山本周五郎を模倣し、江戸時代の武士の姿を描いた完全オリジナル小説『落日の士(サムライ)』第二十八章

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――第二十八章 品川沖の背中――

 江戸から海へ向かう道は、夜明けとともに湿った匂いを帯びる。

 川の匂いでも、海の匂いでもない。両方が混ざった、どこか腐りかけたような匂いだ。荷を運ぶ舟、魚を運ぶ舟、人を運ぶ舟――それらがすべて交じる場所の匂い。品川は、江戸の腹の出口だった。

 伊織は走っていた。

 岡野と、鳶の若い衆が二人、後ろに続く。人数はそれだけだ。追手としては少ない。だが多ければ遅い。内膳は遅い追手を待つ男ではない。遅れれば海へ出る。

 東の空はすでに赤く染まり始めている。夜は終わる。だがこの追いかけっこは、夜の方が都合がよかった。闇は隠す。昼は暴く。昼に逃げる者は、よほど腹が据わっているか、よほど追い詰められているかだ。

「伊織さん!」

 弥助が息を切らしながら言った。

「品川の舟宿、もうすぐです!」

 伊織は頷きながら、足を止めなかった。

 内膳は舟を使う。馬ではない。馬は目立つ。舟なら紛れる。荷の間に隠れれば、追手は簡単には見つけられぬ。しかも品川は朝の舟が多い。人の流れに紛れれば、それだけで逃げ切れる。

 だが内膳は一つ、誤算をしている。

 逃げる者は、逃げ道の“最後”しか見ない。

 追う者は、その一歩手前を見る。

 伊織は、舟宿の手前で足を止めた。

「どうしたんです」

 弥助が言う。

「ここから先は、人の目が多い」

 伊織は低く言った。

「騒げば、内膳は舟を出す。……出す前に止める」

 岡野が頷いた。

「舟着き場の裏へ回りましょう。岸の杭を切れば、舟は動けません」

 伊織はその言葉に目を細めた。

「杭を切れば?」

「船頭が怒る。怒れば騒ぐ。騒げば内膳が慌てる。慌てれば隠れられぬ」

 なるほど、と伊織は思った。役人は、こういうところで使える。剣でなく、人の流れで敵を炙る。

 裏手へ回ると、舟が五、六艘並んでいた。荷舟、小さな渡し舟、商人を乗せる屋形。朝の準備で船頭たちが忙しく動いている。縄を解き、荷を積み、竿を整える。誰も、武士の追手など気にしていない。

 だが一艘だけ、違う舟があった。

 帆を半ば張り、もう出る気でいる舟。

 船頭が一人、客を乗せている。

 客は二人。

 ひとりは、黒い羽織の武士。

 もうひとりは、志摩屋の主人だった。

 伊織の目が細くなる。

(内膳……)

 距離はまだある。だが間違えない。背中の形。肩の張り。歩き方。あの男は、どこへ行っても同じ背中をしている。人を使う者の背だ。

 岡野が低く言った。

「合図で杭を――」

「待て」

 伊織が止めた。

「志摩屋の主人もいる」

「なら尚更」

「いや」

 伊織は首を振った。

「志摩屋の口がまだ動く。あれを海へ逃がせば、別の志摩屋が生まれる」

 岡野が短く息を吐いた。

「つまり二人とも捕らえる」

「そうだ」

 弥助が小声で言った。

「でも、舟が出ちゃいますぜ」

 そのとき、舟の上の内膳が、ふと岸を振り向いた。

 距離があっても、目が合うということがある。

 伊織は、はっきりとそれを感じた。

 内膳は一瞬だけ止まり、すぐに船頭へ何か言った。

 船頭が慌てて綱を解く。

「出るぞ!」

 岡野が叫んだ。

 伊織はもう走っていた。

 桟橋の板が鳴る。船頭が竿を押す。舟が岸から離れ始める。ほんの数尺。だがその数尺が、江戸と海の境だ。

「神谷内膳!」

 伊織が叫んだ。

 舟の上の男が、ゆっくり振り向く。

 神谷内膳は、笑っていた。

「来たか、榊原」

 その声は、まるで朝の挨拶のように穏やかだった。

「遅い」

「お前が早い」

 伊織は桟橋の端で止まらず、そのまま舟へ飛んだ。板が軋む。船頭が驚いて竿を落とす。舟が揺れる。

 志摩屋の主人が青ざめた顔で後ずさる。

「やめろ! ここは舟だ!」

 内膳は刀を抜いた。

 細身の刃。飾りのない、実用の刀。

「榊原」

 内膳が静かに言った。

「ここまで来るとは思わなかった」

「思っていたはずだ」

「そうだな」

 内膳は笑う。

「だが、来ても意味はない」

 その言葉と同時に、内膳の足が動いた。

 早い。

 昨夜の藩邸で見たときより、さらに迷いがない。

 逃げる者の剣は鈍ることが多い。だが内膳は違う。

 逃げながら、斬る気でいる。

 伊織は刀を受けた。火花。舟が揺れる。海の匂いが一気に鼻へ入る。

 内膳の剣は、無駄がない。

 斬るところだけ斬る。

 人を斬る剣ではない。

 障害を斬る剣だ。

 志摩屋の主人が、端で震えている。逃げようとして足を滑らせ、尻もちをつく。

 岡野が岸から叫ぶ。

「舟を押さえろ!」

 弥助が飛び乗る。舟がさらに揺れる。

 内膳の目が一瞬だけ弥助へ向いた。

 その一瞬で、伊織が踏み込む。

 刀と刀がぶつかる。

 内膳の刃が伊織の袖を裂く。

 伊織の刃が内膳の肩を掠める。

 血が一滴、甲板へ落ちた。

 内膳は下がらない。むしろ笑った。

「いい剣だ」

「褒められても嬉しくない」

「そうか」

 内膳の足が、ほんの半歩後ろへ動く。

 その半歩が、舟の端だった。

 背後は海。

 逃げ道。

 伊織は低く言った。

「飛び込めば終わりだ」

「終わりではない」

 内膳は言った。

「海は広い」

「江戸は狭い」

「だが人の欲は広い」

 内膳の目が、ほんの一瞬だけ遠くを見る。

「土井も、志摩屋も、私も……同じだ。帳面の中で動く人間だ。帳面が一冊燃えたところで、世は変わらぬ」

「変わる」

 伊織は言った。

「人が立てば、帳面も変わる」

 内膳が、ふっと笑った。

「青いな」

 その瞬間、志摩屋の主人が突然叫んだ。

「助けてくれ!」

 そして内膳の背に抱きついた。

 裏切りだ。

 内膳の体が一瞬、崩れる。

 伊織はその隙を見逃さなかった。刀を打ち落とし、内膳の腕を捻る。甲板に叩きつける。

 刀が海へ落ちた。

 内膳の顔が、初めて歪んだ。

「貴様……!」

 志摩屋の主人は、震えながら叫ぶ。

「俺はもう終わりだ! あんたと一緒に海へ行く気はない!」

 岡野が飛び乗り、縄を投げた。

 内膳の腕に絡む。

 数息の格闘のあと、ついに神谷内膳は甲板に押さえつけられた。

 波の音が、舟の下でゆっくり鳴っている。

 伊織は息を整えながら、内膳を見下ろした。

「終わりだ」

 内膳はしばらく黙っていたが、やがて小さく笑った。

「終わりではない」

「まだ言うか」

「私は終わる」

 内膳は静かに言った。

「だが帳面は残る。土井が死に、志摩屋が捕まり、私が縛られても……次の土井、次の志摩屋、次の私が生まれる」

 伊織は答えなかった。

 その言葉は、ある意味で真実だ。

 世はすぐには変わらない。

 帳面も、欲も、また別の顔を作る。

 だが、それでも。

「だから」

 伊織は言った。

「そのたびに止める」

 内膳の目が、ほんの少しだけ細くなる。

「……武士だな」

 縄が締まり、神谷内膳は完全に捕らえられた。

 朝の光が、海の上に広がる。

 江戸の夜が、ようやく終わる。

 だが伊織には分かっていた。

 これは終わりではない。

 ただ一つの帳面が閉じただけだ。

 次の帳面は、すでにどこかで開かれている。

(第二十九章につづく)

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