山本周五郎を模倣し、江戸時代の武士の姿を描いた完全オリジナル小説『落日の士(サムライ)』第四十五章

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――第四十五章 白紙の代償――

 秋庭を縛って茶屋を出たとき、神田の夜気は思いのほか冷たかった。

 火を見ぬまま終わった夜は、逆に心へ冷えを残す。火があれば、人は「ここが戦だった」と知る。だが白紙と判だけの戦は、どこにも焼け跡を残さぬ。その代わり、胸の奥へ静かな傷を残す。

 伊織は、縄をかけられた秋庭の背を見ながら歩いた。

 秋庭は抵抗しなかった。年配の侍と町人風の男は、引き立てられる道すがら何度も悪態をつき、あるいは沈黙に閉じこもったが、秋庭だけは妙に静かだった。静かすぎるのが、かえって痛々しい。役に酔いかけ、白紙に魅入られ、それでもまだ完全には向こうへ渡り切っていない顔だった。

 新兵衛が、そんな秋庭の横顔を見て小さく言った。

「こいつぁ、土井や内膳とは違うな」

 伊織は頷いた。

「違う」

「違うってぇことは、厄介ってことだ」

 新兵衛は鼻を鳴らした。

「大悪党の方が話は早ぇ。斬るか縛るかで済む。だが半端に迷ってる奴は、縛っても頭の中でまだ動く」

 その言葉は、伊織の胸にも重く落ちた。

 秋庭を今夜押さえたことで、一つの流れは止まった。

 だが白紙の誘惑そのものは、止まっていない。

 “自分ならもっと上手く書ける”――その思いは、誰の中にも生まれうる。

 だからこそ怖いのだ。

 岡野が先を歩きながら振り返った。

「主馬殿の控えへ入れますか」

「いや」

 伊織が答える前に、秋庭が口を開いた。

「主馬殿のところへは行けません」

 皆が足を止めた。

 岡野の目が細くなる。

「なぜだ」

 秋庭は、初めて自分から顔を上げた。

「主馬殿の控えに入る文の流れを、見ていた者がいます」

 伊織の胸が静かに鳴る。

「誰だ」

 秋庭はすぐには答えなかった。答えたくないのではない。どこまで言えば誰が死ぬかを量っている顔だった。

「……名は知りません」

 やがてそう言った。

「だが、いつも文の封を確かめる手がありました。表向きは検印役。けれど、本当は“白紙”の動きを見ていた」

 岡野が低く問う。

「それが今夜の侍か」

「違います」

 秋庭は首を振った。

「今夜の侍は外の継ぎ目です。城の内には、もっと静かな手がある」

 伊織は黙って秋庭を見た。

 秋庭は、まだ全部は言っていない。

 だが完全に黙るつもりでもない。

 つまり、今夜の一件で、秋庭の中でも何かが崩れたのだろう。

「どこへ行けば安全だ」

 伊織が問う。

 秋庭は少し考え、低く言った。

「寺へ」

 新兵衛が思わず「は?」と声を漏らした。

「てめぇ、何言ってやがる」

「城にも藩邸にも、もう白紙の手が伸びています」

 秋庭は静かに言った。

「だが寺は違う。あそこは戻る場所だからです」

 その言葉に、新兵衛は口をつぐんだ。

 伊織も、胸の奥で何かが静かに震えるのを感じた。

 寺は確かに戻る場所だ。

 だが同時に、戻る場所を闇の口へする危険もある。

 あそこへ人を連れ込みすぎれば、寺そのものが“継ぎ目”になる。

 伊織は首を振った。

「駄目だ」

 秋庭が目を上げる。

「なぜ」

「あそこは、人の顔に戻る場所だ。帳面の傷を持ち込む場所ではない」

 秋庭は、それを聞いてほんの僅かに目を伏せた。

 拒絶されたというより、その意味を理解した顔だった。

「では……主水殿へ」

 その名が出たとき、岡野も新兵衛も黙った。

 主水。

 主馬よりさらに奥。

 そこへ直接持ち込むということは、もう“城中の白紙”そのものへ手を入れるということだ。

 伊織は、少しだけ考え、それから言った。

「そうする」


 夜半、伊織は秋庭一人だけを連れ、主水のもとへ向かった。

 新兵衛は、年配の侍と町人風の男を岡野へ引き渡している。あの二人は表の継ぎ目だ。だが秋庭は違う。秋庭は白紙の内側を知る。だから主馬を経ず、主水へ直接持っていくしかなかった。

 城下はもう静まり返っている。

 昼の賑わいが嘘のように、通りは広く、足音だけが残る。秋庭は縄をかけられたまま黙って歩いていた。逃げようとはしない。今の秋庭は、逃げたいのではなく、どこまで落ちたかを見届けたいのかもしれなかった。

「榊原殿」

 歩きながら、秋庭がぽつりと言った。

「何だ」

「私は……戻れますか」

 伊織はすぐには答えなかった。

 戻れるかどうかなど、誰にも分からぬ。

 土井も内膳も、どこかで戻れたかもしれない。

 だが戻らなかった。

 秋庭はその分かれ目に、まだ立っている。

「戻るかどうかは、お前が決める」

 伊織はやがてそう言った。

「だが、戻る場所を自分で焼かなければ、道はある」

 秋庭はそれ以上何も言わなかった。

 ただ、歩幅がほんの少しだけ揃った。


 主水は起きていた。

 この男はいつ眠るのだろう、と伊織は時折思う。

 だが眠らぬように見える者ほど、どこかで深く目を閉じているのかもしれない。

 それは他人には分からぬ。

 秋庭の顔を見ると、主水の目が一瞬だけ鋭くなった。

「なるほど」

 それだけ言って、主水は秋庭を座らせた。

「おぬしが秋庭か」

「……はい」

「書役だな」

「はい」

「いつから白紙を流していた」

 秋庭はしばらく黙り、やがて言った。

「最初は、主馬殿の控えに入る文の順を整えるだけでした」

 主水は何も言わない。続きを待つ。

「だが……ある時、差し戻された文がありました。内容は正しい。けれど“いま出すべきではない”と止められた」

 秋庭の声はかすかに震えていた。

「正しい文が、ただ時期が悪いというだけで戻される。私はそれが、どうにも気持ち悪かったのです」

 伊織は静かに聞いていた。

 主水も、主馬も、帳面の理で物を止めることがある。

 それは必要なことだ。

 だがその“必要”を、秋庭のような若い目は「濁り」と見てしまったのだろう。

「そこへ声がかかった」

 主水が言う。

「はい」

 秋庭は頷いた。

「“白紙は早く出せば世を救うこともある”と」

 主水の顔色は変わらない。

 だが部屋の空気が少しだけ重くなる。

「誰に」

 秋庭は唇を噛んだ。

 伊織は、その一瞬で分かった。

 ここが本当の境だ。

 名を出せば、秋庭は完全に向こうを切る。

 出さねば、まだどこかで向こうへ逃げる。

「……城中の者です」

 秋庭が絞るように言う。

「役目は、検印方。だが、本来の持ち場より広く紙に触れる者でした」

「名だ」

 主水が静かに言う。

 秋庭の肩が震えた。

 そして、ようやく言った。

「……沼田宗十郎」

 伊織は、その名に覚えがなかった。

 だが主水の目が、ほんの僅かに動いた。

 知っているのだ。

「やはり、そこか」

 主水が低く呟く。

「ご存じなのですか」

 伊織が問うと、主水は首を振った。

「名までは確信がなかった。だが“白紙が遅すぎる”と不満を言う手が、城中に一つあるとは見ていた」

 主水は秋庭へ視線を戻した。

「沼田宗十郎は、何を望んでいた」

「乱れぬことを」

 秋庭は答えた。

「正しい文が、正しい時に、正しく通ることを」

 主水がそこで小さく笑った。

 初めて、人間らしい笑いだった。

 だがその笑いは冷えている。

「“正しすぎる者”は、どこにでもいる」

 内膳の時にも聞いた言葉だった。

 ただし今度は意味が違う。

 正しい文を早く通す。

 そのこと自体は悪ではない。

 だが、“正しさ”だけで流れを押し通せば、人の暮らしが裂けることもある。

 そこに帳面の濁りが入り込み、さらに別の白紙が生まれる。

 主水は、しばらく考えてから伊織へ言った。

「榊原」

「はい」

「この件は、主馬にもまだ話すな」

 伊織は頷いた。

 驚きはない。

 主馬が悪いのではない。

 だが主馬に近い手ほど、秋庭のような白紙へ触れやすい。

 主水は、まず沼田宗十郎を直接見たいのだろう。

「沼田は明朝、私のもとへ呼ぶ」

 主水は続けた。

「おぬしは同席せよ」

「私が」

「顔を見るためだ。おぬしは、もう流れの顔を見分ける目を持ち始めている」

 その言葉に、伊織は胸のどこかが少しだけ重くなるのを感じた。

 目を持つということは、見たくないものまで見えるということだ。

 だが、そこから退くわけにはいかない。

「承知しました」

 主水は秋庭へ目を向けた。

「おぬしは今夜、ここに置く。……白紙には、まだ書かせぬ」

 秋庭は、深く頭を下げた。

 その背は、どこか折れたようにも見えた。

 だが折れたのではなく、ようやく荷を降ろしたのかもしれぬ。


 城を出る頃には、空が白み始めていた。

 夜が終わる。

 また一日が始まる。

 その一日の中で、どれだけの紙が動き、どれだけの言葉が止まり、どれだけの帳面が誰にも見られぬまま綴じられるのか。

 伊織は、門前で一度だけ立ち止まった。

 主水の言葉が胸に残っている。

 沼田宗十郎。

 検印方。

 “正しい文が正しい時に通ることを望む者”。

 それは一見すると、悪には見えぬ。

 だからこそ危うい。

 白紙の敵とは、そういうものだ。

 悪の顔をしていない。

 むしろ正しい顔をしている。

 その正しさが、帳面の濁りと結びついた時にだけ、世を静かに歪める。

 伊織は、夜明けの空を見上げた。

 波瀾万丈の物語は、まだ終わらない。

 だが火の匂いではなく、紙の匂いのする朝を迎えられるようになったのは、わずかな前進なのかもしれなかった。

 それでも、見えぬ刃はなお続く。

 次は沼田宗十郎。

 白紙をめぐる、新たな戦いだ。

(第四十六章につづく)

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