山本周五郎を模倣し、江戸時代の武士の姿を描いた完全オリジナル小説『落日の士(サムライ)』第十六章

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――第十六章 日本橋の蔵影――

 目潰しの粉は、涙と一緒に怒りを滲ませた。

 伊織は畳に膝をつき、袖で目を押さえた。痛みは鋭く、視界は白い。白いというより、雪が眼球の裏に張りついたような感覚だ。耳だけが冴えている。畳を擦る音、障子の開く音、呼吸の乱れ――そして母の息づかい。母が生きている。そこだけが、伊織を踏みとどまらせた。

「伊織……!」

 母の声が近い。手が肩に触れる。震えている。母の手の震えは、恐れだけではない。怒りも混じっている。息子が闇の中へ沈むことへの怒りだ。

「目を擦るな」

 伊織は低く言った。自分に言っているのか、母に言っているのか分からぬ。擦れば余計に痛む。痛みは判断を鈍らせる。

 足音が遠ざかる。帳面の男と内膳の側近――いや、あれはもう側近ではない。内膳と土井の両方に繋がる“手”だ。そいつらが、志乃をどこかへ移す気配はない。志乃は蔵の外だ。いまここにいるのは母だけ。母を残したのは、餌の残り香だ。伊織の心を揺らすための残り香。

(志乃は……別口へ出した)

 耳の奥で、新兵衛の声が探せない。新兵衛は別口から入るはずだった。だが合図も叫びもない。騒ぎを起こせば、ここは志摩屋の腹の中、出口が塞がる。新兵衛は動けないか、動かずにいるか――どちらにせよ、伊織はここで立ち止まれぬ。

 伊織は、袖で涙を拭い、目を薄く開けた。白い霞の向こうに、ぼんやりと障子の輪郭が見える。見えぬよりはいい。足元が分かれば、死なぬ。

 母が囁いた。

「志乃は……どうなった」

「生きている」

 伊織はそう言った。確信ではない。だが母の前で、息子が折れるわけにはいかぬ。折れれば母が折れる。母が折れれば、志乃も折れる。

「伊織……」

 母が言いかけたが、伊織は首を振った。

「今は言葉をしまえ。ここは耳が多い」

 母は唇を結び、頷いた。母は武士の妻ではない。百姓でもない。名もない女だ。だが“息子を守る目”を持っている。その目が、伊織の背を支える。

 伊織は母を背負った。もう迷わぬ。志摩屋の腹にいる以上、腹の奥へ押し込まれるのを拒むより、腹の奥で腹を裂くしかない。

 蔵番のいた木戸へ戻る。蔵番は、伊織の顔を見て目を細めた。

「……生きて出てきたか」

「出てきた。次は出す」

 伊織が言うと、蔵番が鼻で笑った。

「出す? 誰をだ」

「妹だ」

 蔵番の目が一瞬揺れた。情の揺れではない。計算の揺れだ。妹を出すということは、志摩屋の腹の中で“何か”が起きた証になる。証は火種だ。火種は嫌うが、火種は金にもなる。

「金は」

 蔵番が短く言った。

「払う」

「今払え」

 伊織は懐から銭を出した。持ち銭の半分。痛い。だが痛みは必要経費だ。江戸では、命と金は同じ皿に載る。

 蔵番は銭を受け取ると、木戸をわずかに開けた。

「出るなら出ろ。……だが戻るな。戻れば今度は骨も拾えねぇ」

「骨は拾わぬ」

 伊織は低く言った。

「骨のあるうちに、刃を入れる」

 蔵番が、ふっと笑った。

「いい目だ。……江戸の目になった」

 伊織は母を背負ったまま木戸を抜け、路地へ出た。夜の冷気が目の痛みを少し和らげる。深く息を吸う。乾物の匂いの奥に、川の匂いがある。生きている匂いだ。

 路地の角に、新兵衛が立っていた。血が頬に滲み、目が笑っていない。

「無事か」

「無事ではない」

「だろうな」

 新兵衛は母を見て、短く頭を下げた。

「……お袋さん、すまねぇ」

 母は新兵衛を見て、静かに言った。

「謝るな。謝る暇があるなら、志乃を助けてくれ」

 新兵衛の眉がわずかに動き、口元が引きつった。母の言葉は、男の虚勢を剥ぐ。

「志乃は?」

 伊織が問う。

「見失った」

 新兵衛が吐き捨てた。

「志摩屋の裏から出されたのは確かだ。だが行き先が二つに割れた。狐火が一手早い」

「二つ?」

「一つは舟。もう一つは駕籠だ」

 伊織の胸が鳴った。

「舟はどこへ」

「日本橋方面へ流れた」

「駕籠は」

「小伝馬町の方角へ」

 伊織は目を押さえた。痛みが再び走る。だが痛みより、選択が重い。二つの道。片方を選べば、片方を失う。

 母が背で小さく言った。

「志乃を……」

 伊織は息を吐いた。

「志乃を追う」

 その言葉を言った瞬間、母の体がふっと緩んだ。だが同時に、伊織の胸の奥で別の重みが増す。志乃を追うなら、土井の隠し蔵へ行く道が遅れる。遅れれば、帳面の刃がさらに深く入る。だが志乃を捨てて帳面に向かえば、伊織は人として終わる。終わった人間が、帳面に勝てるはずがない。

「土井の隠し蔵は日本橋だ」

 伊織が言うと、新兵衛は舌打ちした。

「どっちも日本橋に絡む。あいつらはわざと絡めやがる」

「絡めて、切らせる」

「切らせねぇよ」

 新兵衛が低く言った。

「分けるぞ。俺が日本橋へ行く。お前は志乃を追え。お袋さんは――」

 新兵衛は母を見て言いよどんだ。

 母は自分で言った。

「私は寺へ行く。あの坊さまのところへ」

 伊織は迷った。だが母の目は揺れない。守られるだけの存在ではない。守る側に立とうとしている。

「……頼む」

 伊織は短く言った。新兵衛が歯を見せて笑う。

「坊主の寺は危ねぇが、今はそこが一番ましだ。俺が道を付ける」

 母は背を降り、足で立った。震えているが立つ。伊織は母の手を握り、ひとつだけ言った。

「生きて待て」

 母は頷いた。

「お前もだ」


 伊織は小伝馬町へ向かった。駕籠は大通りを通る。目立つが速い。速いが、目立つぶん、追えば足もつく。狐火が選ぶなら、目立つ方に“別の目立たなさ”を仕込む。つまり、駕籠の行き先は、表向きは小伝馬町。だが途中で抜け道がある。

 小伝馬町――牢屋敷のある町。町の空気が重い。罪人の呻きと役人の足音が、土の下から聞こえてくるようだ。ここへ志乃を連れて行く理由は一つ。脅し。牢の匂いで折る。

(内膳のやり口だ)

 伊織は路地の影から影へ移り、駕籠の通り道を探った。ほどなく、駕籠が見えた。黒塗りの駕籠。供の男が二人。足が武家。さらに少し離れて、黒装束の影が一つ。狐火だ。

 伊織は距離を保ち、駕籠を尾けた。駕籠はまっすぐ牢屋敷へ向かう――と見せて、途中で横丁へ折れた。横丁は狭く、人が少ない。ここで手を入れるつもりだ。

(ここだ)

 伊織は息を殺し、駕籠が角を曲がる瞬間に走り出た。供の男の背に近づく。刀は抜かない。抜けば騒ぎになる。騒げば牢屋同心が出る。狐火はそれを望む。望む形で騒いではならぬ。

 伊織は供の一人の肩へ体当たりし、よろけさせた。男が怒鳴る。

「何をする!」

 伊織は謝るふりをしながら懐へ入り、男の腰の縄を切った。縄が落ちる。男が気づいた時には、伊織はもう駕籠の背へ回っていた。

 駕籠の扉を開ける――その瞬間、背後から短刀が来た。

 狐火の影だ。

 伊織は身を捻り、短刀を避け、肘で相手の腕を打つ。狭い横丁で、息がぶつかる距離。狐火の男は目だけ笑っている。

「遅ぇよ、榊原」

「遅くない」

 伊織は低く言い、駕籠の扉を蹴った。中から小さな叫び声。

「兄さま!」

 志乃の声だ。確かにいる。生きている。

 伊織の胸が一瞬、熱くなる。その熱を刃に変える。

 狐火の男が短刀を突く。伊織は鞘で受け、鞘ごと相手の顔を打った。骨が鳴る。男がよろめいた瞬間、伊織は駕籠の中へ手を伸ばし、志乃の腕を掴んで引きずり出した。

 志乃は手首を縛られ、口に布を当てられていた。伊織は布を外し、縄を切る。

「走れ」

「兄さま……」

「走れ!」

 志乃は頷き、伊織の後ろへ回った。狐火の男が笑いながら立ち上がる。

「連れて行け。だが、その先は――」

 男が指を鳴らした。

 横丁の両端に、影が二つ現れた。武家の足。内膳の手。狐火と藩が混じっている。縄は一本だ。縄の先は土井の腹へ繋がる。

 伊織は志乃を背に庇い、低く言った。

「新兵衛が日本橋へ行った。お前らの腹を裂く」

 影の一つが笑った。

「裂けると思うか」

「裂く」

 伊織は短く言い、懐から小さな札を投げた。三つ巴の印がある札――志摩屋の腹で聞き出した合図の一つを、わざと見せたのだ。影の動きが一瞬止まる。

 その一瞬で、伊織は横丁の脇の板戸を蹴破った。中は空き家。埃の匂い。志乃の手を引き込み、裏口へ抜ける。板戸の向こうで怒声が上がるが、狭い家の中は追手の動きを鈍らせる。

 伊織は息を切らしながら志乃に言った。

「目を閉じるな」

 志乃は涙をこぼしながら頷いた。

「……怖い」

「怖くても走れ。怖いまま走れ」

 その言葉は、志乃に言っているようで、伊織自身に言っていた。怖いまま走れ。怖さを消そうとすれば、足が止まる。止まれば折られる。

 裏路地を抜けた先で、伊織は一度だけ空を見上げた。

 日本橋の方角に、薄い灯が揺れている気がした。新兵衛がそこで何を見ているのか、伊織には分からぬ。だが、土井の腹に刃を入れるには、新兵衛が要る。志乃を守るには、母が要る。お澪が生きるには、老僧が要る。すべてが絡み合っている。

 波瀾万丈の嵐は、絡み合った縄を一本ずつ断ち切る嵐だ。

 伊織は志乃の手を強く握り、闇の中を走り続けた。

(第十七章つづく)

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