山本周五郎を模倣し、江戸時代の武士の姿を描いた完全オリジナル小説『落日の士(サムライ)』第三十五章

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――第三十五章 凪の底――

 静かな夕餉ほど、人を不安にさせるものはない。

 伊織は寺の囲炉裏端に座り、母の炊いた飯を口へ運びながら、そんなことを思っていた。味噌の香り、炊きたての米の湯気、志乃が小皿へ取り分ける漬物、お澪の細い箸の持ち方、新兵衛が遠慮なくおかわりをする様子――どれも、ごくありふれた夕べの姿である。ありふれているからこそ、伊織にはむしろ現実味が薄かった。

 この数日のあいだ、火の匂いと血の匂いと薬の匂いの中ばかりを歩いてきた。だから人の住まいの匂いが、かえって異様に思える。静かな暮らしというものは、これほどまでに脆いものだったかと、改めて知らされる。

「兄さま、箸が止まっています」

 志乃がそう言って、小さく笑った。

 伊織は我に返り、飯をかき込んだ。

「すまぬ」

「謝ることではありません」

 母が静かに言う。

「疲れているのだよ」

 その声に、伊織は少しだけ目を伏せた。疲れている――たしかにそうだ。だが疲れは体よりも、むしろ心の底に沈んでいた。終わったと思えば次があり、次を抑えればまた別の影が見える。その繰り返しで、いま自分がどこに立っているのか、時折わからなくなる。

 お澪が、湯呑みを両手で包むように持ちながら言った。

「お城では、何か決まったのですか」

 伊織は、少しだけ間を置いて答えた。

「役目を預かった」

 新兵衛が、口いっぱいに飯を頬張ったまま笑う。

「役目、だとよ。もう浪人面じゃ済まねぇってことだ」

 母が伊織を見る。

「危ない役目なのかい」

「……危なくない役目ではない」

 伊織は正直に言った。

 母は、それ以上問わなかった。問えば細かいことが返ってくると知っているのだろう。あるいは、細かいことを聞かずとも、息子の目でだいたい察しているのかもしれぬ。

 老僧が囲炉裏の向こうで細い目を上げた。

「役目とは、時に人を縛る」

「はい」

 伊織が頷くと、老僧はさらに言った。

「だが縛りは、外からだけ来るのではない。自分で自分を縛るものもある」

 その言葉は、囲炉裏の火よりも静かに胸へ落ちた。

 自分で自分を縛る。

 たしかに、そうだった。

 母を守りたい。志乃を守りたい。お澪を守りたい。半十郎の期待も、新兵衛の命も、藩主の一言も、無駄にしたくない。そう思うたび、伊織の中には一本ずつ縄が増えていく。誰かに縛られているのではない。自分で自分を縛っているのだ。

「縛られるのは嫌ですか」

 お澪がぽつりと聞いた。

 伊織は少し考えた。

「嫌だ」

 そして、言葉を足した。

「だが、何にも縛られぬ人間は、どこへでも流れてしまう」

 新兵衛が「違ぇねぇ」と鼻を鳴らした。

「俺みてぇなのは流れっぱなしだがな」

「お前は流れながら戻ってくる」

 伊織が言うと、新兵衛は一瞬きょとんとし、それから苦く笑った。

「言うようになったな」

 囲炉裏の火が、ぱちりとはぜた。

 その音が妙にやさしく響き、伊織は胸の奥の緊張が少しだけほどけるのを感じた。


 その夜、皆が寝静まったあとも、伊織だけは眠れなかった。

 寺の縁に出ると、風が冷たかった。秋とも冬ともつかぬ、骨へ沁みるような冷たさである。空には雲が薄く流れ、月が時折そのあいだから覗く。池の水面はわずかに波立ち、月の光を砕いていた。

 伊織は柱に背を預けたまま、じっと庭を見た。

 木場の蔵。

 黒い桐の印。

 帳合の男の言葉。

 主水の問い。

 半十郎の剣。

 藩主のかすれた声。

 すべてが胸の中で、まだ片づいていない。片づいていないのに、世はもう次へ進もうとしている。帳面を読む目。流れを嗅ぐ目。次の火が起こる前に見つける目。主馬は、その目を伊織に求めた。

(私にできるのか)

 ふと、そんな思いがよぎる。

 剣を振るうことなら分かる。敵が目の前にいて、刃を抜いてくるなら、そこへ向かえばよい。だが帳面の上の敵は、顔を持たぬ。名も持たぬ。持たぬからこそ、何度でも現れる。土井を捕らえ、内膳を止め、蔵を押さえても、それで終わらぬと帳合の男は言った。腹の底では、伊織も同じことを思っている。終わらないのだ。

 縁の向こうで、足音がした。

 振り向くと、半十郎が立っていた。

「眠れぬか」

「師範」

 半十郎は隣へ来て、同じように庭を見た。

「私もだ」

 伊織は黙った。

 半十郎が眠れぬのは、藩主のことだけではあるまい。

 弟子をこのような道へ送り出したこと。

 剣では裁けぬものに剣を向けざるを得なかったこと。

 そうしたことが、老いた師の胸にも重く沈んでいるはずだ。

「伊織」

 半十郎が言う。

「主水殿は、何と」

「役目を預けると」

「……そうか」

 半十郎は小さく頷いた。

「断らなかったか」

「断れませんでした」

「断らぬと思っていた」

 その言い方に責めはなかった。ただ、知っていたというだけの響きがあった。

「師範は、どうお考えです」

 伊織が問うと、半十郎は少し考えてから答えた。

「剣には、守れるものと守れぬものがある」

「はい」

「私は長く、守れぬものは見ぬふりをしてきた」

 伊織は、その言葉に目を向けた。

「見ぬふり、ですか」

「そうだ」

 半十郎は月を見ながら言った。

「藩の金の流れも、家中の軋みも、江戸詰の腐りも、まるで自分には関わりがないように剣だけを教えてきた。剣の道を汚したくなかったからだ。……だが汚れていたのは、剣の外ではなかった。剣そのものが、もう汚れの中に立っていたのだな」

 その声には、悔いがあった。

 老人が過去を悔いる声ほど、静かで重いものはない。

「師範」

 伊織が言いかけると、半十郎は手で制した。

「慰めはいらぬ。……だがな」

 半十郎の目が伊織へ向く。

「お前はまだ、剣の心を失っていない」

 伊織は眉をひそめた。

「失いかけている気がします」

「そう思えるうちは、まだ失っておらぬ」

 半十郎は言った。

「本当に失った者は、自分が何を失ったかにも気づかぬ」

 伊織は、帳合の男の顔を思い出した。

 土井主計の笑み。

 内膳の冷えた目。

 あれらは、まさにそういう顔だったのかもしれぬ。

「主水殿の役目は、剣を振るう役ではない」

 半十郎は続けた。

「だが剣の心を持たぬ者が、その役に就けば、いずれまた土井になる。お前には、それが分かる。だから行け」

「……怖いのです」

 伊織は、とうとうそう口にした。

 半十郎は少しも驚かなかった。

「何がだ」

「気づけば、あちら側へ寄ってしまう気がして」

 月明かりの下で、伊織は自分でも驚くほど素直に言葉を出した。

「帳面の理で人を見るようになり、人を並べ替えることを“仕方ない”と思うようになり、誰かを切っても平気になる。……土井も内膳も、最初からああだったとは思えません」

 半十郎は長く黙った。

 やがて、静かに言った。

「だから、戻る場所を持て」

「戻る場所……」

「寺でもよい。母上でもよい。志乃でも、お澪でも、新兵衛でもよい。お前が人でいられる場所を手放すな。手放せば、役だけが残る。役だけが残れば、人は帳合になる」

 伊織は、胸の中の何かが少しだけほどけるのを感じた。

 戻る場所。

 たしかに今夜、囲炉裏の匂いに救われた。

 志乃の笑いにも、母の飯にも、新兵衛のくだらぬ軽口にも、お澪の静かな目にも。

 あれらを失えば、自分はただ“役”になる。

 役になれば、いずれ名を捨てる。

 名を捨てれば、黒い桐と何も変わらなくなる。

「覚えておきます」

 伊織が言うと、半十郎は小さく笑った。

「忘れてもよい。人は忘れるものだからな。だが、忘れたと気づいたら戻れ」

 それだけ言うと、半十郎は立ち上がった。

「寝ろ。明日からまた忙しくなる」

「師範も」

「老人は、眠らぬでもなんとかなる」

 そう言って去っていく背が、少しだけ小さく見えた。


 翌朝、伊織は早くに目を覚ました。

 寺の空気は冷たく、井戸水はさらに冷たい。顔を洗うと、胸の内の淀みがわずかに晴れる気がした。

 朝餉の前に、主馬から使いが来た。

 小柄な使番で、主水の手の者らしく、余計なことは一切言わない。ただ封を差し出し、一礼して去ろうとする。その背を伊織が呼び止めた。

「急ぎか」

「本日中に城へ、とのことにございます」

 使番はそれだけ言って去った。

 封を開けると、紙は一枚だけだった。簡潔な筆致で、こう書かれている。

 ――本日より、表には出ぬが、表の下を見よ。

 最初の帳面は、松代藩ではない。

 “米”を見る。

 伊織は、その短い文を見つめた。

 米。

 土井も、内膳も、最後にはそこへ戻った。

 腹を満たすもの。

 人が最も簡単に正義を忘れるところ。

「兄さま?」

 志乃が後ろから覗き込む。

「何かあったのですか」

 伊織は紙を折りたたみ、懐へ入れた。

「新しい役目だ」

 志乃は少し不安そうな顔をしたが、すぐに小さく笑った。

「なら、朝ご飯を食べてからにしてください」

 その言い方が、母によく似ていた。

 伊織は思わず笑った。

「そうする」

 囲炉裏の前へ戻ると、母がすでに汁を温めていた。お澪も起きていて、まだ顔色は薄いが、以前よりしっかりして見える。新兵衛は、朝から寺の箒を勝手に使って庭を掃いていた。

「おう」

 新兵衛が言う。

「今日はどこの帳面だ」

「米だ」

 伊織が答えると、新兵衛が目を丸くした。

「そりゃまた、いちばん腹にくるやつだな」

 その言葉に、皆が少しだけ笑った。

 笑える朝がある。

 そのことが、いまの伊織には何より大きかった。

 波瀾万丈の嵐は、確かにまだ終わっていない。

 だが嵐の中でも、人は飯を食い、水を飲み、笑うことができる。

 それを守るためなら、また次の帳面を開いてもよい。

 伊織はそう思い、静かに箸を取った。

(第三十六章につづく)

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