山本周五郎を模倣し、江戸時代の武士の姿を描いた完全オリジナル小説『落日の士(サムライ)』第十二章

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――第十二章 帳面の刃――

 羽織の男の笑いは、薄氷の上を指でなぞるように冷たかった。

「土井主計様は、お前を待っておられた」

 待っている――それは罠の言葉だ。来ると読んでいた者が、わざわざ待つには理由がある。理由は二つ。取り込むか、殺すか。あるいは両方だ。取り込んでから殺す。それが江戸の手順である。

 伊織は一歩引かず、目を逸らさなかった。

「主計殿に会わせろ」

 羽織の男は肩をすくめた。

「会うのはたやすい。だが、会えば戻れぬぞ」

「戻る場所は、とうに消えた」

 男は小さく息を吐いた。嘲りでも驚きでもない。値踏みの吐息だ。

「よし。ついて来い。――だが、その前に」

 男は顎で辰蔵を示した。

「こいつは置いていけ。口が軽い」

 辰蔵が慌てて手を振った。

「へへ、旦那、俺ぁ軽くなんか――」

 羽織の男が視線を向けるだけで、辰蔵の口が閉じた。目に見えぬ縄が、喉を締めるように働いた。

「久世さん!」

 辰蔵が新兵衛に縋るように言った。

「俺ぁただ、金で――」

「金で動く奴は、金で止まる」

 新兵衛が低く言い、辰蔵を塀の陰へ押しやった。

「そこで黙ってろ。生きていたけりゃな」

 辰蔵は唇を噛み、うなずいた。江戸の末端は、命の値段をよく知っている。

 伊織と新兵衛は羽織の男の後に従い、勘定所の裏手の細い路地へ入った。表の門からは想像もつかぬほど、地味で、狭く、薄暗い。権力の腹は、表ではなく裏で蠢く。

 木戸を抜けると、土間の広い蔵のような建物があり、帳面を抱えた役人が忙しなく行き来していた。荷を担ぐ下男、印形箱を持つ手代、紙を運ぶ小者――誰もが口を利かず、足音だけが規則正しく響く。その規則正しさが不気味だった。人の心が抜かれ、帳面の歯車にされている。

 羽織の男が、役人の一人に札を見せた。役人は一礼し、無言で奥へ案内する。途中、伊織の背に視線が刺さる。目が多い。だが声はない。声がない分、刺さる。

 薄暗い廊下を抜け、障子の前で止まった。羽織の男が言った。

「ここだ。中へ」

 伊織が障子を開けると、部屋は意外に質素だった。だが質素というのは、贅沢の裏返しである。余計なものを置かず、要るものだけで人を支配する。部屋の中央には低い机。上には帳面が積まれ、硯と筆が置かれ、朱印の入った箱が一つ。窓は小さく、外の光が薄く差すだけだ。

 机の向こうに座していた男が、顔を上げた。

 四十前後。痩せた頬。目が細く、唇が薄い。武士の顔ではない。町人の顔でもない。役人の顔――何かを「数」として見る顔だ。

 土井主計。

 伊織は、胸の奥で名を確かめた。名に触れたというより、冷たい水に触れた感覚だった。

「榊原伊織」

 土井は、驚くほど柔らかい声で言った。

「来ると思っていた」

「待っていたと言う者がいた」

「待っていた。――だが殺すためではない」

 伊織は、信じなかった。信じれば死ぬ。だから、信じぬまま聞く。

「では何のためだ」

 土井は帳面を一冊、指先で押し出した。

「これを見るがよい」

 伊織は近づき、帳面を開いた。数字が並び、印があり、借財の額、返済期日、利息、名義――そこに「松代藩」の名が繰り返し出てくる。さらに、その下に志摩屋の符牒、富岡主膳の花押。伊織が見た証文と同じ流れが、ここにもある。

「……あなたが持っている帳面だ」

「勘定所の帳面だ。世の腹がどこへ流れたか、ここに書いてある」

 土井の声は淡々としている。恨みも喜びもない。だから恐ろしい。

「富岡主膳は、駒にすぎぬ。志摩屋も、狐火も、ただの道具だ」

「では、あなたが腹だ」

 土井は薄く笑った。

「腹? 違うな。腹は幕府そのものだ。私はただ――腹の具合を整える係だ」

 伊織は帳面を閉じた。

「整えるために、藩を売るのか」

 土井は平然と言った。

「藩が滅びれば、年貢が途切れる。年貢が途切れれば、幕府の腹が空く。腹が空けば、江戸が荒れる。江戸が荒れれば――刀では止まらぬ。だから藩は生かす」

「生かすために、何を奪う」

「奪う? 言い方が違う。必要なところへ流すだけだ」

 主膳と同じ言い回し。伊織の背筋に、同じ冷えが走る。駒を動かす者たちは、同じ言葉を使う。

 土井は、さらに静かに言った。

「榊原伊織。お前は今、正しさを振りかざしている。だがお前の正しさは、誰を救う」

「藩の民を――」

「民は救われるかもしれぬ。だが、その代わりに何人死ぬ」

 伊織は答えなかった。答えれば、数字が出てしまう。弥吉が倒れ、お澪が矢を受け、長屋が燃え、顔も知らぬ者の家が焼けた。その数は、伊織の足元に積もる雪のように増えている。

 土井は机の上の朱印箱を、軽く叩いた。

「ここに印がある。これが押されれば、松代藩は帳面上救われる。借財は整理され、表向きは清廉となる。だが代償として、藩の利権は幕府の管轄に入る。――それで誰が困る?」

「藩が骨抜きになる」

「骨抜きになっても、肉が残れば生きる」

 土井は目を細めた。

「榊原伊織。お前のような武士が、骨を守りたいと言う。だが骨だけ守って、肉が腐れば死ぬ。私は肉を守る」

 伊織は、喉の奥が熱くなるのを感じた。怒りではない。悔しさだ。悔しさは、言葉を荒くする。荒くなれば、土井の術中に落ちる。

 新兵衛が横から低く言った。

「おい主計。理屈は聞き飽きた。お前が腹だろうが係だろうが、やってることは盗みだ」

 土井は新兵衛を見た。目がわずかに冷える。

「久世新兵衛。まだ生きていたか。命の値打ちは安いのに、しぶとい」

「安いなら、今ここで捨ててみろ」

「捨てる価値もない」

 土井は軽く言い、視線を伊織へ戻した。

「榊原伊織。お前は選べる」

「……何をだ」

「証を持ち帰り、富岡主膳を潰し、志摩屋を潰し、狐火を潰す。――その結果、土井主計には指一本触れられぬ。幕府は帳面を焼けば済む。お前は“正しさの英雄”になり、藩は一時の清廉を得る。だが、借財の穴は残る。穴を埋めるために、民からさらに搾り取る。反乱が起き、血が流れる」

 土井は、淡々と未来を並べた。未来を帳面のように。

「もう一つの道。お前がこちらに就け。富岡主膳の代わりに、松代藩の口となれ。お前の義を看板にして、民を納得させる。民は食える。藩は潰れぬ。――代償は、お前の心だ」

 伊織は、静かに息を吐いた。

「心を売れ、と言うのか」

「心など、元から売っている」

 土井は淡々と言った。

「武士は禄で心を売り、町人は銭で心を売る。私は帳面で心を売る。違いは、売り方だけだ」

 伊織は、主膳の言葉を思い出した。駒だ。土井も同じだ。だが土井は、駒の上に帳面を置く。帳面が盤だ。盤の上で、命が並ぶ。

 伊織は、懐にある主膳の印形袋を指で押さえた。証。武器。縄。刺さるもの。

「俺の家族はどうなる」

 土井の目がわずかに光った。

「ようやく本音が出たな」

 土井は机の脇の紙を一枚取り、さらさらと筆を走らせた。短い文言。封をする。

「この文があれば、信濃の者は動かぬ。母と妹は無事だ。娘――お澪もだ。お前が首を縦に振れば、だが」

 伊織の胸が締まった。土井は、すでに手を回している。回せる力がある。だからこそ土井なのだ。

 新兵衛が低く唸った。

「汚ぇやり方だ」

「汚い? 汚いのは飢えだ。飢えを止めるのは、帳面だ」

 土井は淡々と言い、伊織へ視線を戻した。

「榊原伊織。お前は刀で人を斬る。私は帳面で人を斬る。どちらが楽だ」

 伊織は答えなかった。答えは、胸が知っている。帳面の刃は、血が見えぬ。見えぬからこそ、人は何度でも振るえる。

 土井が言った。

「今すぐ返事は要らぬ。だが、ひとつだけ渡しておく」

 土井は机の引き出しから、小さな帳面を取り出した。薄い。だが中身は重い。伊織の前へ滑らせる。

「これは、志摩屋から土井主計へ流れた金の写しだ。――本物の帳面の写し」

 伊織の目が細くなる。

「なぜ、俺に渡す」

「餌だ」

 土井は躊躇なく言った。

「お前が持ち帰れば、藩の者は飛びつく。飛びつけば、誰が本当の敵か、もっと鮮やかに見える。――お前は波を起こせ。私は波を見て、次の手を打つ」

 伊織は、拳を握りしめた。土井は遊んでいる。人の命を盤の上で転がしている。

「お前は俺を駒にしたいのか」

「駒にしたいのではない。お前はすでに駒だ」

 土井は微笑んだ。

「駒であることを自覚した駒ほど、よく動く」

 その言葉を聞いたとき、伊織の中で何かが静かに切れた。怒りでもなく、恐れでもなく、諦めでもない。――覚悟だ。

 伊織は帳面を懐に入れ、深く頭を下げた。

「確かに受け取った」

 土井が目を細める。

「賢い。……帰れ。だが忘れるな。お前が一歩動けば、家族も一歩動く」

 伊織は立ち上がり、新兵衛と共に部屋を出た。廊下の冷たさが、肌に刺さる。役人たちは相変わらず無言で動き、帳面だけが生き物のように増殖している。

 外へ出ると、朝の光が眩しかった。眩しいほど、江戸の闇は濃く感じられる。

 新兵衛が荒い息で言った。

「どうする、伊織。あいつの餌を持って帰るか」

 伊織は、手の中の帳面の重みを感じた。餌だとわかっていても、餌は餌として使える。餌に飛びつく魚を釣り上げるのは、こちらにもできる。

「持ち帰る」

「土井の思う壺だぞ」

「壺の中にいるなら、壺を割るしかない」

 伊織は、空を見上げた。雪雲が薄く流れ、江戸の屋根の上を滑っていく。

 帳面の刃は血を見せない。

 だからこそ、血を見せてでも止めねばならぬ時がある。

 伊織はその時を、自分の手で選ぶつもりだった。

(第十三章につづく)

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