山本周五郎を模倣し、江戸時代の武士の姿を描いた完全オリジナル小説『落日の士(サムライ)』第二十一章

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――第二十一章 火影の寺――

 夜の江戸を走ると、風が耳を裂くように鳴る。

 城下から寺までの道は遠くない。だが今夜は果てしなく長かった。石畳の響きが、胸の鼓動と重なって狂う。人を避ける余裕もない。避ければ遅れる。遅れれば燃える。

 寺の方角の空が、わずかに赤い。

 その色を見た瞬間、伊織の足がさらに速くなった。赤は夕焼けではない。夜の赤は火だ。

(間に合え)

 息が焼ける。肺が裂ける。だが止まれぬ。

 角を曲がったとき、焦げた匂いが鼻を刺した。寺の裏手の木立の向こうに、火影が揺れている。炎ではない。まだ煙だ。だが煙は、すぐ炎になる。

「狐火……!」

 伊織は低く唸り、塀を蹴って飛び越えた。

 境内は騒然としていた。鳶の若い衆が桶を運び、水をかけている。老僧が井戸の側で指図を飛ばし、母と志乃が水を汲んでいる。お澪は布団から起き出し、柱に寄りかかって火を見ている。

 火は本堂ではない。庫裏の裏の物置だ。乾いた薪と古い書付が積んである場所。そこが燻っている。火はまだ小さい。だが小さいうちに叩かねば、寺全体が燃える。

「水だ!」

 伊織が叫び、桶を奪って火元へ走った。

 煙の中で、黒装束が二つ動いた。狐火の手だ。火をつけて逃げるつもりが、鳶と老僧の動きが早く、まだ引ききれていない。

「榊原か」

 低い声がした。狐火の男が、火の向こうで笑う。

「遅ぇよ」

 伊織は桶の水を薪へ叩きつけ、そのまま突っ込んだ。煙の中で刃が光る。だが刀は抜かぬ。抜けば炎が映る。炎に刃は見える。見えれば多勢に囲まれる。

 伊織は体当たりで男を倒し、地面に押しつけた。もう一人が短刀で襲いかかる。新兵衛のいない背後。だが伊織は振り向かず、倒した男の体を盾にした。短刀が盾の背に刺さる。

 鳶の若い衆が飛び込み、棒で狐火の男を打った。狐火は身を翻して塀を越え、闇へ消えた。

 火は、水と土で叩き消された。煙だけが境内に残る。

 伊織は膝をつき、息を吐いた。肺が焼ける。だが寺は燃えていない。まだ生きている。

 母が駆け寄り、伊織の肩に手を置いた。

「伊織……」

「無事か」

「志乃も、お澪も……」

 志乃が近づき、涙で顔を濡らしながら頷いた。お澪も壁に寄りかかり、かすかに笑った。

「……遅いですよ……」

 その声に、伊織は胸の奥が崩れそうになるのを堪えた。

 老僧が静かに言った。

「狐火だけではない」

 伊織が顔を上げる。

「何だ」

 老僧は境内の隅を指した。そこに、黒い塊が転がっている。人だ。鳶の若い衆が取り押さえている。

 武士だった。狐火ではない。紋付の下に鎖帷子を着ている。藩の手だ。

「内膳の……」

 伊織が呟くと、武士が笑った。口から血を吐きながら。

「遅ぇよ……榊原……寺を燃やして、母親と妹を……」

 言葉が続かない。だが意図は明らかだ。狐火で火を起こし、混乱の中で母と志乃をさらう。土井の帳面を取り上げた報いだ。

 伊織は男の襟首を掴み、低く言った。

「内膳か」

 男は笑ったまま、首を振った。

「……もう遅ぇ……」

「何が」

「……藩主様が……」

 その言葉を最後に、男の目が虚ろになった。毒を噛んだ。舌の裏に仕込んでいたのだ。江戸の裏の死に方だ。

 伊織の拳が震えた。

「藩主……?」

 半十郎の顔が浮かぶ。藩主側近からの文。老中への端緒。内膳は、藩主にまで手を伸ばしたのか。

 老僧が低く言った。

「寺を燃やすのは、口封じではない。お前を引き戻すためだ」

「引き戻す?」

「お前が寺に戻れば、城下の手が遅れる。老中への道が遅れる。……その間に、藩で何かが起きる」

 伊織の胸が凍る。

 半十郎は藩へ連絡を取ると言った。主馬は老中へ上げると言った。そのどちらか、あるいは両方を潰すために、寺へ火を放ったのだ。

「新兵衛は」

 志乃が震える声で言う。

「新兵衛兄ぃは無事なんですか」

 伊織は答えられなかった。城下で別れたときの新兵衛の背が、煙の中で揺れる。

 そのとき、鳶の若い衆が駆け込んできた。

「伊織さん! 町で噂が回ってる! 松代藩の江戸屋敷で――」

 息を切らしながら叫ぶ。

「藩主様が、急病で倒れたって!」

 境内の空気が凍った。

 母が口を押さえ、志乃が声を失い、お澪が壁にしがみつく。

 老僧が目を閉じた。

「急病……」

 伊織は呟いた。急病などという言葉は、江戸では毒と同じ意味を持つ。

 内膳が藩主を倒した。藩の口を完全に握るために。老中へ上げる前に、藩の中を固めるために。

 半十郎は――。

「半十郎殿は」

 伊織の声が震えた。

 若い衆が首を振る。

「わからねぇ……だが藩邸は、内膳の手で固められてるって……」

 伊織は立ち上がった。足の震えを押さえ込む。

 寺は守った。だが藩が落ちれば、老中への口は潰れる。土井の帳面は宙に浮く。宙に浮いた帳面は、消される。

 志乃が伊織の袖を掴んだ。

「兄さま……」

 伊織は志乃の手を握り返した。

「ここを守れ」

「また……」

「今度は戻る」

 志乃の目を真っ直ぐ見て言った。嘘ではない。戻るために行く。

 母が静かに言った。

「行け。お前の道を行け」

 母の目には涙があった。だがその奥に、覚悟があった。武士の母ではない。だが武士より強い目だ。

 老僧が言った。

「伊織。藩へ行け。半十郎を助けろ。――老中への道は、半十郎が握っている」

 お澪がかすれ声で言った。

「……帳面を……持って……」

 伊織は懐を押さえた。焦げた紙片。帳面写し。主膳の印形袋は土井の机に置いた。だが牙はまだある。繋げば刃になる。

 伊織は新兵衛の顔を思い出した。縄に縛られても笑っていた男。

(待っていろ)

 寺の門を飛び出し、夜の江戸を再び走る。

 城下で動いた権力は、藩邸で牙を剥いた。

 波瀾万丈の嵐は、ついに藩の中枢へ吹き込む。

 剣の師が、盤の上で斬られようとしている。

 その前に、伊織は間に合わねばならぬ。

(第二十二章につづく)

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