――第二十九章 口の中の刃――
品川沖の朝は、冷たいくせに眩しかった。
海の光は、人の顔を正直に見せる。江戸の町の中ではごまかせる皺も、怯えも、汗も、海の照り返しの前では隠れぬ。神谷内膳は、縄をかけられたまま舟の中央に座らされ、顔色一つ変えずに前を見ていた。だがその額ににじむ汗だけは、潮風のせいではなかった。
伊織は、舟の舳先に立ってその横顔を見ていた。
神谷内膳。
藩主を倒し、土井主計と組み、志摩屋を使い、狐火を動かした男。
捕らえた。
だが捕らえたからといって、すべてが口を開くわけではない。むしろ本当に厄介なのは、捕らえたあとの口だ。閉じるか、噛み切るか、嘘を吐くか。人は追い詰められてから本当の顔を見せる。
志摩屋の主人は、舟の端で小さくなっていた。さきほどは内膳の背に抱きつき、命乞いのような裏切りを見せたくせに、今は誰とも目を合わせぬ。こういう男は、追い詰められると喋る。だが喋ることの半分は、自分を軽くするための嘘だ。
岡野が縄を確かめながら言った。
「このまま藩邸へ戻しますか。それとも、主馬殿の控えへ直接」
伊織は少し考えた。
藩邸へ戻せば、藩主の言葉と半十郎の剣がある。だが藩邸にはまだ内膳に通じる者がいるかもしれぬ。主馬の控えへ持ち込めば、老中方の手で“公”に近づく。だがそこで口を噛み切られれば、それで終わる。
「途中で喋らせる」
伊織が言うと、岡野が眉をひそめた。
「ここでですか」
「今が一番、逃げ道が少ない。海の上では、火もつけにくい」
岡野は小さく頷いた。確かにその通りだ。火は狐火の得意だが、海風の中では思うように扱えぬ。舟を燃やせば、自分も死ぬ。海の上では、闇の手も少し鈍る。
伊織は内膳の正面に座った。
「神谷内膳」
内膳は、ようやく視線を向けた。
「まだ何かあるか」
「ある」
「私はもう縛られている」
「口はまだ縛っていない」
内膳は鼻で笑った。
「口を開けば、何か変わると思うか」
「変えるために開かせる」
伊織は低く言った。
「土井主計は死んだ。与吉郎は捕らえた。志摩屋の裏帳も押さえた。藩主様の口も戻りつつある。お前が黙っても、道は見え始めている」
内膳の目がわずかに細くなる。
「なら、私の口は要るまい」
「要る」
伊織は言った。
「お前の後ろにいる者の名だ」
風が、ぴたりと止んだ気がした。
内膳はしばらく黙っていたが、やがて薄く笑った。
「後ろ?」
「土井主計の後ろ、志摩屋の後ろ、与吉郎の薬筋の後ろ――それらを繋げる“後ろ”だ」
「ない」
「ある」
伊織の声は揺れなかった。
「土井は将軍家薬方の外筋に触れた。志摩屋の帳面には、加賀守家の御用符牒に似た印があった。お前は藩主を死なせず、生かして黙らせようとした。……ただの藩の乗っ取りではない。藩を使って、もっと大きな帳面を動かしていたはずだ」
内膳の唇が、ほんの僅かに動いた。
当たりだ。
だが当たりでも、口はすぐ開かぬ。
「榊原」
内膳が静かに言った。
「お前は、世を単純に見すぎる」
「複雑だというなら、その複雑さを吐け」
「吐けば、お前はもっと苦しむ」
「苦しむのは慣れた」
内膳は、小さくため息をついた。
「違う。お前はまだ“人が苦しむ姿”に慣れていない」
その言葉に、伊織の胸が一瞬だけざらついた。
母の涙。志乃の震え。お澪の矢傷。新兵衛の血。
確かに、慣れてなどいない。慣れたくもない。
だが慣れていないから止まれぬのだ。
「お前の口は、人を助けるために使え」
伊織が言うと、内膳は目を伏せた。
「人を助ける、か……」
笑いとも嘆息ともつかぬ声だった。
「私も、最初はそう思っていた」
志摩屋の主人が、端でびくりと身を震わせた。岡野も目を上げる。こういう時、人は本音を漏らす。
「松代藩は……もう長くなかった」
内膳は海を見たまま言った。
「借財は重く、年貢は先細り、藩主様は病み、家中は割れ、江戸詰は私腹を肥やし、国許は飢えていた。誰も口にせぬが、皆知っていた。――このままでは、どのみち潰れると」
伊織は黙って聞いた。反論は後でいい。まず吐かせる。
「そこへ土井が来た」
内膳の声は、妙に平坦だった。平坦な声ほど、深いところから出る。
「土井は言った。藩を助ける道があると。借財を別口へ流し、表を整え、数年を稼ぐ。その間に藩政を立て直せ、と」
「その代わりに何を差し出した」
伊織が問う。
内膳は目を上げた。
「人だ」
短い答えだった。
「藩の利権だけではない。人もだ。役に立つ者、薬に詳しい者、船を動かせる者、商いの口を持つ者。……藩は金だけで売れるわけではない。人の口と足を差し出して、初めて帳面が回る」
岡野が低く唸った。
「人買いと同じだな」
「同じだ」
内膳はあっさり認めた。
「だがその時の私には、それでも藩が生き延びるならと思えた」
「藩主様まで倒してか」
伊織の声が冷える。
内膳は、初めて少しだけ顔を歪めた。
「藩主様は……止めようとされた」
「当然だ」
「当然だ。だが当然では、藩は持たぬ」
内膳は言った。
「私は、藩主様が正しいことを知っていた。知っていたからこそ、邪魔だった」
舟の上に、重い沈黙が落ちた。
人はここまで言うのか、と伊織は思った。
正しいと知っていて邪魔だから倒す。
そこまで行けば、もはや悪というより病だ。
だが病のように広がるからこそ、厄介なのかもしれぬ。
「後ろの名を言え」
伊織が再び問う。
内膳は首を振った。
「土井の後ろにいたのは、一つの家ではない。御用商の連なりだ。薬筋、米筋、船筋、貸付筋……それぞれが別の顔を持つ。加賀守家の符牒に似た印も、その一つに過ぎぬ」
「だが束ねる者がいる」
伊織が言う。
「いなければ、ここまで綺麗に回らぬ」
内膳は、しばらく黙った。
言うか、死ぬか。
その境目にいる顔だった。
やがて、海の向こうを見ながら、ぽつりと言った。
「“御算用方別口”」
主馬の口調に似た硬い言葉。だが主馬はそんな名を使わぬ。内膳の口から出たそれは、役所の正式名ではなく、裏で通る呼び名なのだろう。
「何だ、それは」
岡野が問う。
「表の勘定所ではない。裏の勘定口だ。将軍家の表向きの算用に載らぬ金を回す口……そのための船、そのための薬、そのための御用商。その一つが土井であり、志摩屋であり、私だった」
伊織は、その名を胸の中で反芻した。
御算用方別口。
表の幕府の外に、もう一つの幕府があるようなものだ。
「束ねる者の名は」
伊織が問う。
内膳は口を閉ざした。今度は、先ほどまでと違う沈黙だ。ここが限界だと言わんばかりの沈黙。
そのとき、志摩屋の主人が突然叫んだ。
「待ってくれ! 俺は知ってる!」
皆の目が一斉に向く。志摩屋の主人は、涙と汗で顔をぐしゃぐしゃにしながら続けた。
「束ねてたのは、名じゃねぇ! “印”だ!」
「印?」
伊織が問うと、主人は何度も頷いた。
「名を知ってるのは、ごく一部だけだ。俺たちみてぇな口には、名じゃなく印で指図が来る。丸に欠け、三つ巴、梅鉢……そして最後に、黒い桐だ」
内膳の目が、初めて鋭く主人を刺した。
「黙れ」
「黙らねぇ!」
主人はもう半狂乱だった。
「どうせ俺は終わりだ! だったらお前らも道連れだ!」
人は、追い詰められると正義ではなく復讐で口を開く。だが復讐でも、真実は真実だ。
「黒い桐とは何だ」
岡野が問う。
主人は首を振る。
「分からねぇ……だがその印が来た荷だけは、誰も中を見なかった。土井も、志摩屋の裏の主人も、与吉郎も……みんな頭を下げた」
伊織の胸が冷えた。
桐。
桐は、公の匂いを持つ紋だ。
もしそれが黒い桐なら、公の影を裏返したものかもしれぬ。
主馬へ伝えねばならぬ。老中方でも知らぬ“別口”が、まだ奥にいる。
だがその瞬間、岡野が川岸の方を見て叫んだ。
「舟だ!」
沖から、小さな早舟がまっすぐこちらへ向かってくる。帆を立てず、櫓だけで滑るように。役人の舟ではない。漁師の舟でもない。音が静かすぎる。
「狐火か」
弥助が顔を強張らせる。
岡野は首を振った。
「違う。もっと厄介だ。……口を消しに来た」
与吉郎、蔵番、志摩屋の主人、内膳――ここに口が揃っている。ここへ来る舟は、救いではない。消す舟だ。
「岸へ寄せろ!」
岡野が船頭へ怒鳴るが、もう遅い。早舟は真横まで来ていた。
その舟の上から、何かが放られた。
火の壺ではない。
矢でもない。
小さな鉄の筒だ。
「伏せろ!」
伊織が叫んだ次の瞬間、筒が弾けた。
火薬。
耳をつんざく破裂音。
白煙。
木片が飛ぶ。
舟が大きく揺れた。弥助が転がり、志摩屋の主人が悲鳴を上げる。与吉郎が縄のまま倒れ込み、薬箱が海へ滑る。
伊織は内膳の上に覆いかぶさる形になった。
守ったのではない。
口を死なせぬためだ。
白煙の向こうで、早舟がもう一度櫓を打つ。
逃げるつもりだ。
口を全部消せなかったなら、次の火のために退くつもりだ。
「逃がすな!」
岡野が叫び、弓を取ろうとする。だが舟は揺れ、狙いが定まらぬ。
伊織は立ち上がった。
刀を抜く。
だが相手は遠い。
刀は届かぬ。
そのとき、内膳が縄をかけられたまま、低く言った。
「左の櫓手を狙え」
伊織が振り向く。
「何だと」
「左の櫓手が、舵を兼ねている。そこを落とせば舟は回る」
内膳は吐き捨てるように言った。
「狐火の舟筋は、そういう造りだ」
岡野が素早く弓を構えた。
狙いは左。
放つ。
矢が走り、櫓手の肩へ刺さった。
早舟がぐらりと傾き、向きを失う。
川面で半回転し、岸へぶつかる。
弥助が歓声を上げた。
だが伊織は喜ばなかった。
内膳が、今、狐火の癖を吐いた。
それはつまり、まだこちらへ寄ろうとしているということだ。
死にたくないのか。
あるいは、もっと大きな何かを恐れているのか。
伊織は内膳を見下ろした。
「なぜ教えた」
内膳は笑わなかった。もう笑えぬ顔だ。
「お前たちが死ねば、私も死ぬ」
「それだけか」
「……もう一つある」
内膳はゆっくりと言った。
「黒い桐は……私も見たことがない」
その一言に、伊織の背筋が粟立った。
ここまで来ても、まだ上が見えぬ。
内膳ですら、印しか見ていない。
ならば、この物語の敵は、まだ名前を持たぬ。
土井でも、志摩屋でも、内膳でもない。
もっと上。
もっと曖昧で、もっと広い。
岡野が早舟の方へ人をやっている。弥助は転んだまま起き上がり、内膳と与吉郎を見張っている。志摩屋の主人は泣いている。
海風だけが、何事もなかったように吹いていた。
伊織は刀を鞘へ収めた。
終わっていない。
むしろ、ここからが本当の“口封じ”の始まりかもしれぬ。
だが、いまは一歩だけ進んだ。
土井は死に、内膳は捕まり、藩主は口を開き、帳面は手元にあり、与吉郎も生きている。
火に焼かれず、海にも逃げず、口はまだ残った。
伊織は朝の海を見た。
光が強くなり始めている。
夜の嘘が薄れていく。
だが、嘘が完全に消えることはない。
だからこそ、また次の一手が要る。
波瀾万丈の嵐は、なお遠くで唸っていた。
(第三十章につづく)

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