山本周五郎を模倣し、江戸時代の武士の姿を描いた完全オリジナル小説『落日の士(サムライ)』第十四章

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――第十四章 板橋の風――

 江戸の北へ向かう風は、深川の湿り気とは違う乾きがあった。土の匂いが混じり、街道の砂埃が鼻にかかる。板橋――中山道の入口に近い宿場は、江戸の外縁でありながら、江戸の欲が滲み出る場所でもある。行商人、旅籠の客引き、飛脚、浪人、そして――何かを隠して運ぶ者たち。人の出入りが多いほど、影も多い。

 伊織と新兵衛は、武家地の追手を町人の群れでいったん散らし、ひたすら北へ走った。足は重く、息は荒い。それでも止まれば終わる。内膳が見せた志乃の髪飾りの赤い紐が、目の奥に焼きついて離れなかった。

「板橋は広いぞ!」

 新兵衛が走りながら叫ぶ。

「広いからこそ、絞れる」

 伊織は答えた。広い場所では、逆に人は決まった動きをする。母と志乃が連れられているなら、旅姿で、誰かが護衛をつけ、目立たぬように旅籠へ入れるか、飛脚問屋の裏へ入れるか、あるいは寺へ――。内膳のやり口は「武家の顔」で縛る。ならば、武家の者が出入りしやすい場所に落とすはずだ。

 板橋宿に入ったころ、昼の鐘が鳴っていた。行き交う人々の声に混じり、茶屋の呼び込みが響く。

「お侍さま、団子はいかがで!」

 伊織は視線だけで街道をなぞった。旅籠の暖簾、馬子の溜まり、飛脚問屋の札、寺の屋根。――そして、道端で客を呼ぶ男たちの目。普通の目ではない。旅人を値踏みする目ではなく、誰かを探す目だ。

(いる)

 伊織は足を緩めず、しかし急ぎすぎずに歩いた。走れば目立つ。目立てば囲まれる。焦りは敵だ。だが焦りを押し殺しすぎれば、手遅れになる。

 新兵衛が小声で言った。

「どう見る」

「まず“連れている者”を探す。女が二人なら、旅籠の女中の目が走る。子がいれば、泣き声が出る。出ないなら、口を塞いでいる。――つまり、夜まで動かさぬ場所に隠す」

「夜まで動かさねぇ場所?」

「飛脚問屋の裏、あるいは旅籠の奥。板橋は“待ち”の宿場だ。江戸に入る前、あるいは江戸を出る前、荷と人を整える」

 伊織は、飛脚問屋の札が掛かった家の前で立ち止まった。出入り口が二つある。表は荷の受け渡し、裏は人の出入り。裏口の雪が踏み荒らされている。足跡が新しい。

「ここだ」

 伊織が呟いたとき、軒下から一人の男が出てきた。頭巾で顔を半分隠し、腰に短刀。だが歩き方は武家。目が鋭い。伊織と目が合うと、一瞬で視線を逸らした。

(藩の者)

 伊織は新兵衛に目配せし、男を尾けた。男は通りを横切り、旅籠「松葉屋」へ入る。客引きの女が笑顔で迎えるが、男は笑わず、札だけ見せて奥へ通った。

「松葉屋だ」

 新兵衛が唸った。

「板橋で一番大きい旅籠だ。武家も泊まる。――つまり隠すには最適」

 伊織は、旅籠の向かいの茶屋に入り、二人で団子を頼んだ。食うためではない。座って見張るためだ。茶屋の婆が愛想よく湯を注ぐ。

「ご旅の旦那方、今日は板橋も賑やかで」

 伊織はさらりと聞いた。

「武家のお客が多いのか」

「ええ、ええ。この頃はめっきり。お偉いさんは泊まりませんが、手の者は出入りしますよ。ほら、さっきも紋付の方が裏から――」

 婆は口が軽い。だが江戸の端の婆の口は、時に金より強い。

「裏から?」

「ええ。表は目立ちますからね。裏口へ回って……女連れでねぇ」

 伊織の指が団子を握りつぶしそうになった。

「女連れ?」

「旅の女ってぇより、なんだか……妙にしおらしい母子みたいで。子の方は若い娘さんで、ずっと俯いて――」

 伊織の胸が凍った。志乃。母。間違いない。だが婆の言い方に、ひとつ引っかかりがあった。

「子が若い娘?」

「ええ。背ぇがすらりとした。髪に赤い紐が――」

 赤い紐。志乃の髪飾り。内膳が持っていたはずのものが、娘の髪に戻っている。つまり――わざと見せている。餌だ。

 新兵衛が目で問う。伊織は微かに頷いた。

「松葉屋の裏だ」

「罠だぞ」

「罠でも行く。罠だと知っている分、踏み方を選べる」

 伊織は銭を置き、茶屋を出た。松葉屋の裏手へ回るには、路地を二つ抜け、厠の脇を通る。裏口には番がいるはずだ。番は人を通す番ではない。人を殺す番だ。

 裏路地の角で、伊織は立ち止まった。鼻をくすぐる匂い――薬草。寺で嗅いだ匂いに似ている。旅籠に医者が出入りしたのか。それとも――眠り薬でも使う気か。

(急ぐ)

 伊織は新兵衛に言った。

「俺が表から入る」

「正面からかよ」

「正面から“客”として入る。裏はお前が張れ。裏で動きがあれば合図しろ」

「合図って何だ」

 伊織は懐から、主膳の印形袋ではなく、土井の帳面写しを軽く叩いた。

「火だ。騒ぎを作る。だが今度は燃やさぬ。燃えたふりをさせる」

 新兵衛がにやりと笑った。

「江戸になりやがったな」

「江戸に勝つためだ」


 伊織は旅籠の表から入った。浪人姿でも、銭さえ出せば宿は取れる。女中が愛想よく迎え、帳場の男が値踏みする目で伊織を見た。

「お一人様で?」

「一人だ。急ぎ旅だ。奥の静かな部屋を」

「へい」

 伊織は銭を多めに置いた。金は縄にもなるが、扉も開く。

 案内されたのは二階の端の部屋。窓からは裏庭が見える。ここなら裏の動きが伺える。伊織は障子を少しだけ開け、息を殺した。

 しばらくして、裏庭の向こう、離れの障子が開く。女中が湯を運び、すぐ出る。続いて、頭巾の男が二人、出入りした。武家の足。狐火の影も混じる。

(罠は確かだ)

 だが、罠は罠であるほど、餌は本物だ。母と志乃がここにいる可能性は高い。内膳が言った「向かわせておる」が意味するのは、途中で攫って運ぶのではなく、最初から“ここ”へ運ばせることだ。江戸へ向かわせているように見せ、板橋で止める。江戸に入る前の喉元で、首根っこを掴む。

 伊織は、二階の廊下へ出た。人の目が多い。だが人の目が多いほど、目は散る。伊織は客のふりをして、階段を降り、帳場の近くを通り、厠へ向かった。厠の脇から裏へ回れる。そこが抜け道だ。

 厠の戸を開けるふりをして、伊織は脇の板塀の陰に滑り込んだ。足音を消し、裏庭へ出る。

 裏庭の一角に、離れへ通じる小道がある。そこに番が一人。浪人風だが、姿勢が武家。目が鋭い。刀を抜かず、指先だけがいつでも動ける。

 伊織はわざと足音を立てた。

「誰だ」

 番が振り向いた瞬間、伊織は近づき、低く言った。

「松代藩の者だ。内膳殿の命で来た」

 番の目が揺れた。合言葉に反応した。だが揺れは一瞬で、すぐ硬くなる。

「名を」

「榊原伊織」

 番の顔色が変わった。名はもう、刃になっている。

「……来るなと言われている」

「来た。退け」

 番が短刀へ手を伸ばした。伊織は、その手首を押さえた。斬らない。だが動かさない。相手は抵抗するが、伊織は体重をかけ、相手を板塀へ押しつける。

「母と妹はどこだ」

 番は歯を食いしばり、唾を吐いた。

「……遅ぇ」

「何が遅い」

 番が笑った。笑いは薄い。

「もう移した。お前が表から入った時点で、俺たちは気づいてた」

 伊織の胸が冷えた。

「どこへ」

「……言うわけがねぇ」

 伊織は拳を振り上げた。だが、その拳が落ちる前に、離れの障子が開いた。

 そこに立っていたのは――母だった。

 細い肩。白い手。凍えたような顔。だが目は生きている。隣に志乃がいた。髪に赤い紐。唇を噛み、泣くまいとしている。

「……伊織」

 母の声が震えた。

 伊織の喉が詰まった。罠だと知っていたのに、姿を見た瞬間、足元が揺れる。人は、理屈より先に血で動く。

 志乃が小さく叫んだ。

「兄さま!」

 その瞬間、屋根の上で弦が鳴った。

 ひゅ、と矢が飛ぶ。

 伊織は反射的に母と志乃の前へ飛び出した。矢は伊織の肩をかすめ、血が滲む。二度目の矢が来る。伊織は母と志乃を抱えて障子の陰へ押し込めた。

「伏せろ!」

 番が笑い、身を捻って逃げようとする。伊織はその襟首を掴み、低く唸った。

「誰の命だ」

 番の目が光った。

「土井だよ」

 伊織の胸が、ぎり、と鳴った。やはり腹は土井だ。

 そのとき、裏庭の向こうで叫び声が上がった。

「火だ! 火事だ!」

 煙が上がる。だが炎は見えない。新兵衛が“燃えたふり”を仕掛けたのだ。人が動き、女中が走り、桶が飛ぶ。混乱が生まれる。混乱は、逃げ道になる。

「今だ!」

 新兵衛の声がした。裏塀の向こうから、板が倒れる音。抜け道を作った。

 伊織は母と志乃の腕を取り、走った。志乃は震えているが、走れる。母は息が切れ、足がもつれる。それでも伊織の腕に縋り、必死に動く。伊織は背に母を負った。志乃の手を掴み、新兵衛のいる塀の穴へ飛び込む。

 追手の足音が迫る。矢がまた飛ぶ。塀の板に刺さり、木屑が散る。

 新兵衛が叫ぶ。

「こっちだ! 川へ出る!」

 四人は裏道を駆け、川沿いへ出た。舟が一艘、待っている。新兵衛が手配した舟だ。船頭が青い顔で手招きする。

「早く!」

 母を舟へ乗せ、志乃を押し込む。伊織が最後に飛び乗り、櫂を取った。舟が水を切る。背後で怒声。矢が水面に刺さる。追手の舟が出る気配もある。

 だが板橋の水路は狭く、曲がりくねっている。舟は蜘蛛の巣のような水路へ滑り込み、追手の大きな舟は入れない。新兵衛が舳先で振り返り、歯を見せて笑った。

「逃げ切ったな」

 伊織は肩の血を押さえながら、母と志乃を見た。母は涙をこぼし、志乃は歯を食いしばっている。

「兄さま……どうして……」

 志乃が震える声で言った。

「話は後だ。今は生きろ」

 母が伊織の頬に触れた。冷たい手。

「伊織……お前は……」

 言葉にならない。母はただ頷き、涙を拭った。

 舟が暗い水路を抜け、少し広い川へ出るころ、板橋宿の喧騒は遠のいた。だが伊織の胸は、少しも軽くならない。守るべき者を救い出した――それは勝ちではない。綱が一本増えただけだ。土井は、今度は母と志乃を“取り戻す”ために動く。狐火も藩邸も幕府も、さらに絡みつく。

 新兵衛が低く言った。

「次はどうする。深川へ戻るか」

 伊織は、母の震える肩と、志乃の赤い紐を見つめた。お澪が熱にうなされている寺のことも思い出した。守るべき命が、いま伊織の周りに集まりすぎている。集まりすぎれば、守りきれぬ。

「隠す」

「どこへ」

 伊織は、老僧の顔を思い浮かべた。あの寺は、守りの場ではない。あそこまで狙われている。ではどこへ――。

 伊織の口から出たのは、意外な名だった。

「志摩屋の“裏”だ」

 新兵衛が目を剥いた。

「敵の懐だぞ!」

「敵の懐は、敵が“安全”だと思っている。だからこそ、目が薄い」

「正気じゃねぇ」

「正気で勝てる相手ではない」

 伊織は櫂を握りしめた。

 土井主計は帳面で人を斬る。内膳は武士の顔で人を縛る。狐火は火事で人を動かす。

 ならばこちらは――敵の腹の中で、腹を裂く。

 板橋の風は冷たかった。だが伊織の決意は、その風よりもさらに冷たく硬かった。

(第十五章につづく)

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