山本周五郎を模倣し、江戸時代の武士の姿を描いた完全オリジナル小説『落日の士(サムライ)』第三十三章

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――第三十三章 凪の帳面――

 木場の騒ぎから三日が過ぎた。

 江戸の町は、驚くほど何事もなかったように動いていた。魚河岸は朝から声が飛び、橋の上では米俵が行き交い、武士たちはいつも通りの顔で登城する。人の世というものは、火事でも戦でも、三日もすれば日常へ戻ろうとする。戻らなければ生きていけぬからだ。

 だが、その日常の下では、確かに何かが動いていた。

 志摩屋の蔵から出た帳面は、江戸城の勘定方へ送られた。土井主計の名は正式に記され、神谷内膳の処分も決まりつつある。与吉郎は薬筋の口として取り調べを受け、志摩屋の主人は裏帳の証人として閉じ込められた。

 そして帳合――黒い桐の役を名乗った男も、城の奥へ移された。

 その日、伊織は久しぶりに寺へ戻っていた。

 老僧の寺は、相変わらず静かだった。庭の柿の葉が風に揺れ、池の水面が小さく波打っている。あの夜、矢が飛び、火が迫り、血の匂いが漂った場所とは思えないほど穏やかだ。

 志乃が縁側に座っていた。

「兄上」

 伊織の顔を見ると、ほっとしたように微笑んだ。

「終わったのですか」

 伊織は少し考えてから答えた。

「……一つは終わった」

 志乃はそれ以上聞かなかった。兄の顔を見れば分かるのだろう。完全に終わった顔ではないことが。

 奥から母が出てきた。

「伊織」

 その声は、いつものように穏やかだった。

「無事でよかった」

 それだけだった。

 叱るでもなく、詮索するでもなく、ただそれだけ言った。

 伊織はその言葉に、胸の奥がゆっくりほどけていくのを感じた。

 新兵衛も寺にいた。腕に包帯を巻きながら、境内の掃き掃除をしている。

「よう、やっと戻ったか」

 伊織を見ると、にやりと笑った。

「内膳は捕まったらしいな」

「ああ」

「狐火の連中も?」

「何人かはな」

 新兵衛は箒を肩に担ぎながら言った。

「だが全部じゃない」

「そうだ」

 伊織も笑った。

「全部は終わらぬ」

 新兵衛は「だろうな」と言い、また箒を動かした。

 武士の言葉より、こういう男の言葉の方が、時に真実に近い。

 そのとき、寺の門の方で足音がした。

 佐々木主馬だった。

 主馬は境内に入ると、伊織を見つけて言った。

「ちょうどよかった。探していた」

「何かありましたか」

 主馬は少しだけ眉を動かした。

「城から呼び出しだ」

「私が?」

「そうだ」

 志乃が不安そうに兄を見る。

 伊織は軽く頷いた。

「すぐ戻る」

 主馬と並んで寺を出ると、主馬は歩きながら言った。

「帳合の男が、今朝口を開いた」

 伊織の足がわずかに止まった。

「何を」

「役の継ぎ目だ」

「次の帳合の名ですか」

「いや」

 主馬は首を振った。

「そうではない」

 伊織は眉をひそめた。

「では」

「帳合の役は、誰かが指名するものではないと言っただろう」

「ええ」

「だが、一つだけ“目印”があるらしい」

「目印?」

 主馬は低く言った。

「桐の印だ」

 伊織は少し黙った。

「黒い桐」

「そうだ」

「それがどこにある」

「分からぬ」

 主馬は言った。

「帳合の男も知らぬ。ただ、役が移るとき、その印がどこからともなく現れるという」

 伊織は苦く笑った。

「幽霊のような話ですね」

「幽霊より厄介だ」

 主馬は言った。

「幽霊は帳面を動かさぬ」

 二人は橋を渡りながら、しばらく黙って歩いた。

 江戸の町は、もう昼の顔になっている。商人が声を張り、子どもが走り回り、武士が無表情に行き交う。誰もが、自分の一日を生きている。

「榊原」

 主馬が言った。

「今回の件で、お前の名は城中に知られた」

「それは困ります」

「なぜ」

「目立つと、また別の帳面に書かれる」

 主馬は、初めて声を出して笑った。

「その通りだ」

 そして少し真面目な顔になった。

「だが目立たぬ者では、あの蔵は開けられなかった」

 伊織は何も言わなかった。

 やがて城の石垣が見えてきた。

 江戸城。

 大きな石の壁の向こうで、無数の帳面が動いている場所。

 主馬は門の前で立ち止まった。

「これから先は、剣より言葉だ」

「苦手です」

「慣れろ」

 主馬は言った。

「世を動かすのは、最後は帳面だ」

 伊織は城門の上を見上げた。

 高い石垣。

 その向こうの空は、青く晴れている。

 火も煙も見えない。

 だが伊織には分かっていた。

 この城の中で、また別の帳面が開かれようとしている。

 そしてその帳面には、きっと自分の名も書かれる。

 波瀾万丈の嵐は、静まったように見える。

 だが本当の嵐は、もしかするとここから始まるのかもしれない。

 伊織はゆっくりと城門をくぐった。

(第三十四章につづく)

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