――第二十七章 沈黙の御前――
夜明け前の江戸は、いちばん色がない。
空は白とも灰ともつかず、屋根の瓦も土の道も、人の顔さえ同じ色に沈む。色がないぶん、血の色だけが際立つ。伊織はそう思いながら、与吉郎を縄で縛ったまま、岡野とともに藩邸へ急いだ。
与吉郎は歩かせた。引きずれば口を利かぬ。歩かせれば、どこかで生きようとする。その生きようとする心が、次の言葉を吐かせる。
薬箱は伊織が抱えた。青い札の小瓶。白い粉。ほかにも名の知れぬ液や丸薬が詰まっている。薬は人を救うためのものだと、幼い頃には思っていた。だが今の伊織には、薬箱が小さな戦場にしか見えなかった。中に救いもあれば、毒もある。しかも見た目では分からぬ。人と同じだ。
岡野が低く言った。
「藩邸の正門は主馬殿の名で開く。だが内膳がまだ中にいるなら、表はもう“整えて”あるかもしれぬ」
「整えてある?」
「病に見せかける段取りです。医師、侍女、薬湯、枕元に置く文。……人が死ぬときより、生かして黙らせるときの方が、帳面は厚い」
伊織は、与吉郎を一瞥した。白首の男は青白い顔のまま、うっすら笑っている。
「藩主様が死ねば、老中が強く入る。だが生きて、口が利けず、物も言えぬなら……内膳殿は“藩主の御意”として何でもできる」
与吉郎が囁くように言った。
「便利でしょう?」
伊織は答えず、歩みを速めた。便利――その言葉ほど、人を壊す言葉はない。土井も言った。内膳も言った。便利のために人を黙らせる。便利のために火をつける。便利のために毒を盛る。便利とは、己の都合を飾る白布だ。
松代藩江戸屋敷へ着くころ、空はようやく薄く明るみ始めていた。正門の前には、昨夜よりさらに人が多い。槍の数も、番士の数も増えている。だがその槍は、外敵に向けたものではない。中の秘密を守るための槍だ。
岡野が主馬の文を示すと、番士たちの顔色が変わった。老中方の名は、夜明け前ほどよく利く。人が眠りきっておらず、度胸がまだ起ききっていない時間だからだ。
「開けよ」
岡野が低く言う。
門は開いた。だが開いた門の向こうの空気は重かった。庭石は濡れ、昨夜の血はすでに洗われている。血を消すのが早い。早いということは、消す理由がある。
戸沢半十郎が玄関先で待っていた。顔色は悪い。徹夜の顔だ。だが背は曲がっていない。
「伊織」
半十郎の目が、与吉郎と薬箱に落ちた。
「捕らえたか」
「はい。青い札の小瓶と白い粉が解毒に要ると」
半十郎は頷き、奥を顎で示した。
「藩主様はまだ息がある。だが目が濁っておられる。医師どもは“眠りが深いだけ”と言い張る。……内膳は、昨夜のうちに姿を消した」
伊織の胸に、冷たいものが沈んだ。逃げた。だが逃げる前に、藩主の床の間を“完成”させていったのだろう。藩主の口が封じられれば、内膳は藩主の影としてしばらく生きられる。
「主馬殿は?」
「すでに老中方へ二の報を入れた。だが老中も、藩主が生きておられる限り、すぐには“公”にしづらい」
生きているから厄介なのだ。死ねば断罪に進める。生きていて黙っていれば、権威だけが残る。権威が残れば、そこへ寄りかかる者が出る。内膳はそれを狙った。
奥へ通されると、屋敷は奇妙な静けさに包まれていた。人は動いている。女中が湯を運び、藩医が廊下を行き来し、侍たちが小声で話している。だがその静けさは、病人の屋敷の静けさではない。嘘を保つための静けさだ。
藩主の間の前には、二人の藩医がいた。どちらも顔色が悪い。寝不足だけではない。脅された顔だ。
半十郎が低く言った。
「医師は二人とも口が固いのではない。口を開けば死ぬと思っている」
岡野が一歩前に出た。
「老中方の改めだ。薬箱を見せよ」
藩医の一人が震える声で言った。
「すでに薬は――」
「見せよ」
岡野の声が鋭くなる。役人の刃だ。
藩医は観念したように、脇に置いてあった薬箱を差し出した。伊織は自分が持つ与吉郎の薬箱を隣に置いた。二つの薬箱。見た目は似ている。だが中身は違う。片方は人を眠らせる。片方は目を覚まさせる。あるいは、その逆かもしれぬ。薬とは、そういうものだ。
与吉郎を前へ引き出すと、藩医の顔が引きつった。
「こ、この方は……」
「知っているな」
伊織が言う。
藩医は唇を震わせたが、答えない。与吉郎が、縄をかけられたまま静かに言った。
「言ってもよろしいですよ。どうせ、もう隠しきれません」
その言葉に、藩医の膝が崩れそうになった。
「この者は、将軍家薬方の外筋とつながる御用人だ」
半十郎が低く言った。
「藩主様へ、何を飲ませた」
与吉郎は、わざと間を置いてから答えた。
「眠りを深くする薬です。量を違えれば、目は覚めても、ものが見えぬ。耳は聞こえても、言葉にならぬ」
伊織の拳が握られる。
「解毒は」
「青い札の小瓶と白い粉。湯に溶き、三度に分けて――」
「嘘をつけば、ここで舌を切る」
岡野が低く言う。
与吉郎はうっすら笑った。
「舌を切っても、薬の配合は消えません。だが時間は消えます」
それは真実だった。だから腹立たしい。真実を盾にする者ほど厄介だ。
半十郎が藩医へ目を向けた。
「できるか」
藩医は青ざめながら頷いた。
「……できます。ただし、効くかどうかは……」
「やれ」
半十郎の一言に、藩医たちは慌てて薬の支度にかかった。湯が運ばれ、小瓶が開かれ、白い粉が混ぜられる。薬の匂いが部屋に広がる。甘いようでいて、喉の奥に刺さる匂いだ。
襖が開き、藩主の寝所が見えた。
松代藩主は、白い布団の上に横たわっていた。顔色は土気色。まぶたは閉じられたままだが、息はある。細い。だが確かにある。死んではいない。死んでいないからこそ、重い。
伊織は畳の縁に膝をつき、その顔を見た。若い頃に一度、遠目に見たことがある。今はその面影すら薄い。権威は、病むとただの人の顔になる。だがそのただの人が、藩という大きなものを背負っている。背負っているから、周りが勝手にその口を使おうとする。
藩医が震える手で薬を飲ませた。半ば無理に。喉が動く。少しだけ。与吉郎の言った通り、三度に分けねばならぬ。一度で効かせれば、逆に止まる恐れがあるという。
待つしかない時間が流れた。
待つ時間ほど、人は弱くなる。
刀を振るうより、待つ方が難しい。
伊織はそれを痛いほど知った。
やがて、藩主の指が微かに動いた。
半十郎が身を乗り出す。
「藩主様……」
瞼が震え、わずかに開く。濁っている。だが完全には死んでいない。瞳の奥に、うっすらと意識の灯が戻りかけている。
伊織は息を止めた。
戻れ。
戻ってくれ。
藩主が一言でも発すれば、内膳の“藩主の御意”は崩れる。
藩主の唇が、わずかに動いた。
声にならぬ。空気だけが漏れる。
「……か……」
半十郎が涙を堪えるような顔で耳を寄せる。
「何でございます」
藩主の目が、ゆっくりと動いた。誰かを探している目だ。半十郎。伊織。あるいは、そこにいない誰か――。
再び、唇が動く。
「……な……」
藩医が首を振る。まだ言葉にならぬ。だが灯は戻りつつある。もう一服。あと一服で、もう少し戻るかもしれぬ。
そのとき、廊下の向こうで騒ぎが起きた。
「止まれ!」
誰かの怒声。走る足音。
伊織は反射的に振り向いた。
障子が乱暴に開き、一人の侍が転がるように入ってきた。血まみれだ。狐火ではない。松代藩の侍。胸を押さえ、必死に息をしている。
「半十郎様……!」
半十郎が立ち上がる。
「何だ」
「内膳が……!」
侍は血を吐きながら言った。
「内膳が、志摩屋と手を切り……蔵を燃やし……証を消しながら……城下を出ようとしています!」
伊織の胸が強く鳴った。
逃げる。
やはり逃げる。
寺ではなく、まず志摩屋を燃やし、口を塞ぎ、さらに江戸を出る。
土井が死に、帳面が押さえられ、藩主が戻りかけている。ならば自分だけでも生き延びる。それが内膳だ。
「どこへ向かう」
伊織が問う。
「……品川……海路で……」
品川。海。江戸を抜ける最短の逃げ道。内膳はそこまで読んでいたのだ。川から海へ。腹から外へ。土井の腹が裂けた瞬間、自分の皮だけ脱いで逃げる。
岡野が主馬の名を出して言った。
「追手を出す」
半十郎がすぐに首を振る。
「足の早い者だけでよい。大人数では遅い。……伊織」
その声に、伊織は立ち上がった。
「はい」
「行け」
半十郎の目は揺れていない。
「藩主様は、こちらで持ちこたえさせる。お前は内膳を止めろ。生きて口を割らせろ。死ねば、土井の後ろと、薬筋の背が途切れる」
伊織は頷いた。
これで道が一つになる。
寺か、藩か、志摩屋か、と選ばされ続けた道が、ようやく一本に絞られる。
内膳を捕らえる。
それが今、この物語の芯だ。
そのとき、藩主の唇がまた動いた。
半十郎が身を屈める。
「……戸……沢……」
確かに、そう聞こえた。
半十郎の目が見開かれる。
「藩主様」
藩主は、濁った目を開いたまま、次の言葉を絞り出そうとする。声は細い。だがそこに、権威ではなく、一人の人間の必死さがあった。
「……神谷……止……め……よ……」
その一言で、部屋の空気が変わった。
藩主の口が戻った。完全ではない。だが十分だ。
“内膳の御意”は消えた。
藩主自らが、神谷内膳を止めよと言った。
これで内膳は、藩の影ではなく、ただの逃亡者になる。
半十郎は深く頭を下げた。
「承りました」
伊織の胸の中で、何かが強く、静かに燃えた。
火ではない。
覚悟だ。
伊織は薬の匂いと血の匂いの残る部屋を出た。
主馬の名を借りた追手が、すでに用意されつつある。岡野も付く。だが先頭を走るのは伊織だ。品川までの道。海へ逃げる前に止めねばならぬ。海へ出れば、また別の帳面が始まる。
波瀾万丈の嵐は、ついに最後の背を追う。
背中を追うのではない。
背中の向こうにある“残りの腹”を断つために。
(第二十八章につづく)

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