山本周五郎を模倣し、江戸時代の武士の姿を描いた完全オリジナル小説『落日の士(サムライ)』第十八章

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――第十八章 牢の外、帳面の内――

 日本橋へ向かう道は、夜でも人が絶えなかった。江戸は眠らぬ。眠らぬのは活気ではない。欲が眠らぬのだ。欲が眠らぬ町では、正義も眠らぬ顔をする。正義の顔をした縄が、人の首へするりと掛かる。

 伊織は人混みの中を歩きながら、胸の内で二つの道を並べた。

 新兵衛を取り返す道。

 土井の腹を裂く道。

 本当は一本であってほしい。だが江戸は必ず二本に割る。割って、どちらかを捨てさせる。捨てた瞬間に折る。折られぬためには、二本を一本に束ねねばならぬ。束ねるための結び目が何か――それは、土井主計が何を恐れているかだ。

 土井は血を恐れぬ。血は帳面に載らぬからだ。

 土井が恐れるのは、帳面だ。

 伊織は懐の帳面写しに指を置き、心の中で言った。

(これで縛る)

 日本橋の蔵影で新兵衛が捕まったなら、まず連れて行かれるのは町方の詰所ではない。表の牢ではない。土井の手は表ではなく裏を使う。勘定所の裏手、あるいは小伝馬町の牢屋敷の“脇”。正義の顔を借りて、闇の手続きで人を消す。

 伊織は小伝馬町へ向かった。板橋で志乃を奪い返した町。牢の匂いがする町。あの匂いは鼻に残る。人の心を折る匂いだ。土井が新兵衛を折るなら、牢の匂いを嗅がせる。

 小伝馬町の牢屋敷は、夜でも番がいる。表の門は堅い。だが堅い門ほど、裏に穴がある。穴を知っているのは、役人ではなく、役人に物を渡す者――用達しの末端だ。

 伊織は、町外れの小さな酒肆に入った。ここは同心や下役が喉を湿らせる場所だ。酒臭い空気の中で、耳が動く。耳は刀より役に立つ。

 隅の卓に、二人の男がいた。紋付ではない。だが腰が据わり、目が無駄に動かぬ。役人の下役だ。伊織は酒を一杯頼み、さりげなく近づいた。

「小伝馬町は冷えるな」

 伊織が言うと、男の一人がちらりと見た。酔っているふりをしながら、目は醒めている。

「旅の人か」

「旅というより、迷いだ」

 伊織は笑うふりをして銭を置いた。銭は言葉より早い。男の目が銭に吸い寄せられる。

「迷いが牢へ迷い込むと、戻れぬぞ」

「戻れぬ者を、戻す用がある」

 男の表情が変わった。油断が消え、計算が乗る。

「誰だ」

「久世新兵衛」

 その名に、男の喉がわずかに動いた。知っている。噂が回っている。噂は役人の世界でも早い。

「……捕まったのか」

「どこにいる」

 男は一瞬黙り、酒を飲んだ。飲んでから、低く言った。

「牢には入ってねぇ」

「ならどこだ」

「勘定所の裏だ」

 伊織の胸が鳴った。やはりだ。牢の顔を借りずに、腹の奥へ引き込んだ。

「勘定所の裏へ行けば会えるか」

 男は笑った。

「会えるわけがねぇ。会えるのは、消えるときだ」

 もう一人の男が、口を挟んだ。

「おい、余計なことを言うな」

「余計なことは銭が黙らせる」

 最初の男がそう言って、銭を指で弾いた。

「……ただし、道はある。勘定所の裏には“帳場”がある。そこへ荷を入れる小口があってな、用達しの札があれば通る」

 伊織は頷いた。角の欠けた札。三つ巴。志摩屋の腹で聞き出した印。土井の隠し蔵の印。すべて繋がる。

「札はある」

 伊織が嘘をつくと、男の目が細くなる。

「あるなら行け。……だがな、札を持ってても通れぬことがある」

「何だ」

「今夜は“帳面の改め”がある」

 男は声をさらに落とした。

「土井主計が、何かを焼く準備をしてる。火鉢が多い。紙が多い。人も多い。――そういう夜に近づけば、虫けらのように潰される」

 伊織の背中が冷えた。土井が動く。帳面を焼く。つまり、新兵衛の口から何かが漏れたか、漏れる前に消すつもりだ。時間がない。

 伊織は銭をさらに置いた。

「帳面を焼かせぬ方法は」

 男は銭を見て、唇を薄く笑った。

「町方の目を向けさせろ」

「町方の目?」

「火事だよ」

 男は肩をすくめた。

「火事になれば、勘定所も表の顔を作らねぇといけねぇ。帳面を焼いてる暇がねぇ。火事で動く町方の目は、帳面より怖ぇ」

 伊織は黙って頷いた。火事――また火か。火は人を焼く。だが火は、闇を照らす。必要という名で、人は火を使う。伊織はその罪を知っている。だからこそ、今度は燃やさぬ火を使う。燃えた“ふり”の火だ。

「火を起こすなら、どこだ」

 男は顎で外を示した。

「勘定所の裏手、紙屑の溜まり場がある。あそこは乾いてる。煙だけでも十分だ」

 伊織は礼を言わずに立った。礼を言えば、情が残る。情が残れば足が止まる。止まれば新兵衛が死ぬ。


 勘定所の裏手へ回ると、風が冷たかった。塀の影に紙屑が溜まる一角があり、確かに乾いている。そこへ火をつければ、煙が上がる。煙が上がれば、表の門も騒ぐ。騒げば土井の手は帳面を隠す。隠せば、隠した場所が見える。

 伊織は火打石を取り出し、藁に火花を落とした。すぐ燃え上がらぬよう、油は使わぬ。煙を出すために、湿った布も混ぜた。火の扱いが上手になっている自分が、嫌だった。嫌だが、今は必要だ。

 煙が、ふっと上がった。白い煙が塀を舐める。次いで、叫び声。

「火だ!」

 走る足音。桶の音。役人の怒声。

 伊織は煙の陰に身を潜め、塀沿いを移動した。混乱の中ほど、目は散る。散った目の隙間を、刃が通る。

 裏の小口――荷を入れる木戸の前に、番が二人いた。普段より多い。帳面の改めの夜だ。警戒が厚い。だが煙で一人の視線が揺れる。その瞬間に、伊織は懐から札を出した。角の欠けた札――志摩屋のものに似せた札を、蔵番から銭で買ったものだ。偽物ではない。江戸の裏では、本物が銭で転ぶ。

「御用だ」

 伊織は低く言った。

 番が札を見る。眉が動く。

「どこの御用だ」

「土井主計殿の御用」

 番の目が一瞬揺れた。土井の名は、裏の合言葉だ。だが今夜は改め。札だけで通すわけにはいかぬ。

「中身は」

 伊織は一瞬迷い、懐の帳面写しに触れた。中身はこれだ。これを持ち込めば、土井の腹へ刃が入る。だが持ち込むには、言葉が要る。

「帳面だ」

 番が鼻で笑った。

「帳面なら表から回せ。裏へ入れる帳面は――」

 そのとき、煙が強くなり、奥で叫び声が増えた。

「土井様! 裏で火が!」

 番の一人が振り向く。その一瞬で、伊織は番の喉元に手刀を入れた。倒れる。もう一人が刀へ手を伸ばす。伊織は肘で腕を打ち、足を払う。倒れた男の胸へ膝を乗せ、口を塞いだ。殺しではない。だが動けぬ。

 伊織は木戸を押し開け、中へ滑り込んだ。

 勘定所の裏の廊下は薄暗く、忙しない足音が響く。火事騒ぎで人が走っている。伊織はその流れに逆らわず、流れに混じった。荷を運ぶふりをして、帳面のある方向へ――火鉢の匂いのする方向へ進む。

 部屋が見えた。障子の隙間から赤い灯。火鉢がいくつもある。紙を燃やす匂いが混じっている。焼ける紙の匂いは、誰かの人生の匂いだ。

(焼かせるな)

 伊織は障子を開けた。

 中には、土井主計がいた。机の前に座し、静かに紙を見ている。周囲には役人が三人。火鉢の上には、燃えかけの帳面の切れ端。朱印箱。印形。――そして、柱に縛られた男。

 新兵衛だった。

 口には布。顔に痣。だが目は死んでいない。笑っている。笑えるのは、生きている証だ。

 土井主計が伊織を見た。驚かない。最初から来ると知っていた目だ。

「榊原伊織。やはり来たか」

 伊織は刀を抜かなかった。ここで刀を抜けば、土井は勝つ。土井は血を望まぬ。血が出れば町方が動く。動けば土井は帳面を焼いて逃げる。土井を縛るには、血ではなく、帳面だ。

 伊織は懐から帳面写しを取り出し、机の上に置いた。

「これを渡す」

 土井の目が細くなる。

「渡す? 何のために」

「新兵衛を返せ」

 土井は薄く笑った。

「返す価値があると思うか」

「価値はお前が決めるな。世が決める」

 伊織は低く言った。

「この帳面写しは、藩邸へ渡す。藩邸は町方へ渡す。町方は世へ渡す。――世は帳面の匂いに敏い」

 土井は、初めて眉をわずかに動かした。世が動くことを、土井は嫌う。帳面の上で動く世は良いが、帳面の外で動く世は困る。

「お前は、世を味方につけられると思っているのか」

「世を味方につけるのではない」

 伊織は言った。

「世の前に出すだけだ」

 土井は、机の上の帳面写しに指を伸ばした。指先が触れた瞬間、土井の後ろにいた役人が動いた。伊織の背後へ回り、縄を投げようとする。

 伊織はそれを待っていた。縄が投げられる前に、伊織は机の上の硯をひっくり返した。墨が飛び、役人の目を潰す。伊織は足を踏み込み、役人の腕を捻り、縄を奪う。奪った縄で、逆に役人の手首を机の脚へ縛りつけた。

「動くな」

 伊織は低く言った。刀ではない。縄だ。土井の真似をする。縄で縛る。帳面の刃を、縄で止める。

 土井は静かに言った。

「面白い。……お前は学んだな」

「学んだ。だから返せ」

 伊織は柱の新兵衛へ目を向けた。

 土井は、一瞬だけ沈黙した。沈黙は計算だ。計算の末、土井は笑った。

「返してやってもいい」

 伊織の胸が硬くなる。こういう“いい”は、必ず罠だ。

「ただし条件がある」

「何だ」

「富岡主膳の印形袋を置いていけ」

 伊織は一瞬、息を止めた。主膳の印形は牙だ。それを置けば、内膳を縛る力が減る。だが新兵衛が死ねば、牙を振る腕がなくなる。

 土井は続けた。

「それと――お前の妹と母を、こちらへ預けろ」

 伊織の喉が鳴った。土井は、あくまで折れるものを差し出せと言う。折れるものを差し出せば、次の折れるものを要求する。要求は終わらぬ。

 伊織は静かに言った。

「お前は欲深い」

「腹が空けば欲は深くなる」

 土井は淡々と言った。

「幕府の腹は大きい。だから常に空いている」

 伊織は、机の上の帳面写しを指で押さえた。

「なら、こちらも条件だ」

 土井の目が細くなる。

「言え」

「新兵衛を返す。帳面の改めを止める。燃やしかけた帳面の切れ端を全部、ここへ並べろ。――並べれば、印形袋は置く」

 土井が初めて笑いを消した。

「並べても、意味はない。切れ端だ」

「切れ端でも繋がる」

 伊織は言った。

「繋げば世が動く。世が動けば、土井の腹は痛む」

 土井は数息黙り、やがて一つ頷いた。

「……よかろう」

 役人に命じ、火鉢の上から燃えかけの紙を箸でつまみ出させた。机の上に並ぶ。焦げた匂い。印の半分。数字の欠け。欠けたものほど、繋げば強い証になる。

 伊織は、その瞬間を待っていた。

 土井が帳面の切れ端へ目を落とした瞬間――伊織は懐から火打石を出し、机の上の油紙へ火花を散らした。油紙はすぐ燃える。小さな火。だが火は、煙を生む。煙は目を散らす。

「何をする!」

 役人が叫ぶ。

「火事だ!」

 伊織は叫びながら、柱の新兵衛の縄へ飛びついた。切る。布を外す。新兵衛が息を吐いて笑った。

「遅ぇよ」

「遅くない」

 伊織は低く言い、帳面の切れ端を掴んで懐へ押し込んだ。全部ではない。半分だけ。半分は机に残す。残しておけば、土井は“残り”を守ろうとして動く。動けば尻尾が出る。

 土井主計が、初めて声を荒らげた。

「榊原!」

 伊織は振り返り、主膳の印形袋を机へ投げた。条件の半分は渡す。だが人質は渡さぬ。取引の形を作り、時間を稼ぐ。火は燃え広がらぬよう、油紙だけに留めた。煙だけが上がる。煙は混乱を生む。混乱は逃げ道になる。

 伊織と新兵衛は、役人の走る廊下へ飛び出した。煙に紛れ、荷運びの流れに混じり、裏口へ向かう。背後で怒声。だが土井は大声を出せぬ。大声を出せば、町方が本気で来る。土井は表の顔を守らねばならぬ。

 裏口を抜けたところで、新兵衛が肩で息をしながら笑った。

「お前、ほんとに江戸になったな」

「なりたくてなったわけではない」

「いいや。なった方が強ぇ」

 新兵衛は咳き込み、唇の端の血を拭った。

「で、何を取った」

 伊織は懐の焦げた紙片を押さえた。

「切れ端だ。だが繋げば刃になる」

 新兵衛が目を細めた。

「繋げる場所は?」

 伊織は、日本橋の灯の向こうを見た。世に出すには、藩邸では遅い。町方に渡すには、土井が先に潰す。なら、もっと“逃げられぬ場所”へ繋ぐ必要がある。

 伊織の口から出た名は、苦かった。

「老中だ」

 新兵衛が吹き出した。

「老中? お前、死にに行くのか」

「死なぬために、死ぬほどの場所へ持って行く」

 伊織は低く言った。

「土井は勘定所だ。勘定所の不正は、勘定所の内では消せる。だが老中の前で帳面を繋げば、消せぬ」

 新兵衛は歯を鳴らし、やがて笑った。

「波瀾万丈ってのは、こういうのを言うんだな」

 伊織は笑わなかった。笑えば軽くなる。軽くなれば足が止まる。足を止める暇はない。

 寺には母と志乃とお澪がいる。

 土井は人質を諦めていない。

 内膳も、狐火も、志摩屋も、まだ動く。

 伊織は新兵衛の肩を支え、夜の江戸を再び歩き出した。

 牢の外に出ても、帳面の内はまだ牢だ。

 その牢を壊すには、帳面を武士の刃に替えるしかない。

(第十九章につづく)

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