山本周五郎を模倣し、江戸時代の武士の姿を描いた完全オリジナル小説『落日の士(サムライ)』第四十四章

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――第四十四章 西口の茶屋――

 城の西口に近い茶屋は、昼と夜で客の質が変わる。

 昼は馬上の供や中間が足を休め、荷を担ぐ者が一服し、道を急ぐ町人が団子を頬張る。だが夜になると、そこへ別の客が混じる。声を潜める者、顔を伏せる者、茶を飲んでも味を見ぬ者――つまり、用向きが茶ではない客だ。

 伊織は、暮れ残る空の色が完全に消える前に、その茶屋の向かいの材木置き場へ身を潜めた。

 西口の外れは、神田とも城下ともつかぬ妙な空気がある。侍の匂いと町人の匂いが、どちらも薄く混じる。だからこそ、白紙も判も流れやすい。人目があるようで、誰も他人の手元を見ぬ場所だった。

 新兵衛は、茶屋の裏手へ回っている。

 岡野は、少し離れた辻に人を伏せた。

 あくまで目立たず、だが逃げ道だけは塞ぐ形だ。

 火は使わぬ。

 火を見せれば、紙は燃える。

 今夜欲しいのは灰ではなく、白紙そのものだった。

 茶屋の灯は二つ。

 表に一つ。

 奥の座敷に一つ。

 灯の色で、人のいる場所が分かる。

 表は普通の客。

 奥は、話をする客だ。

 伊織は、通りを行く客の顔を一人ずつ見ていた。武士、町人、奉公人、浪人風の男。皆、どこにでもいる顔だ。だが“どこにでもいる顔”がいちばん厄介なのは、もう嫌というほど学んでいる。

 しばらくして、一人の若い男が来た。

 小柄で、痩せている。

 袴はきちんとしているが、上着は地味だ。

 顔立ちも、群れに混じればすぐ消える。

 だがその歩き方に、伊織は見覚えがあった。

 秋庭。

 主馬の控えで文を運んでいた若い書役。

 白紙を木箱へ揃えていた手。

 城の中の顔をしながら、城の外の流れを整える男。

 秋庭は表の客のような顔で暖簾をくぐり、茶屋の奥へ消えた。

 伊織の胸が、静かに鳴る。

 あの男は、どこまで知っているのか。

 ただの手なのか。

 それとも、もう“役”の方へ寄りかかり始めているのか。

 しばらくして、別の男が来た。

 町人風だが、足が軽い。

 荷を運ぶ手ではない。

 文を運ぶ手だ。

 懐をやけに気にしている。

 男もまた、奥へ入った。

 そして三人目。

 年配の侍。

 裃ではない。

 だが裃を脱いでも武士だと分かる背筋。

 しかも、顔を見た瞬間、伊織の心が冷えた。

 主水の控えに出入りしていた使番の一人だった。

 主馬の配下ではない。

 だが城中の人間だ。

(やはり……)

 外と内は、ここで繋がっている。

 しかもかなり近いところまで。

 伊織は、材木の陰から離れ、茶屋の裏へ回った。

 裏手には、厨房へ通じる細い戸がある。

 新兵衛が、すでにその戸の脇で待っていた。

「秋庭、入ったな」

 新兵衛が囁く。

「ああ」

「あと二人。ひとりは城の使番崩れだ」

「見た」

「やるか」

 新兵衛の目は笑っていた。

 だが今夜の伊織は、剣の間合いより、言葉の間合いの方を先に測っていた。

「まだだ」

「またそれか」

「白紙と判が揃うまで待つ」

 新兵衛は舌打ちしたが、異を唱えなかった。

 もうこの数日で、待つ意味を覚えたのだろう。

 待って、口が開くところを掴む。

 それがいま必要な戦い方だと。

 厨房には、茶屋の婆と小僧がいるだけだった。

 岡野の手がすでに回っているらしい。

 婆は無駄口を利かず、ただ一度だけ奥の座敷へ顎をしゃくった。

 金か、脅しか、あるいは主馬の名か。

 理由はどうあれ、今夜こちらの口は閉じている。

 障子の向こうから、声が漏れる。

「……榎本はもう切られた」

 秋庭の声だった。

「切られた、とは」

 年配の侍が問う。

「表へ出されたという意味です」

 秋庭は淡々と言う。

「帳面ごと。……そうなれば、北筋はしばらく使えません」

「なら西だ」

 もう一人の町人風の男が言う。

「紙に載せて、西へ米を流す」

「米だけでは足りぬ」

 年配の侍の声が低くなる。

「判がいる。判がなければ紙はただの紙だ」

 そこで、かすかな木箱の音がした。

 蓋を開ける音。

 判が出る。

 伊織は新兵衛へ目をやり、ほんの僅かに頷いた。

 今だ。

 新兵衛が障子を蹴った。

 乾いた音。

 灯が揺れる。

 座敷の三人が一斉にこちらを向いた。

「動くな」

 伊織は低く言った。

 刀は抜かない。

 抜けば、その瞬間に“斬り合い”になる。

 今夜欲しいのは、血ではなく、箱だ。

 秋庭の顔が一瞬だけ白くなる。

 だがすぐに持ち直した。

 主馬の控えで鍛えられた顔だろう。

 若いくせに、怯えを引っ込めるのが早い。

「榊原殿」

 秋庭が言った。

「ずいぶん荒い入り方ですね」

「お前も、ずいぶん静かな流し方をしていた」

 伊織は言い、机の上を見た。

 白紙の束。

 小さな判が三つ。

 そのうち一つは、城中の控え文で使う印。

 もう一つは、米問屋の預かり印。

 そして最後の一つ――見慣れぬが、藩の仮御用に使える程度の細い判。

 小さい本物を繋げて、大きな嘘を作る。

 まさにそういう場だった。

 年配の侍が、静かに言った。

「主馬殿の手か」

「そう思うか」

 伊織が返す。

「違うのか」

「違わぬかもしれぬ」

 伊織はわざと曖昧に言った。

 ここで主馬の名を軽々しく出せば、相手は逆にそこへ火を向ける。

 白紙を扱う敵は、疑いを燃え草にする。

 秋庭が、そこでほんの少しだけ笑った。

「なるほど。そういうところだけは、主馬殿に似てきました」

 その言い方に、新兵衛が顔をしかめた。

「てめぇ、随分と気楽だな」

「気楽ではありません」

 秋庭は静かに言う。

「ただ、もう隠せぬと分かっているだけです」

「なら口を開け」

 伊織が言う。

「お前は誰の指で動いている」

 秋庭はすぐには答えなかった。

 代わりに、机の上の白紙へ目を落とした。

 白紙を見る目が、妙に深い。

 ただの書役が紙を見る目ではない。

「榊原殿」

 やがて秋庭が言った。

「お考えになったことはありませんか。帳面を読む者は、いつか帳面を書く側に回る、と」

 伊織の胸の奥で、何かがざらりと鳴った。

 主水の問い。

 半十郎の言葉。

 老僧の忠告。

 新兵衛の軽口。

 それらが一気に蘇る。

「何が言いたい」

 伊織が低く問うと、秋庭は白紙を一枚持ち上げた。

「これは、まだ何も書かれていません。だから、どちらにもなれる」

「だから何だ」

「誰がこの白紙に最初の一行を書くかで、流れは変わるのです」

 秋庭はそう言い、伊織を真っ直ぐ見た。

「あなたは今、主水殿の手として動いている。だが主水殿もまた、帳面を書く側です。違いますか」

 座敷の空気が、少しだけ冷えた。

 年配の侍も、町人風の男も、黙って伊織を見ている。

 試しているのだ。

 主水を疑わせるためではない。

 伊織が“どちら側に倒れるか”を見ている。

 帳面を読む者は、いずれ帳面を書く側へ来る。

 秋庭はそう言った。

 つまり、こちらへ来いと誘っているのだ。

「お前は、そう思ってこちらへ来たのか」

 伊織が問う。

 秋庭は少しだけ笑った。

「最初は違いました」

「今は」

「分かりません」

 その答えは、妙に正直だった。

 だからこそ嫌だった。

 この男は、土井のように最初から冷たかったわけではない。

 榎本のように“今日の飯”に押されたのでもない。

 白紙を前にして、自分でどちらを書くか迷った果てに、こちらへ寄りかかり始めている。

 それが、いちばん危うい。

「主水殿も、城も、藩も、皆同じです」

 秋庭は続ける。

「結局は、乱れを嫌う。乱れを嫌えば、綺麗に見せるしかない。綺麗に見せるには、どこかの帳面を少しだけ動かすしかない。――あなたも、もうそれを知っているでしょう」

 伊織は答えなかった。

 答えれば、心のどこかにある迷いまで晒しそうだった。

 綺麗に見せるために、少しだけ動かす。

 その発想は、たしかにもう自分の中にも影を落としている。

 主水が全てを公にするとは限らぬ。

 どこかで止め、どこかで見せぬまま終える判断もあるだろう。

 その時、自分は何を思うのか。

 秋庭は、その影を見抜いている。

 だからこそ、今ここで白紙を差し出してくるのだ。

「俺は」

 伊織はゆっくり言った。

「帳面を書く側には回らぬ」

 秋庭が、わずかに首を傾げる。

「本当に?」

「読む側でいる」

「読んで、切るのですか」

「必要なら切る」

 伊織は一歩進み、秋庭の手から白紙を奪った。

「だが、白紙のままにしておく方がいいものもある」

 秋庭の目が、そこで初めて揺れた。

 若さの揺れ。

 役になりきれていない者の揺れ。

 年配の侍が、静かに口を開く。

「榊原殿。あなたは賢い。だからこそ分かるはずだ。世は、一枚の白紙で動くこともある」

「その白紙が、人を潰すこともある」

 伊織は言った。

「今夜は終わりだ。箱も紙も判も、全部置いていけ」

 町人風の男が動いた。

 机の下から短い刃。

 だが新兵衛の方が速かった。

 蹴りが飛び、男は障子へ叩きつけられる。

 年配の侍も懐へ手を入れる。

 岡野が背後から入り、腕を捻った。

 判が床へ落ちる。

 秋庭だけが動かなかった。

 白紙を失った手を見つめたまま、ただ座っている。

「なぜだ」

 伊織が問う。

「何がです」

「まだ引き返せるのに、なぜこちらへ足をかけた」

 秋庭は、しばらく黙っていた。

「白紙だからです」

 やがてそう答えた。

「何も書かれていない紙を見ると、人は“自分ならもっと上手く書ける”と思ってしまう」

 その一言が、伊織には痛かった。

 自分も、まったく無縁ではない。

 帳面を読むたび、ここをこう直せば、こう流せば、もっと傷が少ないのではと考える。

 それは危うい。

 秋庭は、その危うさに足を取られたのだろう。

「……甘い考えでした」

 秋庭がようやく呟いた。

「書く前に、紙に呑まれました」

 新兵衛が鼻を鳴らす。

「紙に呑まれるとは、難儀な死に方だな」

「まだ死んでいない」

 伊織が言う。

 秋庭は顔を上げた。

「生きていれば、戻れる」

「戻れるでしょうか」

「戻るしかない」

 伊織は白紙の束を机へ置いた。

「お前が本当に何も書いていないなら、まだ白紙だ」

 秋庭の目が、わずかに揺れた。

 その揺れは、これまでとは違った。

 逃げではなく、痛みに近い揺れだった。

 岡野が縄を差し出す。

 年配の侍と町人風の男にはすぐに縄がかけられた。

 だが秋庭の前で、伊織は一瞬手を止めた。

 主水の顔が浮かぶ。

 主馬の沈黙も。

 城の白紙の中で、こういう若い手がどれだけいるのか。

 秋庭一人を縛っても、また別の白紙が現れるかもしれぬ。

 だが今は、この手を止めねばならぬ。

「立て」

 伊織が言う。

 秋庭は静かに立った。

 その顔は、もう誘う顔ではなかった。

 紙の白さに酔いかけた若者の顔が、ようやく人の顔へ戻り始めているように見えた。

 外へ出ると、神田の夜は冷えていた。

 火はない。

 煙もない。

 ただ白紙だけが、月の光に薄く光っていた。

 波瀾万丈の物語は、火を持たぬ敵の奥へ、一歩踏み込んだ。

 だが伊織は知っていた。

 白紙は、何度でも現れる。

 だからこそ、自分もまた白紙を恐れねばならぬのだと。

(第四十五章につづく)

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