――第三十六章 米の匂い――
米は、刀より静かに人を殺す。
そのことを、伊織は城へ向かう道すがら考えていた。
火は見える。毒は疑えばまだ匂う。だが米は、足りぬ時にしか人を脅かさぬ。足りているうちは、誰もその流れを疑わない。だからこそ、帳面の底でいちばん汚れやすい。腹を満たすものを握る者は、人の正しさまで握ることができる。土井主計が、内膳が、帳合が、最後には皆そこへ戻ったのは偶然ではないのだろう。
主水の文は短かった。
――“米を見る”。
それだけで十分だった。
主水は、余計な説明を好まぬ。
説明が多い時は、むしろ肝心なものが見えなくなることを知っているのだ。
江戸城下の朝は、もうすっかり動いていた。米屋の軒先では俵が下ろされ、船着き場では荷が上がり、町人は値を気にして立ち話をしている。伊織はその様子を見ながら、今までとは違う目で町を見ている自分に気づいた。
以前なら、人の顔を見ていた。
今は、人の“流れ”を見ている。
どの道から俵が来るか。
どの蔵へ入るか。
どこで値が変わるか。
誰がそれを見ているか。
それは主水の言う“表の下を見る目”なのだろう。
だがその目を持ち始めたことに、伊織はほんの少しだけ寒さも覚えた。
人を流れとして見始めるとき、人は人でなくなる危うさがある。
半十郎の言った「戻る場所」を忘れてはならぬと、伊織は胸の内で繰り返した。
主水の控えの間で、伊織は新しい帳面を渡された。
大きくはない。手のひら二つほどの薄い帳面で、紙も上等ではない。だが、こういう何でもない帳面ほど、現場の匂いを持っている。土井の帳面が“上からの計算”なら、これは“下からの動き”だ。
「町方から上がったものだ」
主水が言った。
「米の値が、このひと月で不自然に揺れている」
伊織は帳面を開いた。
市中の米問屋の値。
蔵前の入札。
深川、浅草、日本橋での売値。
そして、品川から出る“空の俵”の数。
「空の俵……?」
伊織が呟くと、主水が頷いた。
「俵は満ちて入る。だが空で出る」
「中身が抜かれている」
「あるいは、最初から入っておらぬ」
主水はそう言って、伊織を見た。
「神谷内膳や土井主計の件で、いくつかの口は塞いだ。だが塞がれた口の代わりに、別の口がすぐ動き始めた。帳合という役が一人ではないように、流れも一筋ではない」
「黒い桐ですか」
「分からぬ」
主水は即座に言った。
「だが、匂いは似ている」
主水は帳面の一頁を指で叩いた。
「ここだ。深川の米蔵から、品川へ向けて俵が運ばれている。だが品川の船は、積み荷の申告より軽い」
伊織は眉を寄せた。
「米を抜いているなら、その分はどこへ」
「そこを見ろ」
主水の目は冷たいが、その冷たさの奥に、どこか試すような光がある。
剣を見込まれていた時の視線とは違う。
人の読みを見込まれる視線だ。
「一人では行くな」
主水が続けた。
「だが、大勢でも行くな。目立てば口が閉じる」
伊織は頷いた。
「人は」
「好きに選べ」
主水は言った。
「ただし、戻る場所を知っている者を一人は連れろ」
その一言に、伊織は少しだけ目を上げた。
主水もまた、伊織がどこで人として繋がっているかを見ているのだろう。
ただの命令ではなかった。
寺へ戻ると、新兵衛が縁側で胡坐をかいていた。
傷はまだ完全ではないが、顔色はだいぶ戻っている。戻っているどころか、退屈で腐りそうな顔だ。
「おう、戻ったか」
「戻った」
「今度は何だ」
「米だ」
伊織が言うと、新兵衛は片眉を上げた。
「やっぱり腹か」
「腹だ」
「いちばん面倒だな」
新兵衛は立ち上がり、肩を回した。
「で、俺か」
伊織は少し笑った。
「お前しかおらぬ」
「違ぇねぇ」
新兵衛はにやりとした。
こういう男がいると、言葉が少なくて済む。
それだけで、伊織にはありがたかった。
母は囲炉裏のそばで針仕事をしていたが、二人のやり取りを聞いて顔を上げた。
「また行くのかい」
「行く」
「今度はどこ」
「深川から品川へ流れる米です」
母は眉を寄せた。
剣や火の話ならまだしも、米の話はかえって想像しづらいのだろう。
「米で人が死ぬのかい」
その問いに、伊織は少し間を置いた。
「すぐには死にません」
「だが?」
「気づかぬうちに、弱る」
母はそれ以上聞かなかった。
母は百の理屈より、一つの言い切りで分かる人だ。
志乃が小さく言った。
「兄さま、今度は火のところへは行かないでください」
伊織は志乃を見た。
赤い紐は、もう髪に戻っている。
それを見ると、胸の奥で何かが締まる。
「できるだけ行かぬ」
「できるだけ、じゃ困ります」
志乃は珍しく強い調子で言った。
その言い方が少し可笑しくて、伊織は思わず笑った。
「分かった。火は避ける」
お澪が縁側から、静かに口を挟んだ。
「米の流れなら……船ですね」
伊織は頷いた。
「そうだ」
「なら、品川だけでなく、深川の蔵も見た方がいいです」
新兵衛が「ほう」とお澪を見る。
お澪は少し躊躇しながら続けた。
「父が昔、勘定方で言っていました。米は“着いた先”で抜くより、“出る前”に数を合わせた方が誤魔化しやすい、と」
伊織は目を細めた。
たしかにそうだ。
品川で軽い船を追うだけでは遅い。
深川の蔵で、最初から“空”を混ぜている可能性がある。
「……助かる」
伊織が言うと、お澪は少しだけ目を伏せた。
「役に立てるなら」
その言葉に、新兵衛がふっと笑った。
「この寺、いよいよ帳面読む奴が増えてきたな」
その日の夕方、伊織と新兵衛は深川の米蔵街へ向かった。
木場とはまた違う匂いがある。
材木ではなく、米の匂い。
米の匂いは、木より柔らかい。だが柔らかいぶん、人を油断させる。
蔵が並び、俵が積まれ、荷車が行き交う。
見た目は平穏だ。
だが平穏な場所ほど、帳面のごまかしは育つ。
「どこを見る」
新兵衛が小声で聞く。
伊織は、通りの向こうの大きな蔵を見た。
看板は“河内屋”。
帳面にあった名だ。
深川から品川へ回る俵の起点の一つ。
「まずはあそこだ」
伊織が言うと、新兵衛は鼻を鳴らした。
「でけぇな」
「でかい蔵ほど、死角も多い」
二人は蔵の向かいの茶屋へ入った。茶屋の婆は愛想よく湯を出したが、二人の目つきにすぐ気づき、それ以上話しかけてこなかった。こういうところの婆は賢い。危ない客には、余計な口を利かぬ。
蔵を見ているうちに、日が傾き始めた。
俵が運び出される。
帳面がつけられる。
荷車に積まれ、川岸へ向かう。
「数は合ってるように見えるな」
新兵衛が言う。
「見えるだけだ」
伊織は答えた。
しばらくして、一台の荷車が出た。俵が六つ。帳面役が数えて、印をつける。だが、引く男の足取りが妙に軽い。
「軽い」
伊織が言った。
「何が」
「荷車だ」
新兵衛が目を細める。
「ああ……」
荷車は六俵も積んでいるにしては、軋みが少ない。車輪が沈まぬ。つまり、見た目ほど重くない。
「空俵か」
「混ぜている」
伊織は湯呑みを置いた。
「追う」
二人は茶屋を出て、荷車の後を距離を置いて追った。
荷車は川岸へ向かう。
だが舟へそのまま積むのではなく、途中の小さな蔵へ入った。
看板もない。
ただの納屋に見える。
だが中から、人の声と秤の音がした。
「ここだな」
新兵衛が言う。
「米を抜く場所じゃなく、空を混ぜる場所だ」
伊織は頷いた。
品川の軽い船は、ここで作られていたのだ。
最初から量をごまかし、差分をどこかへ流す。
差分の行き先――そこに、次の帳面がある。
二人が蔵の陰へ寄ったそのとき、納屋の戸が少し開いた。
中から出てきた男を見て、伊織の足が止まった。
その男には、見覚えがあった。
黒い桐の帳合の蔵で、火を見張っていた者。
木場の蔵では逃した、黒い帷子の小男。
つまり――まだ終わっていない口だ。
「おい……」
新兵衛が低く言う。
「あれ、木場の」
「ああ」
伊織は答えた。
帳合は捕らえた。
だが手足は残っていた。
そしてもう、次の流れを作り始めている。
男は周囲を見回し、素早く路地へ消えようとした。
「逃がすな」
伊織が言うより早く、新兵衛が走った。
波瀾万丈の嵐は、まだ終わっていない。
凪の底で、すでに次の流れが動いていた。
(第三十七章につづく)

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