――第三十九章 榎本という影――
夜のうちに名が見えた者は、朝まで待つと姿を変える。
伊織は、囲炉裏の残り火がまだ赤く息をしているうちに帳面を閉じた。榎本清十郎――藩の勘定方にいる、いつも帳場の隅で筆を走らせていた男。その名は派手ではない。むしろ地味だ。だが地味な名ほど、世を静かに動かす。
神谷内膳のような大きな悪は、人を震え上がらせる。土井主計のような役人の悪は、人を諦めさせる。だが榎本のような小さな手は、誰にも気づかれぬまま、明日の飯の数を少しずつ削っていく。そういう手こそ、次の土井を育てるのだろう。
外はまだ暗い。だが東の空に、かすかな灰色が滲み始めている。伊織は立ち上がり、帳面束を懐へ収めた。
振り返ると、柱の陰に人影があった。
「起きていたか」
新兵衛だった。腕の包帯を緩く巻き直したまま、壁に寄りかかっている。
「お前の顔見りゃ分かる」
新兵衛は言った。
「次の名が出たんだろ」
「……榎本清十郎」
伊織が答えると、新兵衛は少しだけ眉を寄せた。
「藩邸の勘定方の地味な野郎か」
「知っているのか」
「知ってるってほどじゃねぇが、何度か顔を見た。神谷内膳の後ろで、いつも黙って帳面持ってた」
新兵衛は鼻を鳴らした。
「そういうのがいちばん厄介だ。表へ出る度胸はねぇくせに、裏の数字だけはきっちり合わせやがる」
伊織は頷いた。
まさにそうだと思った。
榎本は内膳ではない。大きく動く男ではない。
だが大きく動く男のために、細い筋を何本も整える男だ。
そういう者が残っている限り、藩の底は腐り続ける。
「今から行く」
伊織が言うと、新兵衛は肩をすくめた。
「言うと思った。で、俺も行く」
「傷は」
「痛ぇよ」
新兵衛は平然と言う。
「だが痛ぇときほど、人はよく目が利く」
伊織は止めなかった。
止めても聞かぬ男だと知っている。
それに、今朝は一人より二人の方がいい。榎本のような男は、逃げる時だけは驚くほど早い。見張る目が一つ増えるだけでも違う。
まだ人通りの少ない朝の道を、二人は藩邸へ急いだ。
寺を出るとき、母は起きていた。台所の水を汲んでいるところだった。何も聞かず、ただ振り向いて言った。
「朝餉までには戻るのかい」
伊織は少しだけ言葉に詰まった。
「……戻れれば戻る」
母は頷いた。
「なら、戻れるように行きなさい」
そう言って、また水桶へ手を戻した。
それだけの言葉が、妙に沁みた。
“気をつけろ”でも、“無理をするな”でもない。
戻れるように行け。
それは、生き方そのものへの言葉だった。
藩邸へ近づくと、門前の空気は昨日までとさらに違っていた。槍の数は少し減り、代わりに出入りを控える侍や下男の顔がこわばっている。大きな膿が破れた後の家中は、誰がどちらへ転ぶか分からぬ不安に満ちる。そういう不安は、叫びよりも静かに広がる。
表から入れば、榎本に気取られる。
だから二人は裏へ回った。
藩邸の裏木戸の近くには、まだ昨夜の騒ぎの名残がある。洗われた血の跡、踏み荒らされた砂、立て直しかけの竹垣。人は元へ戻そうとする。だが一度乱れた場所には、乱れた者の気配が残る。
裏木戸の脇で、岡野が待っていた。
「主馬殿からの知らせです」
小声でそう言い、岡野は二人を物陰へ引き込んだ。
「榎本清十郎は、まだ邸内にいます」
「もう気づかれているか」
伊織が問うと、岡野は首を振る。
「いえ。少なくとも“榎本”個人にはまだ手が回っていない形です。藩主様の容体、神谷内膳の件、薬筋の改めで家中が揺れており、勘定方までは目が届いていない」
「今のうちだな」
新兵衛が言う。
岡野は頷いた。
「ただし、榎本は朝一番で蔵米の控えを持って北蔵へ入ったきりです。出てこぬ」
「北蔵か」
伊織は帳面にあった仮名を思い出した。
“北蔵”。
仮名ではなく、そのまま場所でもあったのだ。
榎本は、まだ自分が仮名の中に隠れているつもりなのだろう。
「案内を」
伊織が言うと、岡野は首を振った。
「案内はできます。だが中へは二人だけで。蔵番がまだどちらに付くか分からぬ」
「二人で十分だ」
新兵衛が歯を見せて笑った。
北蔵は、藩邸の北東の隅にあった。
表向きはただの米蔵だ。土壁が厚く、戸は重く、朝の冷気の中に米の甘い匂いがわずかに漏れている。だが蔵の前に立つと、その甘い匂いの下に、別の匂いがあるのが分かった。墨の匂い。帳場の匂い。蔵というより、小さな勘定所だった。
蔵番は一人、戸口に座っていた。老いた男で、眠そうな顔をしている。だが目だけは起きていた。
「何用で」
蔵番が低く言う。
「勘定の改めだ」
伊織がそう言うと、蔵番の眉がぴくりと動く。
「改めは、昨日済んだはずで」
「昨日済んだのは、土井と内膳までだ」
伊織は言った。
「今日は、その下だ」
蔵番は沈黙した。
その沈黙の中に、ほんの僅かだが、諦めに似たものが混じっていた。
年を取った蔵番というのは、たいてい大事なことを知っている。
知らずに長く務まる場所ではない。
「榎本清十郎は中か」
蔵番は答えず、ただ戸へ手をかけた。
「……朝から一人でおりました」
それだけ言って、戸を開ける。
つまり、敵ではない。少なくとも今は。
蔵の中は薄暗かった。棚に米俵が積まれ、その間に細い机が二つ。机の上には帳面が広げられ、筆と硯が置かれている。奥の小窓から朝の光が細く差し込んでいた。
榎本清十郎は、その机の前に座っていた。
振り向いた顔を見て、伊織はやはりと思った。
地味な男だ。
顔立ちも薄い。
背も高くない。
人混みにいれば、二度目には忘れるような顔。
だがその目だけが、異様に静かだった。
「榊原殿」
榎本は、少しも慌てずに言った。
「お早いことで」
新兵衛が低く笑った。
「待ってたって顔だな」
榎本は肩をすくめた。
「いずれ来られるとは思っておりました」
伊織は机の上の帳面へ目をやった。
数字がびっしり並び、端には米俵の印。
その横に、小さく“空”と記された欄がある。
隠していたつもりなのか、あるいはもう隠す気がないのか。
どちらにせよ、ここで榎本は終わる。
「内膳が捕まった」
伊織が言う。
「土井も死んだ。帳合の蔵も押さえた」
「承知しております」
榎本は平然と答えた。
「なら、お前も終わりだ」
「終わりかどうかは、分かりませぬ」
榎本の声は穏やかだった。
「藩主様はまだお苦しい。家中は揺れている。米は動かさねばならぬ。人は食わせねばならぬ。……そのために、帳面を綺麗に見せる者は要る」
伊織は、胸の奥で静かな怒りが積もるのを感じた。
またその理屈だ。
腹。
飯。
藩を回す。
その言葉で、何でも正当化する。
「お前が空俵を混ぜた」
「混ぜました」
榎本はあっさり認めた。
「抜いた米を、別口で戻した」
「はい」
「どこへ」
榎本は少しだけ目を細めた。
「藩の口が届くところへ」
「曖昧だ」
「曖昧でなければ、続きませぬ」
伊織は、どこかで聞いたようなその言い回しに、思わず息を吐いた。
帳合の理屈が、もうここにまで染みている。
榎本は大きな悪ではない。
だが大きな悪の“言葉”を受け継いでいる。
それが、いちばん怖い。
「お前は、何を守るつもりでこうした」
伊織が問う。
榎本はしばらく黙っていた。
その沈黙は、言い訳を選んでいる沈黙ではなかった。
むしろ、本当に自分の答えを探している沈黙だった。
「……北の蔵米が足りませなんだ」
やがて榎本は言った。
「内膳殿が倒れ、土井殿の流れが止まり、品川口の船が押さえられ、藩邸へ入るはずの米が一時に細った。だが、藩主様が目を開けられようと、家中の口は止まりませぬ。下働きの者も、女中も、馬の口も、皆食わせねばならぬ」
伊織は黙って聞いた。
「だから、市中へ回す分から少しずつ抜きました。市中はすぐには死にませぬ。だが藩邸が止まれば、藩主様の薬も、火消しの銭も、半十郎様の抱える人足の飯も止まる」
新兵衛が吐き捨てるように言った。
「だから庶民の飯を抜いたか」
「庶民の飯は明日でも買えます」
榎本が言う。
「だが藩邸の米は、今日にも尽きる」
伊織の胸がざらついた。
理屈としては通る。
だからこそ厄介だ。
露骨な悪なら斬れる。
だが“今日の飯”を理由に出されると、人はためらう。
そのためらいの隙に、帳面はまた歪む。
「お前は、内膳と同じだな」
伊織が言うと、榎本は少し顔を歪めた。
「違います」
「何が違う」
「私は、藩主様を倒してはおりませぬ。火もつけておりませぬ。人も売っておりませぬ。……ただ、数を動かしただけです」
その一言が、伊織には何より重かった。
ただ数を動かしただけ。
だがその数の向こうに、誰かの飯がある。
誰かの明日がある。
そういう想像を一つずつ薄めていった先に、土井がいて、帳合がいるのだろう。
伊織は机の上の帳面を手に取った。
「これを主馬殿へ出す」
榎本は目を伏せた。
「そうなりましょう」
抵抗しない。逃げようともしない。
榎本は、こうなる日が来ると知っていたのだろう。
だが、それでも帳面を動かした。
今日の飯のために。
その“今日”の積み重ねが、次の歪みを生むと知りながら。
新兵衛が低く言った。
「お前みてぇなのが一番始末に悪ぃ」
榎本は答えなかった。
伊織は、縄をかける前に一つだけ問うた。
「お前は、他にもいると思うか」
榎本は少しだけ顔を上げた。
「……おります」
「どこに」
「どこにでも」
伊織の手が、僅かに止まる。
「どの藩にも、どの蔵にも、どの町にも。今日をつなぐために、明日を少し削る者はおります」
榎本の声は静かだった。
「私は運が悪く、先に見つかっただけです」
その言葉は、言い逃れではなく、ある種の真実だった。
だからこそ、苦い。
伊織は榎本の腕に縄をかけた。
「運ではない」
低く言う。
「見られるようになっただけだ」
榎本はそれ以上何も言わなかった。
蔵を出る頃には、朝日はすっかり高くなっていた。
深川の米蔵街は、何も知らぬ顔で今日も動き始めている。
俵は運ばれ、帳面はつけられ、人は腹を空かせ、飯を食う。
それが世だ。
その世の底で、また誰かが“今日だけ”と思って数を動かすのだろう。
岡野が榎本を引き渡しに行き、新兵衛は肩を回しながら言った。
「次は?」
伊織は答えなかった。
答えはまだ一つではない。
主水のところへ帳面を持っていく。
榎本の口をどう扱うか決める。
藩主の意向も聞かねばならぬ。
そして、寺へ戻る。
役目は増えた。
だが不思議と、胸の中は少しだけ澄んでいた。
「まずは戻る」
伊織がようやく言うと、新兵衛が笑った。
「どっちへだ」
伊織も少しだけ笑う。
「両方だ」
城へも、寺へも。
帳面の側にも、人の側にも。
その両方へ戻り続けることが、これからの自分の役目なのだろう。
波瀾万丈の物語は、もはや一つの敵を討って終わる話ではなくなっていた。
それでも伊織は歩く。
火の匂いを嗅ぎ分け、帳面の歪みを読み、人の顔へ戻るために。
深川の朝の匂いの中で、伊織は静かに空を見上げた。
高い空は、何事も知らぬように青かった。
(第四十章につづく)

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