――第十章 主膳の面――
夜明け前の江戸は、いちばん嘘が薄い。
人が起きてくる前、町の顔が化粧をする前、川の流れも風も、ただ冷たくあるだけだ。伊織はその冷たさを好んだ。冷たければ目が冴える。冴えた目で見れば、刃の陰も、笑いの陰も見えやすい。
小石川へ向かう道すがら、新兵衛は何度も振り返った。追手がついている気配はない。だがそれは、追手がいないという意味ではない。見えぬようにいるのが追手だ。
「主膳の裏口から入るって言ったな」
新兵衛が囁く。
「ああ」
「入れりゃいいが、裏口には裏口の番がいる。しかも今夜は俺たちが長屋を燃やした。向こうだって気づいてる」
「気づいているなら、なおさら主膳は焦る。焦れば、人を集める。人を集めれば、隙も生まれる」
新兵衛は舌打ちした。
「考え方が逆なんだよ、お前は」
「逆でなければ、逆手は取れぬ」
小石川の屋敷地は、夜が明けても静かだった。塀は高く、門は堅く、道には武士の影がまばらに行き交う。深川の喧騒に慣れた耳には、その静けさが不気味に響く。
昨日張った裏口の木戸へ近づくと、伊織は足を止めた。雪の上に、新しい足跡がある。しかも二人分ではない。四つ、五つ――人が出入りした跡だ。
「動いてやがる」
新兵衛が呟く。
「主膳の屋敷は今朝、何かを運び出している」
伊織は塀に沿って歩き、木戸から少し離れた場所に身を潜めた。やがて木戸が開く。出てきたのは、昨夜追った女――ではない。中年の男が二人。荷を抱え、足早に路地へ消えた。荷は小さく、重そうである。金か、書付か、どちらにせよ人目につけたくないものだ。
伊織は新兵衛に合図し、二人の後を追った。
男たちは武家地を抜け、寺町の裏へ入った。そこに、ひっそりと佇む小さな庵がある。庵の戸口には、藁で編んだ札がぶら下がっている。寺の札ではない。用達しの符牒だ。
「ここか……」
新兵衛が息を呑む。
男たちは庵へ入り、すぐに出て行った。入れ替わるように、庵の奥から別の男が現れた。背が高い。羽織の襟を立て、顔を半分影に隠している。
富岡主膳。
伊織は、胸の奥が静かになるのを感じた。怒りでも恐れでもない。刃を抜く前の静けさだ。
主膳は、庵の前で周囲を一度見回し、ゆっくりと中へ入った。
「今だ」
伊織は新兵衛と目を合わせ、庵へ近づいた。戸口に番はいない。番がいないのではなく、番が“見えない”のだ。だからこそ、音を立ててはならぬ。
伊織は戸を押し開け、闇に滑り込んだ。中は薄暗く、香の匂いがする。僧の庵のようでありながら、床の間には武家の書付が積まれている。静かな場所ほど、秘密は重い。
「……来たか」
奥から声がした。
主膳は座していた。茶を一服、ゆっくりとすすり、伊織を見上げる。目は冷たいが、面は穏やかだ。笑うほどでもなく、怒るほどでもない。ただ、相手を値踏みする顔。
「榊原伊織。名を隠しても無駄だと、もう学んだろう」
「学んだのは、名を隠すより名を取るほうが早いということだ」
伊織は懐から紙束を取り出し、畳の上に置いた。藩を売る書付。印も花押も揃っている。
「これは何だ」
主膳は視線だけで紙束を見た。指では触れない。触れれば痕が残ると知っている。
「あなたの口を通った書付だ」
主膳は、ふっと笑った。
「口を通った? 若いな。書付というものは、口を通らぬ。手を通る。手を通るのは下の者だ」
「ならば下の者に命じたのは誰だ」
「命じた、などと言うな。人は命じられて動くのではない。得を見て動く」
新兵衛が一歩踏み出した。
「富岡主膳、白々しい。志摩屋の裏口、狐火、矢、火事――全部お前の匂いだ」
主膳は新兵衛を見ると、目を細めた。
「……久世新兵衛か。まだ生きていたか。捨てた犬は噛むな」
新兵衛の顔が歪んだ。
「捨てられた犬は、飼い主の喉を噛む」
伊織が言った。
「あなたが藩にしたことは、藩を救うことか、藩を売ることか」
主膳は、茶碗を置き、静かに言った。
「救うに決まっている」
「借財を他へ移し、利権を幕府筋へ渡す。それが救いか」
「藩が潰れれば、民も武士も路頭に迷う。潰れぬための“手段”だ」
主膳は、伊織の目を真正面から見据えた。
「榊原伊織、お前は正しさで人を救えると思っているか。正しさは腹を満たさぬ。正しさは雪のように白いが、雪は春になれば溶ける。金だけが残る」
伊織の胸に、父の影がよぎった。実直に生き、損をし、早く死んだ父。正しさで腹は満たせない――それは現実だ。だが現実を盾にして、人を踏みにじることは別だ。
「金だけが残るなら、あなたは人を何だと思っている」
主膳は、薄く笑った。
「駒だ」
迷いなく言った。その言葉には嘘がない。だからこそ寒い。
「駒を動かして盤を守る。それが家老の務めだ」
「盤を守るために、誰を捨てる」
「捨てぬ。必要なところへ配置するだけだ」
伊織は懐から木札を出し、畳へ放った。裏に刻まれた一文字――富。
「弥吉を斬ったのは、あなたの手の者だな」
主膳の目がわずかに動いた。初めての揺れだった。
「……その名を出すな」
「弥吉は俺の使いだった。信濃へ走らせた。母と妹を守るために」
主膳の口元が、ほんの少し歪む。
「守るため? 呼び寄せて人質にするためだろう」
伊織は一瞬言葉を失った。痛いところを突かれた。
主膳は続けた。
「お前は自分の手を汚しておらぬと思っている。だがもう汚れている。長屋に火をつけたのは誰だ」
新兵衛が舌打ちした。
「それは俺たちが――」
「黙れ」
主膳は静かに言ったが、その声には刃があった。
「狐火を責めるな。狐火はお前たちの姿だ。火で人を動かす。恐れで人を縛る。正しさを口にしながら、やることは同じだ」
伊織の喉が乾いた。反論はできる。だが反論をすればするほど、自分が正しさに縋っていることが露になる。
主膳は畳の紙束を指先でつまみ、ようやく触れた。
「証は揃ったな。……で、お前はそれをどうする」
「藩へ戻し、内膳もあなたも裁く」
主膳は、声を立てずに笑った。
「裁く? 誰が?」
「藩主だ」
「藩主は病で臥せっている。家中は割れている。お前が証を持ち帰れば、誰が先にお前を斬るかの競争になるだけだ」
伊織は知っていた。だから江戸にいる。だから名を取っている。
「では、どうすればいい」
主膳の目が、じっと伊織を捉えた。
「お前がこちらへ来い」
伊織は、刀の柄を握りしめた。
「取り込む気か」
「取り込む? 違う。お前は駒として使える。義を語り、民を憐れみ、家族を守る顔ができる。そういう駒が必要だ」
主膳は穏やかに言った。
「榊原伊織、お前は真実を知った。ならば選べ。正しさで皆を滅ぼすか、汚れた手で皆を生かすか」
その言葉は、甘い毒だった。救いの顔をして、魂を買う言葉。
伊織は、息を吐いた。
「……あなたの上は誰だ」
主膳の目が細くなる。
「上?」
「あなたは口にすぎぬと言った。誰の口だ」
主膳は黙った。沈黙は肯定だ。
伊織は畳に身を沈めるように一歩踏み込み、低く言った。
「言え」
その瞬間、庵の壁が、ぎし、と鳴った。
気配が増えた。外に人がいる。囲まれている。伊織は悟った。ここへ来た時点で、主膳は逃がす気などなかったのだ。話をし、心を折り、折れぬならここで始末する。
新兵衛が歯を剥いたように笑った。
「やっぱりな」
主膳は、静かに立ち上がった。刀を抜かない。抜かずに人を殺せる立場の男だ。
「榊原伊織。お前は賢い。だから生かしてやりたい。だが賢い者ほど、余計なところまで見てしまう」
主膳は、畳の上の紙束を手に取り、火鉢の上へかざした。
「これが燃えれば、お前の証は消える。お前が黙れば、お前の家族は守られる」
伊織の胸に、冷たい刃が入った。
(家族――)
主膳は囁くように言った。
「信濃に手は回してある。母と妹が江戸へ向かう途中で“消える”こともできる。だが、お前が首を縦に振れば、消えぬ」
伊織は、息を止めた。喉の奥が熱くなる。怒りではなく、恐れだ。恐れは、人を折る。
そのとき、庵の戸が外から叩かれた。
「主膳様。――火事です」
主膳の眉が、わずかに動いた。
「火事?」
「小石川の下屋敷の方角で火が上がっております。町方が動き始めました」
主膳は一瞬考え、紙束を火鉢から引いた。火事は厄介だ。大事になれば、幕府の目がこちらへ向く。狐火で動くつもりが、町方の本火に巻き込まれれば、計算が狂う。
伊織はその一瞬の揺れを逃さなかった。
懐から火打石を取り出し、畳に落とした。わざと音を立てる。外の気配が動く。
「何をする」
主膳が言いかけた瞬間、伊織は新兵衛に目配せした。
新兵衛が庵の障子を蹴破り、外へ飛び出す。外にいた者たちの怒声。刃の音。混乱。火事の報せと相まって、動きが乱れる。
伊織は主膳へ踏み込んだ。刀は抜かない。抜けば殺し合いになる。ここで欲しいのは首ではなく、名だ。
伊織は主膳の手首を掴み、紙束を奪う。主膳は驚くほど強かった。老獪な家老は、筆だけで成り上がったのではない。腕もある。
「榊原!」
主膳の声が初めて荒れた。
伊織は低く言った。
「あなたの上の名を言え。言わねば、今ここで――」
「今ここで何だ。殺すか? お前が?」
主膳は笑った。だがその笑いは、余裕ではなく、怒りに近い。
「お前は殺せぬ。お前の義が、手を止める」
伊織は、目を逸らさなかった。
「ならば、私は義のためにあなたを殺さぬ。その代わり――義のために、あなたから名を奪う」
伊織は主膳の懐を探り、印形の入った小袋を掴んだ。主膳の体がわずかに硬直する。印形は命だ。印形を奪われれば、命令が出せぬ。命令が出せねば、上の者へも顔が立たぬ。
「返せ」
主膳の声が低くなる。
「上の名だ」
主膳は歯を食いしばり、目だけで伊織を刺した。
外で新兵衛の怒声が響く。追手を引きつけている。長くはもたぬ。
主膳が、ついに吐いた。
「……上は、幕府勘定所の――土井」
「土井……何だ」
「土井主計」
伊織の胸に、重い石が落ちた。幕府勘定所。土井主計――勘定所の役人が、藩の借財を操り、利権を抜き、志摩屋を通じて金を回す。藩の腐りは、藩の内だけではなかった。幕府の腹へ繋がっている。
その瞬間、庵の外で笛が鳴った。短く、二度。狐火の合図ではない。町方の合図だ。火事の動きが早い。
主膳が低く笑った。
「聞いたな。……ならばお前は、もう生きられぬ」
伊織は印形の袋を握ったまま、身を翻した。
「新兵衛、退く!」
新兵衛が庵へ戻り、血のついた口元で笑った。
「面白くなってきやがった」
二人は庵の裏手へ飛び出した。夜明けの空気が肌を切る。遠くで火の赤が揺れ、町方の足音が増える。狐火の闇と、幕府の火がぶつかろうとしていた。
伊織は走りながら、胸の奥で名を刻んだ。
――土井主計。
富岡主膳は口。志摩屋は管。狐火は手足。
そして、腹の中に座っているのは、幕府勘定所の土井主計。
波瀾万丈の嵐は、藩の内乱では終わらない。
江戸の中心――幕府の腹へ、刃は向かう。
(第十一章につづく)

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