――第四十二章 水底の帳――
川へ落ちた影は、音だけを残して消えた。
橋の上に立つ伊織と新兵衛の足元を、水は何事もなかったように流れていく。夜の川は、目で追えぬ。灯りが届かぬところでは、流れの速さも深さも分からぬ。ただ黒い面が、静かに揺れているだけだ。
「潜って逃げたか」
新兵衛が低く言う。
「泳ぎ慣れてる」
「それだけじゃねぇな」
新兵衛は腕を組んだ。
「落ちる場所を決めてた。流れも、上がる場所も、全部頭に入ってる動きだ」
伊織は頷いた。
追われてから飛び込んだのではない。
最初から“そこへ落ちる”ことを前提に、橋へ向かった動きだった。
つまり――
(逃げ道ではなく、通り道)
川そのものが、流れの一部になっている。
帳面の上では見えぬ流れ。
水底の帳。
「戻るぞ」
伊織が言った。
「追わねぇのか」
「水は追えぬ」
伊織は橋から目を離した。
「だが、水へ入る前の流れと、水から上がる先は読める」
新兵衛が、にやりと笑う。
「やっぱり帳面だな」
「帳面だ」
寺へ戻ると、まだ夜は深かった。
だが老僧は起きていた。
囲炉裏の火をかき混ぜながら、伊織を見る。
「水の顔をしているな」
「見えましたか」
「濡れてはいない。だが、水に目を奪われた顔だ」
伊織は、囲炉裏の前に腰を下ろした。
「川へ落ちました」
「落とされたのではないな」
「自らです」
老僧は頷いた。
「ならば追うな」
「はい」
「水は、人を消す。だが同時に、必ずどこかへ運ぶ」
伊織は、その言葉を静かに受けた。
水は止まらぬ。
止まらぬものは、どこかへ行き着く。
ならば、その行き着く先を見ればよい。
「東から西へ回す、と聞きました」
「ならば、西の水だな」
老僧は言った。
「江戸の水は、どこへ流れる」
「日本橋、神田、さらに先へ……」
「そこに、次の口がある」
老僧は火を見つめたまま言った。
「だが忘れるな。水は一つではない」
伊織は顔を上げた。
「どういう意味です」
「表の水と、裏の水がある」
老僧の声は静かだった。
「表の水は、人が見る水。川、井戸、水路。だが裏の水は、人の都合で流れる水だ。金も、文も、噂も、すべて水だ」
伊織は、息を呑んだ。
水とは、流れそのもの。
ならば帳面も水だ。
紙の上を流れる数字も、また水。
「お前が追うべきは、どちらだ」
老僧が問う。
伊織は迷わなかった。
「両方です」
老僧は小さく笑った。
「欲張りだな」
「一つだけでは、また抜けます」
「そうだ」
老僧は頷いた。
「だからこそ、戻る場所が要る」
伊織は、囲炉裏の火を見つめた。
火は流れない。
そこに留まり、形を持つ。
だから人は、火の前で自分を保てるのかもしれぬ。
翌朝、伊織は主馬のもとへ向かった。
夜のうちに書いた控えを持っている。
“深口”の蔵。
“東井”の荷替え。
そして川へ落ちた男の印。
主馬はすでに起きていた。
帳面の前に座り、何も言わずに伊織の紙を受け取る。
一読し、すぐに言った。
「水か」
「はい」
「東から西へ」
「その途中に、“深口”と“東井”があります」
主馬は紙の上に指を走らせた。
「……そして川へ落ちた」
「はい」
「顔は見たか」
「見ました」
「覚えているか」
「忘れません」
主馬は、そこでようやく伊織の顔を見た。
「ならば十分だ」
伊織は、わずかに眉を動かした。
「追わぬのですか」
「追う」
主馬は即答した。
「だが今は追わぬ」
その言葉に、伊織は内心で頷いた。
同じ考えだ。
「流れを変えたばかりだ。今追えば、さらに散る」
主馬は続けた。
「散れば、見えぬ」
「では」
「西を押さえる」
主馬は帳面を閉じた。
「日本橋の米問屋、神田の蔵、そして水路の出入り。すべて一度、静かに見る」
「静かに、ですか」
「騒げば、水は濁る」
主馬は言った。
「濁れば、底が見えぬ」
伊織は、深く頭を下げた。
「承知しました」
「お前は神田へ行け」
主馬が言う。
「新兵衛を連れて」
「はい」
「ただし――」
主馬の声が少しだけ低くなる。
「城の中の水も、忘れるな」
伊織は顔を上げた。
秋庭。
納屋で見た若い書役。
白紙を扱う手。
「……承知しました」
主馬はそれ以上言わなかった。
だがその沈黙が、すべてを語っていた。
神田へ向かう道で、新兵衛が言った。
「顔、戻ったな」
「そうか」
「昨日よりは人間だ」
新兵衛は笑う。
「川見てるときは、魚みてぇな目してたぞ」
伊織は苦笑した。
「魚は流れに逆らえぬ」
「だが人は逆らえる」
新兵衛が言う。
「お前はどっちだ」
伊織は、少し考えた。
「……流れを読む方だ」
「つまんねぇ答えだな」
「だがそれしかない」
新兵衛は肩をすくめた。
「まぁいい。読むなら、最後まで読め」
「ああ」
二人は歩き続けた。
神田の町が見えてくる。
商いの匂い。
紙の匂い。
人の声。
東の流れが、ここでどう形を変えるのか。
水底の帳が、どこへ繋がるのか。
伊織は、静かに目を細めた。
波瀾万丈の物語は、火でも米でもなく、水と紙の間へと潜り込んでいく。
そしてそこには、まだ名を持たぬ敵がいる。
その敵を、見つけねばならぬ。
(第四十三章につづく)

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