紙に何かを書いたことではない。自分の手で書いたものを、“流れが書いた”と思い込んだことだ」
沼田の肩が、初めてはっきりと揺れた。
「私が……」
「そうだ」
主水は続けた。
「乱れを止めるために手を入れることはある。だがその時、手を入れた者は、その責を自分で背負わねばならぬ。お前は、流れに責を預けた。だから白紙が濁った」
秋庭が、横で小さく息を呑んだ。
伊織もまた、その言葉を胸に刻んだ。
責を自分で背負う。
それが一線なのだろう。
流れのせいにした時、人は帳合へ堕ちる。
沼田は長く黙っていた。
やがて、絞るように言った。
「……その通りかもしれませぬ」
主水は、しばらく沼田を見つめ、それから岡野へ合図した。
「沼田宗十郎は預かる。秋庭もだ。だが二人とも、表へはまだ出すな」
岡野が頭を下げる。
「榊原」
主水が呼ぶ。
「はい」
「おぬしはこの場を見た。今の言葉も聞いた」
「はい」
「忘れるな」
「……忘れません」
主水は頷いた。
「ならばよい」
城を出たとき、空はすでに昼の色へ変わっていた。
新兵衛は門の外で待っていた。岡野に追い出されたらしい。
「どうだった」
伊織はすぐには答えなかった。
沼田の言葉。
主水の返し。
その両方が胸の中でまだ鳴っている。
「沼田は、火を持たぬ敵だった」
ようやくそう言うと、新兵衛は首を傾げた。
「で?」
「火を持たぬからこそ、もっと危ない」
新兵衛は苦笑した。
「お前の話、だんだん坊主みてぇになってきたな」
伊織も少しだけ笑った。
「そうかもしれぬ」
「で、終わったのか」
新兵衛の問いに、伊織は空を見上げた。
高い空。
雲は薄い。
だが風がある。
風がある限り、紙は飛ぶ。
「……一つ、止めた」
伊織は言った。
「だが白紙はまだある」
新兵衛は大きく息を吐いた。
「まぁ、そうだろうな」
二人は寺へ向かって歩き出した。
戻る場所がある。
それだけで、人はまだ人の側にいられる。
主水も、主馬も、半十郎も、老僧も、皆それぞれの戻る場所を持っているのかもしれぬ。
それがある限り、帳面の理に呑まれずに済むのだろう。
波瀾万丈の物語は、まだ終わらない。
だがその終わらなさに、伊織は少しずつ耐え方を覚え始めていた。
(第四十七章につづく)

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