――第八章 富の影、血の証――
お澪の肩の傷は深くはなかったが、矢が肉を割いた痛みは容赦がない。伊織は夜更けの深川を走り、鳶の親方の伝手で、口の堅い町医者を呼び寄せた。医者は短く呻くように「運がいい」と言い、矢傷を洗い、焼酎で消毒し、薬草を当てて布で固く巻いた。
「しばらくは熱が出る。三日、四日は動かすな。腕を上げれば裂ける」
医者はそう言い残し、銭を受け取ると、来た道を戻っていった。金で口を塞ぐことには慣れている様子だった。江戸の夜の医者は、命を救うよりも、厄介を遠ざける術に長けている。
伊織はお澪の枕元に座った。お澪は苦しげに息をつき、ときおり額に汗が浮かぶ。それでも目を開け、伊織を見ると、弱々しく笑おうとした。
「……大丈夫です。わたしは……」
「喋るな」
伊織は低く言った。だが、その声は先ほどとは違っていた。怒りではない。自分への苛立ちだ。守ると言いながら守れぬ、その無力への。
長屋の外では、遠くで半鐘の音が鳴り、犬が吠えた。火事の名残か、捕り物か、江戸は夜でも眠らぬ。眠らぬのは人だけではない。闇もまた、息をしている。
伊織は立ち上がり、隣室へ行った。新兵衛が火鉢の前で、腕組みをして待っていた。目が鋭い。寝てなどいない。
「坊主の寺を襲ったって?」
「矢が飛んだ。お澪が負った」
新兵衛は歯を鳴らした。
「……やりやがったな。狐火の本気だ」
「富――で始まる名が核心だと言っていた」
「富で始まる江戸詰家老……候補はある」
「言え」
新兵衛は、少しだけ視線を落とし、低く言った。
「富岡主膳」
伊織の胸が、どん、と鳴った。
「主膳……」
「江戸詰の家老衆の中でも、金の匂いに敏い男だ。表では清廉ぶって、倹約だの民を思えだの言う。だが裏では志摩屋とつながってるって噂がある。証はない。噂だけだ」
「噂でもいい。手がかりが要る」
新兵衛は、火鉢の炭を箸で突いた。
「手がかりは二つだ。ひとつは志摩屋。もうひとつは、主膳の屋敷の裏口」
「裏口?」
「屋敷ってのはな、表に出る顔と裏に出る顔がある。裏口に出る奴の名簿はどこにも残らねぇ。だが出入りは必ずある。米、薪、女、金――」
伊織はうなずいた。
「主膳の屋敷はどこだ」
「小石川。上屋敷だ」
「……遠い」
「遠いからこそ、目が届きにくい。深川の狐火が手を伸ばしてるのは、むしろそっちだ」
伊織は、拳を握った。小石川――武家地の中枢。浪人がうろつけば目立つ。だが、そこへ行かねば名に触れない。
そのとき、戸が小さく叩かれた。
新兵衛が立ち上がり、戸を少し開ける。隙間から覗いたのは、鳶の親方の弟分――弥吉ではない。別の若い衆だった。顔色が悪い。
「新兵衛兄ぃ……大事です」
「何だ」
「弥吉が……戻りました」
伊織は立ち上がった。
「戻った? 信濃へ行ったはずだ」
「戻ったんじゃねぇ。……運ばれてきた」
新兵衛が顔を歪めた。
「どこだ」
「親方んとこです。今……」
伊織は何も言わずに外へ出た。冬の空気が肺を刺す。走るたび、脇腹の古傷が疼く。だが止まれない。
鳶の親方の家へ入ると、土間に布団が敷かれ、そこに弥吉が横たわっていた。顔は青黒く、唇が乾き、目だけがかろうじて開いている。腹のあたりに血の染み。刃物でやられていた。
「弥吉!」
伊織が膝をつくと、弥吉は苦しげに息を吐き、笑うような顔をした。
「……旦那……間に、合わねぇかも……」
「何があった。信濃は」
弥吉の喉が鳴った。
「道中……関所を越えた辺りで……尾けられました……」
「誰に」
「……わかりやせん。だが……武士の足でした……」
伊織の胸が締めつけられた。
「母と妹は」
弥吉は目を泳がせ、かすれ声で言った。
「……信濃へ、着く前に……引き返しました……追われて……」
「引き返した? ここへ?」
弥吉は首を振る。
「……俺だけ……逃げて……知らせに……」
伊織は歯を食いしばった。弥吉がここにいるということは、敵が弥吉を泳がせて「知らせ」を運ばせた可能性もある。だが弥吉の目は、嘘をついている目ではない。ただ、生きたい目だ。
弥吉は懐から、小さな布包みを震える手で差し出した。
「これ……途中で……拾いました……俺を斬った奴が……落とした……」
伊織が受け取ると、布の中から薄い木札が出てきた。符牒。だが松代藩のものではない。角の欠け方、刻みの形――幕府の用達しが使う印に似ている。
そして、裏に小さく刻まれていた一文字。
――富。
伊織は、息を止めた。偶然ではない。弥吉を斬った者は、富岡主膳の手の者か、主膳へ通じる者だ。
「弥吉、よくやった」
伊織が言うと、弥吉の目がふっと緩んだ。
「……旦那……家族を……守って……」
その言葉を最後に、弥吉の目は閉じた。息はまだある。だが薄い。親方が呻く。
「医者を呼ぶか」
「呼べ」
伊織はそう言ったが、胸の底ではわかっていた。弥吉は長くない。命を繋げても、元の体には戻らぬ。江戸の闇は、こうして人の足を折る。
伊織は布包みを握りしめ、親方の家を出た。外は白い月。川風が冷たい。だが伊織の中には、熱いものが燃えていた。
(富岡主膳……)
名が、形になった。噂ではない。血の証だ。
長屋へ戻る途中、伊織は老僧の言葉を思い出した。
――名を取れ。首ではない。名を。
伊織はいま、名を取った。だが名を取った分だけ、敵はさらに先を打つ。信濃へ伸びる手。弥吉を斬った刃。お澪の矢傷。すべてが、伊織の心を折るための手段だ。
長屋に戻ると、新兵衛が待っていた。伊織は木札を投げるように見せた。
「見ろ」
新兵衛は札を見て、顔色を変えた。
「富……こいつは……」
「主膳の影だ」
新兵衛は唸った。
「いよいよ、確信になったな」
伊織は言った。
「小石川へ行く」
「今すぐか」
「今すぐだ。先手を取られる前に、主膳の裏口を押さえる」
「お澪はどうする」
伊織は、隣室の障子を見た。向こうに、かすかな寝息が聞こえる。布団の中で熱にうなされる女がいる。その女の存在が、伊織にとって弱みであり、同時に――守るべき灯でもあった。
「置いていく」
新兵衛が眉を上げる。
「置いていけば狙われる」
「連れていけばもっと狙われる」
「じゃあどうする」
伊織は一瞬、目を閉じた。
「老僧の寺へ戻す。あそこはまだ、狐火が慎む。寺を焼けば目立つ。――今夜はまだ焼けない」
新兵衛は苦く笑った。
「江戸の闇も、世間体は気にするってか」
「闇にも表がある」
伊織は立ち上がった。
「新兵衛、段取りを頼む。小石川へ入るには、浪人の足では目立つ。武家地を通る手が要る」
「……知ってる道がある。俺が案内する」
伊織は頷いた。
決戦ではない。だが、ここから先は戻れぬ。富岡主膳の裏口へ踏み込めば、藩の命運と自分の命が、一本の糸で結ばれる。
外では、深川の夜が相変わらず冷たい。だが伊織の歩みは、迷いを捨てていた。
――富の影に、血の証がついた以上、
逃げる道は、もうない。
(第九章につづく)

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