――第三十二章 灰のあとの風――
木場の蔵の火は、夜明け前にはほぼ消えた。
完全に焼け落ちる前に水が届いたのが幸いだった。梁は黒く焦げ、壁の一部は崩れ、箱や帳面の半分ほどは煙に燻されたが、それでも蔵は残った。木場で火を出してこの程度で済んだのは奇跡に近い。鳶の者たちは口々にそう言いながら、まだ赤く燻る材木の間へ水を打っていた。
だが伊織には、その「残った」という言葉が、妙に重く響いていた。
残ったものは蔵だけではない。
帳面も残った。
印も残った。
そして、あの男――帳合も生きている。
火が消えた後の匂いは、独特だ。湿った炭と水と灰が混ざった匂い。人はそれを嗅ぐと、もう火は終わったと思う。だが伊織は知っていた。火は終わったのではない。ただ、形を変えて残るのだ。
帳合の男は、縄をかけられたまま蔵の前に座らされていた。夜のあいだに髪がさらに白く見える。だが顔は変わらない。恐れも、悔しさも見せない。役を終えた役人のように、ただ座っている。
岡野が伊織の横へ来た。
「蔵の奥から帳面がいくつも出ました」
「どのくらいだ」
「大きい箱で三つ。志摩屋の裏帳、土井主計の符牒、薬筋の送り状……それに、御用船の一覧」
伊織はそれを聞き、ようやく胸の中の石が少しだけ動いた。
これだけ揃えば、もう土井一人の罪では済まぬ。帳合という役の存在も、公へ出せるかもしれない。老中方がどこまで踏み込むかは分からぬが、少なくともこのまま闇に戻ることはない。
「主馬殿へ」
「もう使いを出しました。昼にはここへ来るでしょう」
岡野はそう言い、帳合の男をちらりと見た。
「この男、ずっと黙ったままです」
「役を終えたと言った」
伊織は言った。
「なら、もう喋る気はないのかもしれぬ」
「それでも、口は必要です」
岡野が言う。
「帳面は証になるが、人の口がある方が早い」
伊織は頷いた。
だが同時に思った。
この男は、もう“自分”として生きていない。
役として生きてきた者は、役が終われば口も閉じる。
志摩屋の主人や与吉郎とは違う。
あの者たちは生き延びたいから喋る。
だが帳合は、生き延びるために喋る人間ではない。
伊織は帳合の前に立った。
「蔵は押さえた」
男は何も言わない。
「帳面もある」
沈黙。
「内膳も与吉郎もいる。お前だけが黙っても、流れは止まらぬ」
それでも男は顔を上げなかった。
やがて、伊織が少し声を落として言った。
「それでも黙るのは、まだ“次”があるからか」
その瞬間、男の目がわずかに動いた。
伊織は見逃さなかった。
「帳合は一人ではないな」
男の唇が、ほんの僅かに歪む。
「ようやくそこへ来たか」
伊織は胸の奥で小さく息を吐いた。
やはりそうだ。
この男は“役”と言った。
役は一人で続かぬ。
「次は誰だ」
伊織が問う。
男は首を振った。
「それは知らぬ」
「嘘だ」
「本当だ」
男は淡々と言った。
「帳合は、前の者が次を指名するわけではない」
「ではどう決まる」
「流れだ」
伊織は眉をひそめた。
「流れ?」
「金の流れ、薬の流れ、船の流れ、人の流れ……それらを一番よく見ている者が、いつの間にか“役”になる」
岡野が吐き捨てるように言った。
「曖昧な話だ」
「そうだ」
男は静かに言った。
「曖昧だから続く」
伊織は、その言葉を胸の中で転がした。
曖昧だから続く。
名がないから、誰でもなれる。
だから何度でも生まれる。
「なら」
伊織は言った。
「今夜、お前で終わらせる」
男は初めて、はっきりと伊織を見た。
「終わらぬ」
「終わらせる」
「榊原」
男はゆっくり言った。
「お前は、土井も内膳も倒した。蔵も押さえた。……だが世は、帳面の上で回っている」
伊織は黙って聞いた。
「人は腹を満たすために動く。武士も町人も同じだ。正しさだけでは米は炊けぬ」
「だから人を売るのか」
「売るのではない」
男は言った。
「並べ替えるだけだ」
その言葉に、伊織の胸の奥が冷たくなった。
人を並べ替える。
それだけで人の運命を決める。
それが帳合の仕事だったのだろう。
「お前は」
伊織が言った。
「一度でも、自分の手で人を救ったことがあるか」
男は少し考えるような顔をした。
「ある」
「誰だ」
「私だ」
伊織の目が細くなる。
「自分を救った」
男は言った。
「人はまず自分を救う。そのあとで世を救う。……順番を間違えた者が、土井や神谷だ」
その理屈は、どこか整いすぎていた。
整いすぎた理屈は、人の温度を失う。
伊織はしばらく黙っていたが、やがて言った。
「主馬殿が来る」
「そうだろう」
「老中方の前で、お前はどうする」
男は肩をすくめた。
「同じことを言う」
「帳合だと」
「そうだ」
「それで終わると思うか」
男は静かに笑った。
「終わるさ」
「なぜ」
「役が終わるからだ」
伊織は、そこでようやく分かった。
この男は、処罰を恐れていない。
むしろ、役を終えることを受け入れている。
そして、役が終われば、また別の誰かが役になると信じている。
それが、この男の強さでもあり、恐ろしさでもあった。
そのとき、橋の方から馬の音がした。
佐々木主馬だった。
馬から降りると、主馬はすぐに蔵の前を見回した。焦げた梁、濡れた地面、積み上げられた帳面の箱。そして縄をかけられた帳合の男。
「間に合ったようだな」
主馬は言った。
「ぎりぎりで」
岡野が答える。
主馬は帳合の男の前に立った。
「名は」
男は答えない。
「役は」
男は言った。
「帳合」
主馬は少しだけ笑った。
「そうか」
そして振り向き、岡野に言った。
「箱を全部、江戸城の勘定方へ回せ。ここから先は、公だ」
その言葉で、空気が変わった。
ここまでの戦いは、伊織たちの戦いだった。
だがこれからは、幕府の戦いになる。
帳面の上で決まる戦いだ。
主馬は伊織へ目を向けた。
「榊原」
「はい」
「よくやった」
短い言葉だった。
だが伊織は、胸の奥が少しだけ軽くなるのを感じた。
主馬は続けて言った。
「だが覚えておけ」
「何を」
「世は、今日で変わらぬ」
伊織は頷いた。
「分かっています」
「帳合は潰せる。だが帳面は残る。……そのたびに誰かが立たねばならぬ」
伊織は、ゆっくり息を吐いた。
朝の風が、木場の材木の匂いを運んでくる。
火の匂いは、もうほとんど消えていた。
だが灰の下には、まだ熱が残っている。
伊織はその熱を、胸の奥に感じていた。
波瀾万丈の嵐は、ようやく静まり始めている。
だがその静けさは、終わりではない。
次の風が吹くまでの、ほんの短い凪に過ぎないのだ。
(第三十三章につづく)

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